lack - 欠乏
「やあ」
いつも通り彼はそこにいた。
叩けば綿が舞いそうなソファーに座っていた。僕が膝を抱えて座るとそれはもう鈍痛に近い灰色なのに、彼だと途端にアッシュグレイという洒落た言葉が相応しくなる。彼は膝を抱えたりはしないから。
長い足を放り出していると、そのハイカットスニーカーがやんちゃにみえて、彼は僕と同じ年端のいかない学生なのかもと思う余地もでてくる。
反対に足を組んでいると、体も心も少年の域を出ない僕とは違って、ふしぎな大人っぽさを醸し出す。
ただやはり気になるのは、彼のその右手首だった。
少年にしては重過ぎるし、かといって彼の色気を引き立てることもしない、ずんぐりとした色。ちぎれた鎖の中途半端さも、場違いだということに気付いていないようだ。
その手錠は完全に彼から浮いている。
もちろん、この空間そのものには、よく馴染んでいるけれど。
「君はなんでそんなものをしてるの」
きいてみた。
彼は澄んだ青い眼を僕に向け、そして右手を持ち上げる。
「これかい?」
「うん」
いくらモノトーンをお洒落に着こなしてしまう彼でも、そのアイテムはファッショナブルとは思えない。
彼に枷は相応しくない。何物にも束縛されることのない、いやそもそも彼を束縛できるものなど存在しないのだと思う。
「意味はあるよ」
彼は相変わらず微笑んでいた。
はぐらかすなんて彼らしくないと思った。
「へえ。どんな意味?」
「わからない」
「え?」
「わからないものの象徴だよ。僕はなぜこれを身につけているのか分からない。理解できないものは常に一番近くにあることを覚えておくために、僕はなぜ身につけているのか分からないこの鎖を身につけているんだよ」
彼は穏やかな口調で語った。僕には彼の言うことがよくわからなかった。
「君にもわからないものってあるんだね」
本音だ。
青い目が広大な空を表すなら、それを肉体のいちぶとして生まれ持った彼の存在は宇宙とも言える。僕はそう思う。
彼なら宇宙を統べる英知をもつに相応しい、そしてそんな神々しい空気を彼は纏っているから。
「当然あるさ。僕は全能の神ではないからね」
人間でもないでしょ。今度の本音は喉の奥で止めた。卑屈だから。
この場合の人間とは僕と同じ種類のいきものということだ。
彼は自分の右手首にやっていた視線を上げて、僕に笑いかけて、
「触れてみて」
手を差し出した。
鈍い、色として澄んだものを一片も感じない、混沌とした手錠。
「なぜちぎれているのかわからないんだ。もしかしたら僕は囚人で脱走してきたのかもしれない。或いは奇抜なファッションを好んでこれをアクセサリーとして選んだのかもしれない。または、そういう趣味があったのかも」
「え!?…」
彼がまさかそんなことを言及するとは思わなくて、素っ頓狂な声を出してしまった。
彼はまた穏やかに、やや可笑しそうに言った。
「冗談さ」
この間彼が僕にしたことを思い出す。
体が不自然な熱を帯びるのが、なんだか怖い。
異性ともああいう経験がなかったから、僕の感想は間抜けなものだ。単純に、あの感触の柔らかさに驚いた。
彼はどこで、あんなことを覚えたのだろう。
ただ唇をつけるだけの簡単な行為なのに、疑問でならない。
「どうしたんだい?」
「あっ、いや…」
「僕の顔に何かついているのかな」
「ち、違うよ…その…」
彼の目がきれいすぎて、僕の目なんかは逸らすしかない。
やっぱり彼がそんな手錠をしているなんておかしい。むしろ僕がすべきじゃないのか。僕の方が相応しいだろうに。
僕にキスした彼はこんなに美しいのに、彼の言葉に想像を膨らませただけの僕はこんなに不純だ。
彼に向き合っていられなくて背を向ける。
こんなに心中混乱している僕は、醜い。彼に向き合う人間はこんなんじゃいけない。
改めてこのソファーはボロボロだなあと思う。
そんな僕に、彼の声が降り注ぐ。
「僕を見て、そして触れて」
肩に手が置かれたと思えば、視界の中央に彼が映っていた。
僕がどれだけ気まずく思っていても、その意識とは無関係なところで彼を求めてしまうのだろう。こんなにも違うのに。こんなにも違うから。
「君にそっぽを向かれたら、僕は悲しくて消えてしまうよ」
彼はいつものやさしい微笑で僕を見つめる。
肩に触れた彼の左手が、僕の右手をとった。軟弱な関節を白くて洗練された指先がなぞる。その感触があまりに心地よくて、でも呑まれたくなくて、僕は苦し紛れの言葉を探した。
「…消えないって言ったじゃないか。この前。僕が消えるまで消えないって」
「それとこれとは別だよ。僕は君がいないと生きていけない。いや存在できないのさ」
「どういうこと?依存ってこと?」
言った瞬間違うと思った。この依存という表現は違う。
