序章 帰る場所
定期的に続きをあげていく予定です。序章は若干シリアス度が高いですが、次の章からもっとライトでコメディも入ってきます。
俺はずっと欲しがってた。
自分が死ぬ理由を。
俺が――お前が帰る処を。
彼女がその答なのだとしたら、きっと俺は間違ってた。
ざまあない。
なあ、笑おうか。俺もお前も――独りぼっちだ。
自覚はあった。
それは己が夢であることに。
だが夢の自分は過去の俺ではない。いつか起こるべき事象の夢。そう、これは俺が毎晩見るいつもの予知夢に違いなかった。
これはまだ見ぬ自分の、絶望した未来の物語だ。
ザ……ザザ…………
ぼんやりとした意識の中で、聞こえてきたのは微かなノイズ音だった。
夢の中で、もう一人の自我が覚醒していく。
ほの暗い闇の中で、黄褐色に光る液晶画面のバックライトがノイズに呼応するように点滅していた。近づいて俺はそいつを覗き込む。携帯型無線機だった。ひびの入った液晶から、深いノイズ音と人の声が入り混じって聞こえてくる。
ザザッ……ザー…………
『世界は……終わ……ザザーッ……世界の黄昏が……押し寄せ……ここももう……』
ザザザッ……! ガッ――ガガガッ!
流れてくる男の声は狂ったようなノイズ音にかき消された。まるで何者かがそれを検閲してきているかのように。
『応答……だれ……生きてい……いるか? 我々……判断を誤っ……総員に告……あの女を殺……ザザッー……殺せ!』
ザザッ……ザザー…………
『総員に告ぐ! 女神を……アティスを殺せ! 殺……ザーッ……なければ……ザザッ……は消え去っ……』
ブツン、と唐突に声が途切れた。そうして無信号時特有の、ザーという雑 音だけが流れてくる。
「殺せだと?」
俺は忌々しげにその無線機を踏み付けた。すぐ近くに男の死屍を見つける。無線は男のモノだろう。
知らない顔。違う隊の戦闘員だった。顔を上げて振り返ると、累々たる屍体が暗闇の奥まで転がっている。皆、武装した者達ばかりだ。一体、何人殺しただろう。銃弾が残り少なくなるまではいくらか覚えていたが、咒術や神術を行使した辺りから全く分からなくなった。
もはやどうでもいい。構わず、俺は再び歩き始めた。
「世界の黄昏、か」
夢の中の俺が独り言ちる。
そこは崩れかけた神殿の中だった。両脇に連なる柱や壁は、曲線と曲面を組み合わせた精緻な設計が施されている。乳白色の大理石が敷き詰められた長い階段を俺は登っていた。
神殿を囲む壁には全く窓がない。灯りは消されていたが、大理石の透光性が照明の代わりとなっているのか仄暗かった。咒術的な光の作用が働いているせいもあるのだろう。光の持つ量子的な存在情報を咒術で永久的に持続させているのだ。辺りは静謐な空気が漂っており、階の奥に侵入する者をまるで拒むかのように厳かだった。
俺――いや、その夢の中の男は、緋に染まった女を腕に擁えていた。ぼたぼたと、自分の腕から血が滴り落ちていく。息が荒かった。唸る獣のように吐く息は低く、そして不自然なほどに長い。足はどこか覚束無いが、夥しい血溜まりも意に介することなくただ前へと踏み入って行った。
男の眼は何も見ていなかった。ただひたすらに進んで行く。生まれ持った碧眼は虚ろに濁り、どうにも危うい狂気を孕んでいた。
容貌から察するに男の年は青年から壮年へと移りゆく過程にある。だが、瞳に宿る光のそれに老境が見えた。やや面長な顔立ちは端正だが、男を見る者がいればまずその鋭い眼差しに惹きつけられるだろう。成人では珍しい天然の金髪を、首の後ろ辺りで無造作に束ねている。痩身だが体躯は締まっており、刀身に揺らめく刃紋のような澄んだ冷えが滲み出ていた。今までの戦闘により裂けた服から、大きいものから小さなものまでいくつもの傷痕が覗き見えている。
