灌水
「どうしたの?」
綺麗な顔に傷をこさえた後輩が、ムスリと口を引き結んでやってきた。転んだのか、何かにぶつかったのか。袖口に少し血が付いているから見えない所にも怪我をしているのかもしれない。心配ではあるけれど、答えず口を尖らせる姿に喋りたくないのだろうと再び問い返す事はせず、手にした如雨露に水を入れた。重くなったそれを抱えて後輩の立つ方へ足を進める。近くで見れば尚一層痛そうに見えるその頬に手を伸ばすと、一文字に閉じられていた唇がぐにゃりと歪んだ。
「……クラスのやつに、おれと先輩じゃ吊り合わないって……言われた」
「あー」
成る程。その傷は僕みたいなうっかりでついたものじゃなく、喧嘩によってついたものだったのか。じゃあちゃんと手当てした方がいいんじゃないかな。いやでもそんな、喧嘩をするような子には見えないけどなぁ。
なんてぼんやり驚いていると、泣きそうになっていた後輩の目がつり上がった。
「……まさか先輩も同じこと言われたりした?」
そう言えばいつだったか似た台詞を僕も言われたような気がする。……いつだっけ。彼から告白され付き合うようになってから何回かあったような気はするけれど……。
首を縦に振った後横に傾ける。憤慨して誰に言われたのかと詰め寄る後輩には悪いが全く思い出せない。ごめんね、と柔らかい髪を撫でれば困ったのと嬉しいのとが混ざった複雑そうな顔をされた。
後輩から手を離して如雨露を持ち直し彼の後ろにある花壇の前に立つ。花一つ一つにゆっくりと水をかけていくと後輩がぽつりぽつりと話し始めた。僕らの周囲の人間へ文句と、そして僕がいかに素晴らしいかを語る。その眉間には不服だとばかりに皺を作って。
そんな表情をしているのに、咲く花を見詰めながら語る様はなんとも絵になる。凄いなぁ、と感心している内に、話の内容が僕への賛辞になってきた。
この後輩は度々僕に対して美辞麗句を並べ立てる。よく分からないがそれら修辞は極々平凡な僕に使うような言葉じゃないと思うんだけどなぁ。
まだ続く話をふんふんと聞きつつ目の前の花々へ水をやる。その途中、小さく低い声で何か言うのが聞こえて顔を上げると、後輩はどうかした?と嬉しそうに笑った。あんまりにもいい笑顔だから別に聞き返さなくてもいいかと頭を振る。それでも話をねだる彼に少し考えてから、以前より不思議だった事、何故自分をそんなにも好いてくれているのかを問うた。
また綺麗やら可愛いといった凡そ僕には似つかわしくない台詞を言われるがどうにもしっくりこない。疑問が浮かぶまま、溢れる言葉の洪水に逆らって口を開いた。
「きみは僕に沢山の言葉をくれるね」
「おれにとって先輩は花なんだ。だから惜しみ無く愛という名の水を注ぎたくなるんだよ」
花か。そうか。確かに花は愛でるものだしね。
常のようにロマンチックで、少々キザっぽい台詞に少し納得する。でも注意が一つ。
「花はね、水やり過ぎると逆に枯れちゃうよ」
「……つまり?」
「う〜ん、とー」
何が言いたかったんだっけ。
ちゃぷんと鳴った如雨露に意識が取られ、止まっていた水やりを再開する。無言が続く中、窪んだ土に水が溜まっているのを見てあぁ、と思い出した。
「きみの愛は僕にはちょっと水分過多かな?」
「……じゃあどうすればいい?」
後輩がくれるものは嫌なものではない。だが多過ぎて受け取るのが少し大変だったりする。そんなにいっぱい貰っても、どうすればいいのか分からないのだ。
背後で不安そうに声を震わせる後輩にどうしたものかと考える。そうして如雨露を傾けて。鼻を擽る湿った土と青葉の香りにふとひらめいた。
「多い分、僕がきみに水をあげるのはどう?」
貰ってばかりで申し訳なかったし。ずっと貰うばかりだった僕の分と、沢山与えるばかりだった後輩の分。足して割って互いに与え合うなら丁度いい気がする。我ながらいい提案じゃなかろうか。
少な過ぎず多過ぎず。花毎に適量な分の水をかけ与えては手を止める。光を受けて雫がキラキラと輝くのを眺め、軽くなった如雨露を振り水を出し切って後輩へ振り返った。
顔を見ればびっくりした表情で固まっていてどうかしたかと首を傾げる。僕の肩の辺りに伸ばされていた手へなんとなくポンと自分の手を重ねるとギュッと握られ引っ張られた。そのままギュウギュウと抱き締めてきたので取り敢えず自分も抱き締め返す。後輩が肩口に顔を埋めたままもごもごと何か言っているが聞き取り辛い。聞き返してもグリグリと頭を擦り付けられるだけなので諦めた。
仕方無いので一先ず。よく言われ、全然言ってこなかった言葉を後輩に差し出す事にした。
「すきだよ」
弾かれたように上げられた顔。水をかけた訳では無いのにそれはキラキラしていて。綺麗だなと目を細めて笑った。
『灌水』