表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
inexperienced boy  作者: 紅蓮
1/3

leave - 置き去り

「置き去りなんだ」

僕は呟いた。

広い広い空間、当たり前にそこにいる彼は僅かに頭を傾けて、覗き込むように僕を見つめた。

「君は僕と、ここにいる。それじゃだめなのかい?」

「だめじゃないけど」

「寂しい?」

「…」

言葉に詰まった。

だってここは君の世界だろ。そう言いかけて飲み込んだ。

彼をきらいなわけじゃない。非難したいわけじゃない。喧嘩したいわけじゃない。八つ当たりなんて虚しいだけだ。

「ここへおいで」

彼は自分の隣を指差した。くすんだソファーだった。

彼の言葉も指も視線も、すべて僕に繋がる糸だ。僕をいざない、みちびく糸。

彼はいつでも微笑んでいる。


今日も僕はそこへ向かう。

体は超自然的に動いていく、どことも知れないその場所へ。

広い広い、本当に広い空間。

真ん中に一本の樹があって、あとはボロボロの長ソファーと本棚、それにキャスター付きのでかい黒板があるだけ。他にはなにもない。こんなに広いのに。

先の個体がぽつりぽつりと点在するだけ、あとは荒廃したアスファルトが続く。黒板があるから中学校の教室なのか、はたまた荒野の中に簡易的に設置されたスタジオなのか、それ以前に四方を壁に囲まれた部屋なのかどうかさえ、わからない。

でもそんなことは僕にとってはどうでもいい事なので、詮索して解明しようという意欲も皆無だ。


「やあ」

彼は当たり前にそこにいた。

「立ち尽くしていないで、こちらにおいでよ」

「うん」

彼のかっこうはだいたい決まっていた。

いつも同じなのは、チェックのハイカットスニーカーと男性ものにしてはタイトな黒パンツ、それに黒の長袖Tシャツ。日によって違うのは、その上にワイシャツを羽織っているかいないかくらいだ。

アクセサリーには思えないような、右手首のちぎれた手錠の鈍色も、いつも同じ。それだけが彼の容姿のなかで唯一浮いている。

色のない空間で、彼は同調するようにモノクロだ。彼の髪もまた色素を抜かれてしまっていた。

でもだからこそ、彼の目の青が鮮烈に際立つ。

僕の目のいろは本当に凡庸だ。

いやみにも思えない程整った顔立ちとスタイル。蝋人形のように白い肌。長い足。しなやかな指。澄んだ、でも重厚な青の眼。

骨格と筋肉の成長の未熟さだけが、僕との年齢差がそう開いていないことを表している。

これが僕が知る、彼のデータのすべて。

それと、彼はいつでも微笑んでいた。


「君はどうしていつもここにいるの?」

何となくきいてみた。

答えなんて別にどうでもよかった。具体的になにかを求めているわけではないし、彼なら完璧な解答をするだろうから、若しくはそんなものがなかったとしても僕を納得させてくれるだろうから。

そう、僕は納得したいんだ。

「なぜだろうね。考えたこともなかった」

彼は微笑のままさらりと言った。

「嘘だよ。考えることしかしていない。僕は暇なのさ」

彼らしくないジョークだと思った。ジョークなんて軽々しいものを、僕は彼の発する言葉の中に見たくはなかった。

彼は口元を柔らかく崩して笑う。

「君は子猫みたいだね」

「あんなのとは違うよ」

そう言葉を捨てた。

あんなに愛らしくて無垢な生き物と一緒にされるなんて冗談じゃない。ぼくは可愛がられるような人間じゃない。

「ここにおいでよ」

彼は再び僕を誘った。

「そことここじゃ話しづらいからね。おいで」


距離が近くなると、ますます彼の持つオーラに圧倒される。彼はそれこそ僕と一緒のいきものじゃないような気がする。

それだけの神秘的な存在感を纏う彼は、僕が隣に座るのをじっと見ていた。

「そう」

彼はふっと笑った。きれいな顔だなと思った次の瞬間、視界がぼやけた。

目の前の彼の顔が思いがけず近距離で焦点がなかなか合わない。わかるのは彼の青い目がみえないこと、彼の睫毛は長いこと、そして唇に柔らかい感触が押し当てられていること。