特に印象的だったのは首筋の横にある銃創の痕だ。丸い傷痕の周りは肉が盛り上がり、真ん中だけ窪んでいる。恐らく数年前のものだった。
「く……」
一歩足を踏み締めるたびに、容赦なく血が零れ落ちていく。それでも俺は歩みを止めなかった。
不意に、崩れ落ちた天井の穴から何かがふうわりと降ちてきた。柔らかい純白の羽根が静かに舞い落りてくる。俺はうっそりと顔を上げた。雪だった。
「八紘の終わりでも、雪は降るか」
俺はしばらくそこに佇んで、鉛色の空を見上げていた。腕に抱いた彼女の白磁のような頬に雪が柔らかく落ちては儚く融解け去っていく。抱き抱えた女の息は既にこと切れていた。まだ温かい。だがそれもすぐこの雪のように冷たくなるだろう。
「リズ。俺がお前を殺すなんてな」
彼女の頬に、そっと顔を寄せた。随分綺麗な顔をしていたんだなと、場違いな感慨を抱く。無音の世界の中で、深々《しんしん》と降る雪の音だけが聞こえるような気がした。まるでそれこそが世界の崩壊する音のように。
何の音もなかった。さっきまで響き渡っていた銃声も叫喚もない。生き残っているのは、もう俺と彼女だけかもしれなかった。
「……face one's……fate――」
何気なく口ずさんだその歌は、いつかラジオから流れて来た曲だった。
特に気に入ったわけでもない。ましてや、歌うのは苦手な方だった。だが、なぜかその歌がラジオや街で流れているとつい気になった。
戦場でその歌をよく口ずさんだ。流行の曲を歌うなんてらしくない、と仲間に茶化されることもあったが一向に気にしなかった。故国である八刀の國から逃げ延びた俺には、この歌こそが故郷のように思えたからだ。
「俺の名を――呼んで」
ぼんやりと、歌をつぶやきながら、俺は再び足を踏み出す。
「face one's fate……お前の――声が聞こえないんだ」
抑揚も音韻もなかった。ただの漫ろ言でしかなくなったそれを、俺は歌い続ける。
「もう一度お前の声が――聞きたいんだ」
眼窩で男の虚ろな瞳が、瞑く不気味に揺れていた。遥か上まで続く、白い大理石の階段をゆっくりと登って行く。
「そうだ帰ろう……お前の処へ帰ろう」
俺が帰る場所は――どこなのだろう。
これは夢だ。だが未来の自分の姿だった。その夢が未来であることに、初めは疑いもした。単なる空想だと、妄想だとも思うようにした。
だが何度もその夢を見る度に猜疑は確信へと変容する。あまりにもそれは現実味があった。幻想の一言では片づけられない、確信めいた何かがあった。
孤独と、絶望と、虚無感とが混淆し、今の俺を満たしていた。
その悲しみは何だったのか。それとも本当に悲しかったのかすら、今の俺にはよく分からない。ただ言えることは自分は確実に破滅への未路を歩いているということだった。
――突然。
ぐにゃりと眼前の景色が大きく揺らぐ。
ザザッ……ザー…………!
携帯型無線機から聞こえてきたあのノイズ音が、警鐘のように頭の中で響いた。
まるで何者かが自分の意識領域へと侵食してくるかのように、今眼前にある景色と別の世界が不自然に混ざり合う。
頭に尋常でない痛みが奔った。酷い耳鳴りがして気を失いそうになる。
ザザザ……ザザッ……!
『リズを放せ……ジェ…………ク』
ノイズに混じって男の声が聞こえてくる。知っている声だった。眼前に現れた黒髪の男の手には銃が握られている。
視界が激しく揺れた。光が明滅するように、その情景が断片的に映っては消え、現れ、ぶれて消え、また現れる。幾度となくそれを繰り返しながら俺の頭は激痛に揺さぶられた。
ザザッ……ガッ――ガガッ!