彼が僕に依存しているわけはない。僕に触れた手、依存するものの手が、こんなにあたたかいなんて有り得ない。
依存は、僕の方だ。
「わからないことばかりだよ」
絡まった指が解け、そして僕の鈍い手をその場所へといざなう。
やはり彼が何をわからないのか僕にはわからない。だってわからないと口にする彼はこんなに落ち着いている。
僕には彼がわからないけれど、彼を求めるし、彼に触れる。
それもわからない。
その手首の枷は、さっきまで僕の手が触れていたものがつくりものだったのかと思う程に、つめたかった。
彼の体温を奪い続ける、まさに枷。
「でも君がいてくれるから。君が触れてくれるなら、意味のないものが意味をもつ。わからないことを受け入れられる。僕は僕でいられるんだ」
彼は満ち足りた目で僕を見た。相変わらずの微笑は、僕を相変わらず虜にさせる。
「こんなもの付けてて不安にならないの?」
また本音が口をついて出た。彼は微笑のまま、僕の目を覗き込む。
覗き込まれた僕の目はやっぱり泳いだ。
「だってこれ、すごく冷たいよ」
痛いくらいに。
彼のあたたかい温度が奪われ尽くしたら、彼はどうなるのだろう。消えてしまうのだろうか、僕より先に。
そう思うと手錠から指先を離せなかった。彼より先に消えるのは、消えるべきは僕なのだから。そう彼が言ったじゃないか。彼が消えるのは僕が消えてからだと。
なのにこの手錠が彼を消す、消すかもしれない。
「不安なのかい」
彼の声は穏やかすぎだ。触れ合っているのに、別の時空を生きているかのよう。
僕はばかみたいだ。
「…わからないよ。そんなこと。わからない」
彼に八つ当たりしても仕方がないのに、僕は駄々をこねる。
何をわからないのかわからない僕を彼ならわかってくれると勝手に思っている。
わかるのは、そう。
彼のこの右手首の手錠が、つめたいことだけ。
「…そう君がいうなら、これは冷たいんだろうね。これが冷たいということか」
彼の言葉は思いがけないものだった。
僕は弾かれたように顔をあげる。変わらずの微笑、彼の目。
澄んだ青が、筋雲ひとつない晴れ渡った青空が、無性に怖くなった。
わからないと言って、わからないということを知っている君は、全て知っているんじゃないの。
そんな君がなぜ、僕を基準にするというのだろう。
「冷たくないの?」
「いや、冷たいよ。君がそう言ったからね」
「僕なんかどうでもいいよ。君がどう感じてるかって話だ」
彼のような流暢な冷静を真似てみる、けれどやはり僕と彼は違った。僕の声には凜とした響きはなく、ただ雀が地べたを這っているようだった。
彼は微笑みかけた。空色の朱鷺がわざわざ地上におりて、雀にくちばしを傾ける。
「言葉はとても不確かなものだよ。そしてこの手の感覚もね。僕の、自分ひとりの感覚は、とても不確かなものなんだ。感覚はどうしても事実に劣る、派生品でしかないからね」
彼が右手を開いては閉じ、閉じては開く。手の平のしわがくっきり現れ、そして伸びる。
その運動が催眠誘導のように僕を引き付ける。
「君の感じる冷たいと、僕の感じる冷たいはイコールかどうか、僕にはわからないのさ。太陽をみてつめたいと感じる人とあたたかいと感じる人とでは、この枷も正反対の意味と感覚をもつことになる。結局この鎖が冷たいかどうかはわからないんだよ」
彼は僕のために簡単な言葉で例えを示してくれている。いつだって優しい言葉を選んでくれる。
でも僕にはまったくわからない。
「つまりそれは冷たくないってことなの」
彼が言いたいのはそんなことじゃない、分かっているのに、僕はつっかかってしまう。
だって彼の目が僕を見ているから。
その青はつめたいのか、あたたかいのか。わからない。
「もういいよ、どうでもいい」
混乱する。疲れる。
それから逃れたい一心で僕は彼から目を逸らした。きっとこのあと彼は悲しげに笑うのだろう。
分かっている、彼のこと。
彼のことは、分かるのに。
「冷たいとか冷たくないとか、もういいよ。言わなければいい。感じなければ無いのと同じだ」
「それは寂しいよ」
「寂しい?君の言う寂しいってなんなの?どんなかんじなの?」
「落ち着いて」
「落ち着くってなんだよ。君みたいになれって?達観しろって?無理だよ僕は君じゃない!」
舌の付け根が熱くなる。鼓膜の奥が痛くなる。目の奥が軋む。
僕は何を言ってるんだろう。
彼にこんなことをぶつけて。
ままよとばかりに顔を上げて、案の定微笑の消えた彼と出くわした。
こんなに悲しそうな青を見るのは、はじめてだった。
そうだ、僕は雀で、彼は朱鷺なんだ。
もし僕がこのまま感情にまかせて目茶苦茶なことをまくし立てれば、彼は呪いによって泡となって消えてしまうような気がした。あの童話よりも儚く、残酷に。
その目で、彼は変わらず僕だけを見てくれているけど、僕には彼を見る勇気はなかった。