幸福な者ほど強い世界で、僕は愛を燃やして魔王を倒した
もし幸福が力の源だとしたら、人は何を守り、何を手放すのでしょうか。リオとエナの旅路を、最後まで見届けていただければ幸いです。
幸福な人間ほど、強い魔法を使える。
この国では、それが常識だった。
王都の中央広場には、朝になると白い水晶柱が立つ。
人々は順番に手を触れる。家族に恵まれているか。
仕事に満足しているか。友人がいるか。
明日を恐れていないか。誰かを愛しているか。
誰かに愛されていると感じているか。
水晶は、それらを一つの数字に変える。
幸福度。
五十なら普通。七十を超えれば有望な魔術師。
九十を超えれば上級魔術師。九十五を超えれば、国に仕える英雄候補。
ただし、魔法を使えば、その人間から感情が一つ失われる。
何を失うかは選べない。恐怖かもしれない。怒りかもしれない。
愛かもしれない。そして一度失った感情は、二度と戻らない。
だから魔術師たちは、強さを求めながら、削れていく自分の心を恐れていた。
リオは、その中でも特別だった。
「九十八」
水晶柱が告げると、広場に小さなどよめきが起こった。
「また? 昨日も九十八だったよ」
隣でエナが笑う。
「羨ましい?」
「全然」
エナも水晶に手を触れた。
「六十三」
「低いね。どうして?」
「明日が怖いから」
「何が?」
「いろいろ」
エナは手を離して、それ以上は言わなかった。
二人は幼いころから一緒だった。雨の日には一つの傘に入り、
祭りの日には人混みではぐれないよう手をつないだ。
十五歳の冬、リオが王都の魔術学校へ行くと決めたとき、
エナは三日間、口をきかなかった。四日目に言った。
「私も行く。一人だと危なそうだから」
「僕は子供じゃないよ」
「知ってる。だから、一緒に行きたいの」
エナは魔術学校の古文書館に勤める道を選んだ。
魔法の理論や、過去の魔術師たちの記録を整理する仕事だ。
王都に来て三年。二人はよく、街を見下ろす丘に登った。
「卒業したら?」
夕暮れの丘で、エナが尋ねた。
「魔術師になる。みんなを守れるから」
「みんなって?」
「家族とか」
「それだけ?」
「……エナとか」
エナは笑って、小指を差し出した。
「じゃあ、約束。強くなっても、帰ってきて」
「約束する」
数週間後、北門が破られた。
魔物の群れが王都へ侵入した。炎が上がり、兵士が倒れ、人々が逃げ惑う。
リオは走った。途中でエナとはぐれた。
「エナ!」
返事はない。そのとき、巨大な魔物が建物をなぎ倒しながら現れた。
リオの足が止まった。
怖かった。逃げたかった。膝が笑って、手が震えた。
けれど魔物の向こうに、逃げ遅れた人々がいる。
怖い。でも、怖がっている場合じゃない。
リオは恐怖を、胸の奥に押し込めた。
手を上げる。魔力が集まる。空が白くなり、光が落ちた。
魔物は消えた。歓声が起こった。
消える直前、魔物の目が見えた。なぜか、怯えているように見えた。
気のせいだ、とリオは思った。
胸の奥から、何かが抜け落ちた。もう、怖くなかった。
翌朝の幸福度は、九十一だった。
戦いは続いた。
祝宴の夜、戦死者の名前が読み上げられるなかで、リオは乾杯の杯を掲げた。
笑わなければならなかった。英雄が沈んだ顔をすれば、兵の士気が下がる。
喜びを、飲み込んだ。
次の戦いで魔法を使ったとき、喜びが消えた。母が料理を作っても、
妹が学校で褒められたと話しても、何も弾まなかった。
敵に腕を裂かれたとき、湧き上がる怒りを、歯を食いしばって押し殺した。怒りが消えた。
ガルドという古参の兵士がいた。リオに剣の握り方を教えた男で、
北の丘陵でリオの盾になって死んだ。
血に濡れた手が、リオの袖を掴んだ。
「泣くな、英雄。まだ終わってない」
リオは頷いた。喉の奥が焼けるように痛かったが、涙を押し込めて立ち上がり、手を上げた。
魔物が消えたあと、ガルドの墓の前に立った。名前を呼んだ。ただ、音がしただけだった。
悲しみが、消えていた。
幸福度は、八十四、七十六、六十八と下がっていった。
「最近、笑わなくなったね」
エナが言った。
「そうかな。でも、僕は大丈夫だよ」
エナは、じっとリオを見ていた。
古文書館の夜は静かだった。
エナは、引退した英雄たちの聞き取り記録を、何十冊も読み比べていた。失った感情の種類。
失う直前の状況。
同じ言葉が、何度も出てきた。
「あの瞬間、私は怒りを抑えていた」
「泣きたいのをこらえて撃った」
「怖かったが、見せないようにした」
偶然ではなかった。
翌日、エナはリオを丘へ呼び出した。
「魔法が奪うのは、ランダムな感情じゃない」
「え?」
「あなたが魔法を使う瞬間に、押し殺した感情。それが持っていかれる」
リオは黙って、自分の手を見た。