『お前にとっても、世界にとっても彼女……滅びの女神な…………うさ。だが俺にとっ…………はただ一人の女だ。俺にはもう何も残っちゃ…………俺にはもう、あいつしかいね…………だ。俺があの女を護るんだよ……!』
ノイズの切れ間から聞こえてくる夢の中の自身の声は、どこか妄執に囚われたような低い唸りを孕んでいた。
ザッ――ザ……ザザッ…………!
『あんたは――リズを殺し……んだ………だったら俺が彼女を…………女神……殺す』
引き金にかかる男の人差し指に、ぐっと力がこもる光景が一瞬だけ映った。
『やめろ……俺……お前を……殺したくな……グレン!』
『女神を殺……てやる――!』
ザッザザ…………ガガガ! ガガガガガガガッツ!
『グレェン――ッ!』
俺が咆哮したのと同時に、ひと際激しいノイズ音が響き渡る。今度こそ意識が暗転した。
気絶していたのは恐らくほんのわずかだったろう。意識が戻り目を開けると、既にそれは今までの景色とは違っていた。腕に女はもういない。
ただこれはさっきの夢の続きなのだと、漠然とそれだけを理解する。
それはいつもの夢だった。
だがそれは、いつもとは違う夢だった。
硝煙の香りが漂っていた。それは死の臭いと酷似していた。力の抜けた俺の手から拳銃が滑り落ち、地にあたって戛然とした音を響かせる。俺は何も考えられなくなった。何が起きたのだろう、そこに血を流して倒れている黒髪の男は誰だったろうか。
分からない。
分からない。
――分かるわけがない。
彼が――相棒が死ぬことを、何故分からなければいけないのか。
「何で、だよ」
ぼんやりと、俺はつぶやきをこぼした。手は拳銃を持っていたときの容のまま宙を掴んでいる。
「ジェイ……ク」
倒れた男から掠れた声が漏れた。俺は呆然としたまま、声のした方角を見る。
「やっぱり、あんたは――独りになっちまうんだな」
冷えを孕んだ苦笑と共に、発せられた声はどこか寂しげな色が混じっていた。俺はようやく自分が何をしたのか覚って、男に駆け寄った。
「グレン!」
唇から血を流すグレンの上体を抱き上げる。銃創を見て、俺は歯を噛み締めた。致命傷――分かっている。自分が――俺がグレンを撃ったのだ。
「くそっ…………何でだ? 何で――こうなっちまうんだよ!」
衝いて出た言葉はグレンに向けて言ったものじゃない。自責に駆られ沸き起こった感情でもない。何かを護ろうとすればする程、いつも大事なものを失ってきた。宿星だとか運命なんざと呼ばれる、傲慢でクソ莫迦げた何かに俺は憤っていたのだろう。
「しょうがないさ、あんたはあの姫さんを捨てられっこない――」
笑おうとして、言下に激しく咳き込んだ。口から血がごぼっと溢れる。
「すまない、すまねえ――グレン」
「あんたが……死にゆく者に謝るなんて、そんなことあるんだな」
切れ切れな言葉の一言ずつが、ずしりと肚底に重く響いた。
「莫迦野郎」
目の奥が熱くなるのを感じる。彼の瞳は虚ろで、もう何も見えていないようだった。
「一度でいい。帰り……たかったな、八刀の……國に。もう|……|存在してない、けど……でも……帰りたかった」
口から血を溢しながらグレンがつぶやく。共通言語ではなく母国語で。
「すまない……」
「謝るなよ…………今更――謝るなっ!」
グレンの震える手が伸びた。何かを探し求めて宙を彷徨った後、俺の身体に触れ手繰り寄せるように上膊をきつく掴む。
「あんたは結局……俺たちを選らばなかったんじゃないか……そうだろ? 隊長」
俺は掴まれたグレンの手に手を重ねた。
「駄目……だ……だ――めだ。駄目だ」
――冷たい。
「駄目だグレン。俺を――置いて行くな」
