鴉の逃避行
「ここから逃げ出そう」
そう言った彼の手を、私は迷わず握った。
彼と初めて出会ったのは、人もあまり通らない公園だった。「穴場」と呼ぶに相応しい、綺麗な景色と花の咲く小さな場所。
私はサークルの課題のために、一眼レフを持ってそこに行った。
そこで一人、私と同じ目的の人を見つけた。それが彼だった。
始めは、気にせずにそれぞれ写真を撮っていた。
私は初心者で、でも写真が好きで。時折それを家で写生することもあった。
さらさらと穏やかな風が吹き、ふらふらと花の頭が揺れる。桜の花びらが舞って、私はカメラを持つ手を挙げた。
一枚、一枚、切り取られる景色はどことなく生気がなくて、魂それごと閉じ込める瞬間を探す。ふと、彼の姿が視界の端に映った。陰のある表情を浮かべて写真を撮る姿は、どことなく浮世離れをしている。長い腕が、気だるげに、でも確かに何かを求めるように動いた。
綺麗すぎて、見とれた。アレを写真に収められたらいいのに、そういう願望が湧き上がってきて、でも抑え込む。
無理矢理視線を外し、私は彼の近くにあった展望スペースから周りを見渡した。
ざあっと風が吹く。風を遮るように腕を翳す。手櫛で髪を整えた。
「あの……」
心地よい低さの声が発せられる。彼だ。
「は、はい」
人と対峙するのが苦手な私の声は少し上ずった。柔らかい笑顔が視界に入ってきた。
「髪に、」
男性にしては綺麗な指先が指し示すのは、私の頭の右側で。私は慌ててそこを手で払う。
「どうですか?」
「いや、もうちょっと」
何度か試しても、思ったより絡まってるらしく、なかなか取れずにいた。それを見かねた彼は、恐る恐るといったように提案してくる。
「よかったら、俺が」
「あっ、すみません」
恥ずかしさで声が小さくなる。ゆっくりと指が伸びてきて髪に触れた。
「取れた」
少し満足げな声に顔を上げる。なにしてるんだろう、なんて思って二人顔を合わせて笑った。
「写真撮るの好きなんですか?」
「はい。写真サークルに入っていて」
「どんなもの撮りました?」
そう聞かれて、画面が見えるように傾けた。何枚か遡って見せる。
「綺麗ですね。……あ、見ます?」
同じように、傾けられた画面を覗く。見た瞬間分かるセンスの違い。観点が違うのだろうか、思いもよらないような収めかたをしていた。
「わあ……凄いなあ」
もう少し上手い感想は言えないものか、ただ単純な感嘆の声をあげるしかできなかった。
彼は笑って、少し考えたような素振りを見せて。
「もしよかったら、下の神社にも行ってみませんか」
はい。
私はにっこり笑って頷いた。
そのあと、彼と神社に行った。それぞれ好きなように写真を撮って、折角だからとおみくじも引いた。
「大吉だ」
嬉しさを滲ませた声で、自慢げに紙を見せてくる。
「いいなー。私は吉ですよ?」
「悪くないでしょ」
出会いのところに目を滑らせる。気の合う人に会える……そう書かれていて、ちらりと隣を見上げる。
この出会いがそれならいいのに。下心のあるお願いを思わず心の中で呟いた。
時々、強烈な感情に襲われる。
死にたい、とか。消えてしまいたい、とか。私ってなんなんだろう、って考えて出もしない答えを探した。
こんなとき、いつも思うのは海の無い県へ普通列車で出かけること。一日かけて、行って帰ってくるだけで十分だった。
ふらりと、どこかに行ってしまおうかと思う。
3000曲入ってる音楽プレーヤーのホールドを解除して、好きなアーティストの名前を探す。イヤホンを耳に差し込んで、光差し込む部屋の窓に寄りかかって外を見た。
動くのが億劫になりながらも、カメラを手繰り寄せる。
いつも見る景色、大したものも映らない写真、だけど普段撮るものよりよっぽど生気があった。私から奪ってるんだな、なんて変な考えに笑って。
そんなときだった。
スマホの着信を知らせる振動に気付く。画面には彼の名前。
出会ってから、お互いの好きな場所に案内したりして、何度か逢瀬を重ねた。
本当は今の精神状態で彼と話すのはきつかったけど、ボタンを横にスライドさせる。
「もしもし」
無理矢理繕った声が、次の瞬間崩れ去った。
『……もしもし』
彼の声は、尋常じゃないくらいに切羽詰っているような感じがした。
君の最寄にいるんだ。
そう告げられて、大慌てで着替えて出ていく。「10分で行くんで、待っててください」出来るだけ走って駅に向かった。
改札前に、彼がいた。
「ごめん」
本当にすまなそうな顔で謝るから、「それより、何かあったんですか?」と食い気味に聞いた。
「ここから、逃げ出そう」
「え?」
「一日だけ欲しい。明日には帰すから、俺と一日付き合って欲しい」
掴まれた手首が痛くて、そこから彼の感情が伝わってくるようで。
「いいですよ」
私も逃げ出したかったから。同じ考えだっていうことに少し嬉しさを感じた。離された手を握って笑う。
「行きましょう」
先に近くのコンビニで食べ物や諸々を買い揃える。彼が切符を買う間、私は親に連絡を入れた。心配させるのは好きじゃない。一日だけ、友達の家に泊まると嘘をついた。
「行こ」
私は頷いて、彼に続いて改札を通る。丁度来た電車に乗った。
ゆっくりと走り出す電車。窓から見えた景色はすぐに表情を変えて、私たちを私たちのことを知らない町に連れて行く。
彼の表情を横目で覗き見たとき、刃物が毀れる音がした気がした。
カメラを構えた。
こんなときまで私たちは何かを残すことに一生懸命で。
音を立てて切り取った彼と周りは、今までで一番綺麗に撮れていた。それが悲しくて、そっぽを向いて泣かないようにと我慢した。
「ねえ、見てみなよ」
優しい声が聞こえて、くるりと振り向く。カシャリと音を立てた彼の手の中の箱は、きっと私と周りと切り取っていった。
不意打ちだけど、彼の手元に残る私の姿があるだけで良かった。
「良く撮れてる」
満足そうな様子でそれを見てる彼が、私の生命力で少しでも元気になりますように。私は半周り近くの年上な彼の幸せを願った。
一日だけの逃避行は、本当に単純な旅行だった。
旅館に行って、それぞれお風呂に入って、美味しいものを食べて、お話して笑って。お互い遠慮せずに相手の写真を撮った。
まるで、今の瞬間を生きているようだと思った。
明日になったら相手はおらず、これからも会えず、また一人になってしまう。そんな恐怖を互いから微かに感じ取った。
貴方が良いと言うのなら、私はずっと傍にいる。
少しだけ重ねた指先にそう乗せて、何も心配ないよと笑いかけるだけしかできなかった。
『鴉の逃避行』などというネーミングを自分の中でつけたあの旅行で撮った写真を見つめる。
彼の後ろ姿を指でなぞる。
「もう、怖くないね」
イヤホンから流れる曲は、彼が好きだと言っていた曲だった。