咄嗟に息をするのを止めていた。

息苦しくなるより早く彼は離れた。

何をされたのか理解できないわけではなかったから、戸惑う。

「さっきの質問の答えだよ」

動揺する僕に、相変わらず微笑んでいる彼。

「ここにいれば君に会える。ただそれだけさ。君が来たときに僕がいなかったら、君は悲しむだろう?だから君より早くここに来る。ここにいるのさ」

真っすぐ僕を見つめる彼の眼差しは、いつもと微塵も変わらない。

真摯で穏和で、悠久を流れる白河のような。

あまりにも高貴で、眩暈がした。

やさしい声が、僕をどうしたって卑屈にさせる。

「嘘だ」

動揺を隠そうと咄嗟に出た言葉だった。

彼は少し表情を曇らせる。

「僕が君に嘘をつくと思うのかい?」

「そうじゃなくて、こんなこと全部嘘だ」

微笑のよこで彼の眉が下がるのに申し訳なさを感じるけれど、僕は彼みたいに大人びた余裕を感情に持ち合わせていない。

「君も僕も、この場所も、全部嘘なんだ」

笑みを絶やさないはずの彼は、青い目を伏せる。

ここはひどく殺風景だ。

無色で、かといって透明なんかとは程遠い空気。乾燥した感触。鼓動が、動いているものがない。

こんなさびしい場所で、彼だけ。彼と僕だけ。

僕がここに来てしまうことも。彼が僕を待っていてくれることも。僕が彼と言葉を交わすのも。彼が僕にキスをしたのも。

どうしたって嘘だ。嘘じゃなきゃ困る。

「僕は…」

手を固くにぎりしめる。

爪が柔らかい手の平に食い込んで、ゆるりとした痛みと共に心地よさが広がる。

「君はいつでも冷静だから、僕だけ置き去りだ」

彼を責めたいわけじゃないのに。

「取り残されてる。誰も僕を見てくれない」

吐露は見苦しい。特に僕なんかのは、目も当てられない。

だから拳を開けなくて、でもそれをどこかにぶつけることもできなくて、ああほらやっぱり弱虫なんだと客観視した。

こんな僕を見てくれる人なんていない。

こんな僕だから見てくれる人なんているはずない。

なのに、ここはここにある。

彼は僕の目の前にいる。こんなにもはっきりと見える、その青い瞳。

「…僕は君が好きだよ」

彼の声は、春の陽だまりを喚起させた。具体的には思い出せないけれどこんな感じだったなあと思った。

イメージしようとした途端になぜかハチミツのけだるい味が込み上げて来て、少し自分に嫌気がさした。

僕は水をおくれとばかりに彼の目に縋る。

かたく握った拳を振り上げながら。


なまじ重力に逆らったものだから、僕の腕はすぐに垂れ下がった。

その拳が彼を掠めることすらなく。

そんなことが目的じゃないから、それはいいのだけれど。

そうだ、目的なんかない。

僕に目的はなく、だから僕に理解者はいるはずもない。

「僕はなんなんだ」

そう分かっているのに、ここがここにあるから。彼がそこにいるから。無機質な中で一点の青が僕を待っているというから。

「嘘だ、もう全部嘘だ、消えてなくなればいい!」

弱虫はただ何も殴らない拳を固めることしかできない。女々しい言葉と共に。

「混乱しているんだね」

土砂崩れみたいに喚くだけの僕に対して、君の声は新雪のように柔らかくて、泣きそうになる。

「君が消えろと言うなら消えよう。だけどそれは君が消えた後だ」

彼の言葉が少し胸を刺した。

彼の口から消えるという単語が本来の意味が持つ雰囲気そのままに出たことが悲しかったからだ。そしてそれを彼に言わせたのが僕だという事実がまた、胸を泥色に侵食した。

それでも彼は笑いかけていた。

目の前の僕に向かって。僕の凡庸な黒を見つめて。

「だからこの手を開いて」

彼の白い指が、捲りあげた袖を伝って僕の褐色の手首から下を撫でる。その先にある頑固な手の甲を、彼の手は包み込んだ。

「こんなにきつく握っていては、手の平を傷つけてしまうよ」

彼の視線が僕の目から手に移ったので、少し息をはいた。

でも伏せ目になったせいで彼の睫毛が見えて、また動揺した。手が触れあって彼の体温を直に感じているから、余計に顔が熱くなる。

視線を泳がせても無感動な景色が広がるばかりで、そのギャップに辟易していくらか気持ちが落ち着いた。

なんとか声を発する。

「…いいんだ、僕の手だもの」

「君はよくても僕がよくないんだ」

彼はにっこりと微笑んで僕を見る。

「君の手だからね」

彼の手は、声は、目は、僕を丸ごと包んでしまう。

魔性とは違う、威圧とも違う。ただそこにいて、大気の流れに沿うように引き付けられる。

必然だった。

僕が解いた、赤く爪の跡が残る手の平を、彼は優しく撫でてくれた。


彼は僕を好きだと言った。

それは恋愛的な好きではないと思う。恋愛なんてしたことがない僕にはわからない世界だけれど、断言できる。

そもそも彼と僕は同じ性別だし、仮にそういう嗜好があるとしても、彼の僕に対する心はそんな俗物とは程遠い気がした。対象が僕だから、ではなく、彼だから、そんな人間の欲求とは一線を画したところにあるものなのだろうと思うのだ。

そしてそれは当然、僕なんかには持つことのできないもの。

だから僕は、君に好きだよと返すことはできない。

「はぐれてしまったんだね」

君の声が僕の内側を落ちていく。少しも引っ掛かることなく、僕の内臓の形に沿って流れてくれる。

それがなんだか、寂しかった。

路地裏でちいさく鳴く小汚い子猫が浮かぶ。

か細い声がうるさい。

僕は笑っていた。

「君が言うなら、そうなのかもしれない」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