随分とひんやりしていた。声が震えた。頭の芯がじんじんと疼く。
「置いて……行ったのは……あんたの…………方だろ?」
「……俺は!」
グレンは小さく頭を振った。
「俺も……リズにとっても……あんたと俺らは……唯一の……家族だったんだ」
グレンは笑った。その双眸は、母親に抱かれる幼子のように澄んでいた。
「あんたには……迷惑……だったんだろうな…………そ……れでも……俺は……」
グレンの手が力を無くし、がくりと落ちた。生気のない開いたままの瞳から、透明な滴が一筋こぼれ落ちて行く。
時が、止まった。
頭が真っ白になった。目を見開いたままの相棒の顔を、虚ろに見つめる。
一体――何が間違っていたのだろう。何から間違っていたのだろう。俺が生まれたそのときから全ては狂い始めたのかもしれない。俺は何故、生まれてこなければならなかったのか。
神への祈りは疾うに捨てた。だが――祈りたかった。すがらずにはいられなかった。誰かに教えて欲しかった。
「俺は……どうすりゃよかったって――いうんだよ」
ゆらり、と首を巡らす。視線の先で転がった銃が鈍い光を放っていた。俺は食い入るように、じっとそれを見つめる。
『何か』を忘れているような気がした。
『何か』を思いだそうと、すがる様な気持ちで銃を見つめた。
「お……」
得体のしれない感情が、内奥の底から湧き起こる。それは悲しみによく似た、自分への深い怒り。度し難い程の愚かな己と、瞑くたぎるこの世界への憎しみ。
「おお……おおお!」
俺は落ちた拳銃を引っ掴み、駈け出していた。形振り構わずひたすら走った。
――姫神子を、女神を殺さなくては。そうだ、俺は彼女を殺さねばならない。
「俺が……俺が!」
何て莫迦だ。
やっと――この期に及んでやっと気づいた。何てことだろう。俺は大莫迦だ。どうしようもないほどの、救いのない愚かな自分。
恐らく、俺は彼女が好きだったのだ。孤独の中で、ただ彼女だけが俺を認めてくれていた。そう思っていた。だが、それは偏執だったのかもしれない。現実という蓋をあけて見れば、何てことはない。それはただの思い上がりでしかなかったのだ。
グレンがいた。リズだっていた。
「二人とも、俺が殺した!」
かつて仲間だったヤツもいた。皆俺が殺した。片意地をはって自分を愛してくれる人間に気付けなかった。気づいてやれなかった。
「――たっ?!」
脚がもつれ、俺は激しく転倒した。無様に転がり、その場にうずくまる。肩が激しく上下した。息が詰まって激しく咳き込む。起き上がろうとして目が眩むのを感じた。
「ちくしょう……!」
――グレン、リズ。
再びうずくまり、俺は涙を堪えながら体を震わせた。
不意に――
あまりにも唐突に、一つの感情が浮かび上がってきた。意識下ではない。認知意識よりもっと奥の、心の深奥――無意識よりもさらにその中央に沈んだ原初の記憶から。
それは極純粋な恐怖だった。
グレンやリズを失った喪失感からではない。死に対する情感からでもない。自分の中で眠っていた人間らしき感情が、まだ残っていたのかと笑いたくなった。
もう、誰もいない。
その事実が恐ろしかった。世界はユピキタスの存在概念を媒体に、存在の崩壊を続けている。この世に或る全ての存在が、女神の呪いによって今消え去ろうとしていた。正直、世界なんてどうでもよかった。この世を妬み、憎んでいた。だが、俺という存在が、生存本能ともいえる衝動が滅びを否定していた。
自分に死の欲動があるのは確かだ。だがそれと同じくらい、自己の存在を欲しているのも事実だった。生きながらえたい、という観念とは違う、ただそこに『在りたい』という宿望。ほとんど意地みたいなものなのだろう。自分に好意を抱いてくれた者、嫌悪した者、その全ては死んだ。世界も、ここ以外は既に消え去っているかもしれない。
