第二話 渡米
突然の揺れに、私は深い眠りから目覚めた。
私は乳母のアンナのそばのベッドにいた。
体中のあちこちに新調のシーツのにおいがしたので幼い私にも長時間眠っていたことが分かった。
「アンナ…、ここはどこ?」
アンナも眠っていたようだったが、私の声に気付いて目を開けた。エメラルドグリーンの目が、心なしか濡れて揺れ動いていた。「ああ…ナターシャさま…」
私はまわりを見渡した。
船室のようだ。広い部屋になっていて、アンナは白いソファに腰掛けている。となりの小さなベッドには兄のロランがすうすうと眠っていた。さっきの揺れは大きな波がぶつかったからかもしれない。
アンナが目をこすりながら微笑んだ。
「お船の中でございますよ。お嬢様。長い間お眠りになられていたので覚えていませんか?」
ええ、と私はうなずき、それから体を起こしてアンナを振り向いた。
「私たちはどこへ向かっているの?」
「平和な国へですわ。暖かくて、ロシアのように寒くないところへ」
「ロシアはどこへいってしまったの?」
「どこって…」
アンナが困ったように首をかしげた。
「何時間も前にロシアを起ちましたから、もうずいぶん遠くにあると思いますよ」
私はとたんに不機嫌になった。
祖国を捨てるなんて、父さまが許さない。祖国を捨てるのは、命を捨てるようなものだと父さまが言っているのを、アンナは知らないのだろうか。
「ロシアを捨てるつもりなの?」
厳しい口調で問うと、アンナは表情をくもらせ、目を伏せた。
「そうではありませんわ…ただ…」
「父さまに会わせて。父さまは祖国を捨てるのは下劣だといつもいってらしたわ。そんな父さまが私とロランを連れて船で異国へいくなど信じられない」
「でも、お嬢様。伯爵は男爵や子爵と話しておいでです」
「それでもいくわ」
「お嬢様…」
私はベッドから降りると、ロランのベッドへ近づき寝顔を見つめた。「お兄さま、寝てるのね」
「私、これから父さまのところへ行くわ。行って確かめてくる」
「ナターシャさま…!」
アンナが私を引き留めようとしたけれど、私は扉へ向かって外へ出た。暗い廊下が私を怖がらせたけど、父さまを見つけるまでは後戻りはしないつもりだった。
たくさんある船室の中で唯一灯りがともっている部屋を見つけたので、私が耳をすましてみると中から人の声がした。
「アメリカでは、我々を歓迎するだろう」
タートフ子爵の声がする。それからクリフト男爵の声もだ。「だといいが」
「ロシアの亡命貴族を歓迎したところで、一体何の利益があるのだ?」
「だが長年の友もいる」
父さまの声だ!私はすぐにさま音高く飛び込んだ。だが三人の雰囲気を考えると、それを控えるべきだったのかもしれない。「父さま!!」
フランス製の古いテーブルをかこんで、三人がこっちを向いて驚いたような表情を浮かべた。だけどすぐさま父さまは微笑を浮かべながら近づいてきた。
「ナターシャ、ロランとともに寝てたのではないのかね」
私は抗議するような口調で返した。
「父さま。なぜロシアを離れたの?」
父さまの目にありありと困惑の色が浮かぶ。
「それはね…ナターシャ」
私は大きな父さまの手をつかんだ。
「君たちを、守るためなんだよ」
「守る?どうして?君たちって私とロランなの?」
「お嬢様、伯爵は疲れています」
タートフ子爵が口をはさんだ。私は彼をキッとにらみつけると父さまに向かって口を開こうとした。そのとき背後の扉がひらき、ひどく慌てたようなアンナが入ってきた。
「申し訳ございません。伯爵さま!」
父さまのこわばった顔がやわらいだ。追いつめられた犯人が、危機一髪助かったような顔をしている。すると私のちいさな体がフワリと持ち上げられ、アンナに手渡された。父さまは私の金髪にキスをすると、笑顔になった。
「おやすみ。ナターシャ。明日の朝に会おう」
明日の朝?今は夜なの?
私は部屋中に視線を走らせたが、時計はなかった。アンナが耳元でささやいた。「お嬢様、勝手に部屋をでてはいけませんわ。さあ、ロランさまもいますから、戻りましょう」
父の視線を背中に感じていたが、私はアンナに扉を閉められ、振り向くことができなかった。