俺にはもう、彼女しかいない。だが、彼女はこの世界を滅ぼそうとしている。
俺が、彼女を殺さなかったから。
俺にはもう、彼女しかいない。
だからこそ、殺さなければならない。
この世界で――生きているのは俺と彼女だけだ。
今一度、世界地母神に祈る。奇跡はいらない。奇跡など欲しくない。そんなものはいらない。
――ただ、一言。
一言だけ答えて欲しかった。俺は誰かにそれを答えて欲しくて、地を這い血を啜り生き抜いてきた。
俺は女神に問うた。
何故俺は生まれたのか、と。
「アティス……」
なんとか立ち上がれたが、脚に力がうまく入らなかった。地を滑り、頽れるようにして壁へとしゃがみ込む。
「へっ……」
俺は荒い息を吐きながら血に濡れた口許を吊り上げ、うっそりと虚空を見上げた。
――返事など。
「……知ってる」
あるわけがない。当たり前だった。なぜならば。そう、なぜならば――
俺は笑った。
なぜならば――
「知ってたさ。答えなんて、初めからねえんだ」
俺は、この世界で生まれちまったから。この世に生まれた者は自己となって存在となる。ならば、ならばこそ――
「だったら――抗ってやる」
――最期まで己を徹す。
結局、自分は意地を貫き通すことでしか生きられない。否、そういう生き方以外知らなかった。
「女神に抗ってやるよ」
残っているのはサイドアームであるブローニングのみ。銃を握り締めたままの右手をだらりと上げた。まだスライドはオープンしていない。記憶が正しければ、銃弾は薬室に残っているものを合わせ残りあと二発か三発。予備のマガジンはもうない。咒術や神術といった術に至っては集中し構成を為す精神力も咒力も到底残っていなった。
「やっぱり、俺とお前が残ったか」
俺は銃把を握った右手に左手を這わせ、ゆっくりと強く握り締めた。そのまま銃身の上部に額を付ける。祈るように俺は目を閉じた。
未だにそんな|古い型を使っているのか、と言われても手放す気は毛頭なかった。窮地に追い込まれたとき自分を救ったのはこの銃だった。|コイツを持っていると生き延びれる、不思議とそんな気がするのだ。
「お陰で死に損なっちまったぜ、相棒」
いかなる時も死に近い場所を選んだ。
ただでは死ねない。なぜ自分が死ぬのか分かれば、自分が生まれた意味を見つけられるような気がしたからだ。だから戦う理由を欲して、傭兵となり暗殺者となった。それでも俺は死ねなかった。皮肉なものだと思った。誰よりも死を欲していたのに、結局俺は最後まで生き残っちまった。
もう一度立ち上がろうとして、ふらりと足がよろめいた。随分と血が流れているはずである。撃たれたのは背中。もしかしたら引き金を引くことすら、危うくなるかもしれない。
「……ざ……けるな。畜生め。まだ死ぬわけには、いかねえだろうが」
俺は奥歯を噛み締め、歩き始めた。血が流れる上膊を押さえながら、俺は彼女のいる奥の宮室に向かう。歩くだけで意識が飛びそうになった。
「……ア……ティス」
足が、鉛のように重たかった。それが自分がしてきたことの罪の重さだとは思わない。
「……アティス」
だが、と思う。俺は、今までどれだけ殺してきたろうか。泥濘に顔を突っ込まれどれほど足掻いてきたろうか。もがき苦しみ血で染まった大地に爪を立て、這うように己の道を歩いてきた。
「……姫神子」
今更、罪の呵責なんてものはなかったが、それでも己の生きた有様を想起せずにはいられなかった。そうやって自分という存在を確かめたかったのかもしれない。狂ってしまいそうな己を自制していたのかもしれない。
「いや、違うな」
――多分。もうとっくに、俺は狂っている。
ぱたぱたと何かが落ちて行った。それが血なのか或いは涙だったのか、確かめることすら億劫だった。
目の前に宮室へと導くべき重厚な扉が見えた。俺は半ば這うように近づき、銃を握る手で扉を叩きつけるようにして開く。俺は彼女の姿を視認しようと霞む目を眇め、辺りを探した。
我知らず、息を呑んだ。
幽冥な室内の奥まった場所で、月のようにぼんやりと皓い気配が沈んでいる。
床の上に奇異な形をした影が銀燭台の灯火と一緒に揺らめいていた。まるで幾多の蛇が蠢くようなその影の正体はコードや生命機器などの管だった。何百という管のその先へ視線を辿っていくと、人間の肌へとたどり着く。
「……姫神子」
体をわずかに隠す布以外の肌という肌――特に、うなじから腰にかけて挿入されている長い管やコードは、まるで逃がさないようにする縛めの如く、この世界の護り人である彼女を繋いでいた。
幾度となく見つめてきた彼女の玉容を俺は見つめた。静謐な表情で目を閉じ、厳然と鎮座している。透き通るような皓い肌と同質の、混じり気のない銀色の髪が床まで届き光の線となって流れ落ちていた。
観る者を圧倒するその威容も、俺にとって見慣れたものであった。
はずだった。
だが、今や尋常ならざる者の神気を彼女から感じ取り俺は身震いした。彼女の護衛として傍にいた時間はそう長くはなかっただろう。それでも俺たちは、時間という概念だけでは推し量れぬ、誰よりも深く心の闇を共有してきたはずだ。
ときにそれはお互いの存在を確かめる為に必要だったのだろう。時にそれは愛というカタチに似た信実に限りなく近い不確かなものだったのだろう。ときに――それはお互いの心を抉り、痛めつけ、生という執着を己に見せつけるものだったのだろう。
そう――だったはずだ。
だが俺は彼女の何を理解していたつもりなのだろうか。
半ば呆然と――いや、陶然とすらしつつ、俺は改めて彼女を見つめた。
彼女の異常なまでに白い肌を繋ぎとめる幾重のもの管が、奈落から這い出ようとする禍つ神の如き神威を伴って俺の眼前に迫ってくる。幽静と瞑目する彼女は、己以外一切の存在を許容せぬ圧倒的存在となって光暈を放っているようだった。
今更のように、俺は気づいた。
彼女は紛れもなく――太母神アティスの依り代である、この世で唯一無二の姫神子なのだ、と。
「ジェイク……いや、リューク」
彼女は閉じていた瞼を静かに解いた。
眼窩の中央に収まる紅玉髄の瞳が、感情なく俺の姿を捉える。まるで俺が流し続けた血のように緋く、無常の世界を映していた。
彼女と対峙する俺は畏怖し、
俺たちはじっとお互いを見つめた。言葉では表せない、想いの丈をぶつけ合うように。
「私の願い、お前なら分かるな?」
「ああ――そうだな」
俺は柔らかな笑みを浮かべて、銃をきつく握り締める。
「……俺は――お前を護りたかったんだ。本当に――護りたかった」
「リューク。お前でなければならぬ」
突如として彼女の紅い瞳が焔を燈したように閃いた。無機質のように思えた瞳が意思を持ち、煌々と強い光を宿す。
「私を。姫神子を――この我を。女神を殺せるのはお前だけだ」
俺は瞠目し、食い入るように彼女を見つめた。
――なんだ。
「くく……くくく」
不意に可笑しくなって俺は嗤った。くぐもった笑いが喉の奥からこみあげてくる。彼女は黙って俺を見据えていた。
「なんだ、そうか」
酷く愉快だった。
「お前まで俺が独りだって、そう思うんだな」
結局俺は最後まで、か。
「……ちくしょう」
滑稽だ。
それでも、この期に及んでもまだ俺は――頭にくるほど彼女が愛しかった。
「ヒミコ――!」
俺は叫んで銃口を彼女に向けた。