恐怖。喜び。怒り。悲しみ。一つずつ思い出す。その瞬間、確かに自分は、それを飲み込んでいた。
「じゃあ、飲み込まなければ」
リオは目を閉じ、迫る敵を思い浮かべた。怖がったまま、手を上げる。
魔力は集まらなかった。光は、指先で潰れた。
試しても、同じだった。
「……撃てない」
「うん。私も試した。感情を抱えたままじゃ、魔法は出ない」
「それが、代償なんだ」
「代償じゃない。燃料なの」
エナの声が震えた。
「あなたたちは、心を燃やして撃ってる。自覚がないだけで」
リオは長い間、夕日を見ていた。
「それでも、戦争は終わらない」
「終わらせるために、あなたが終わっていいの?」
「僕は大丈夫」
「大丈夫じゃない!」
エナが初めて怒鳴った。
「最初は怖がってた。魔物が出たとき、あなたの手は震えてた。
でも今は何も怖くない。怖くないんじゃない。怖いって感じられなくなっただけ!」
エナの目から涙が落ちた。
「私の幸福度が低い理由、教えてあげる。あなたが戦場に行く明日が、毎日怖いから」
リオは何も言えなかった。もう、その怖さを分けてもらうことができなかった。
エナは鞄から、小さな革の手帳を取り出した。
「書いて。毎晩。何を感じたか。何を失ったか。何が好きだったか」
「どうして?」
「忘れるから。感じられなくなっても、あなたがここにいたことは、残せる」
リオは手帳を受け取った。
「それでも、帰ってきて」
「約束する」
その夜から、リオは毎晩、手帳を書いた。
魔王が現れた。
国中の九十五以上の魔術師を集めても、魔王には敵わなかった。王はリオに言った。
「お前しかいない」
エナは止めなかった。ただ、城門まで見送った。
「見てるから。ここで」
「うん」
「帰ってきて。決めた顔じゃなくて、帰ってくる顔で」
リオは頷いた。もう、胸は痛まなかった。それでも、エナの手の温度は、はっきり覚えていた。
魔王城の最奥。玉座に座っていた魔王は、思っていたよりずっと若かった。
黒い髪。疲れた目。左手に、古びた銀の指輪。
「人間。お前の幸福度は」
「三十一」
「そうか。昔は九十八だったな」
リオの手が止まった。
「知っているの?」
「見ればわかる。何を失ったかも」
魔王は立ち上がった。
「俺も昔は英雄だった。幸福度九十九。王国一だ。妻がいた」
指輪を撫でる。
「隣国が攻めてきた日、大魔法が必要だった。撃つには、一番大きなものを押しのけるしかなかった。
俺は、妻への愛を押しのけた」
魔王は笑った。
「愛が消えた。記憶は全部残っているのに」
指輪を外す。
「妻は、俺の目が変わったことに気づいた。最期に何か言った。
言葉は覚えている。だが、声が思い出せない」
長い沈黙があった。
「国が幸福な者を集める理由を教えてやろう。幸福度は強さじゃない。燃やせる心の量だ」
魔王は玉座の背後を指した。壁一面に、黒く蠢くものが張りついていた。
「魔物とは、燃やされた感情の残りだ。捨てられたものは消えない。行き場をなくして、形になる」
リオの頭に、最初の魔物の目が浮かんだ。怯えた目。あれは、自分の恐怖だった。
「……なら、あなたを倒せば」
「魔物は散る。戦争は終わる。だが、国は次の英雄を作る」
魔王の目が、リオを捉えた。
「俺を倒すには、一番大きな感情を、押しのけなければならない。
お前が今、一番捨てたくないものを」
「……」
「お前は、誰のために戦っている」
答えは、とうに出ていた。
リオは懐から、手帳を取り出した。ページをめくる。
エナの字が最初にある。その次から、自分の字が続いている。
最後の白いページに、鉛筆で書いた。
『エナの隣にいること。気持ちがなくなっても』
手帳を閉じる。
「やめておけ」
魔王が言った。
「今ならまだ帰れる。俺は国を襲わない。だが、国は別の英雄を送る。
お前が降りても、誰かが同じことをする」
「わかってる」
「お前が捨てるものは、戻らない」
「わかってる」
リオは魔法陣を描いた。
そして、一つずつ思い出した。雨の日の、一つの傘。祭りの日の、
手の温度。三日間の沈黙。四日目の「私も行く」。丘の夕暮れ。
小指。城門の「見てるから」。
一つずつ、手のひらに載せるように、丁寧に。
「ごめん、エナ」
リオは、それを押しのけた。
魔王が、静かに言った。
「ああ。そうやって捨てるんだ。丁寧にな」
光が落ちた。
世界が白く染まり、魔王の姿が消えた。城が消え、壁の魔物が風に散った。戦争が終わった。
王都に戻ると、人々は歓声を上げた。
「英雄!」
「救世主!」
リオは微笑んだ。何も感じなかった。
その夜、エナが部屋に来た。
「おかえり」
「ただいま」
エナは何も訊かなかった。しばらく、リオの顔を見ていた。
「言って」
リオは、手帳を机に置いた。
「君の名前を呼んでも、胸が動かない。君を見ても、何も起きない」
「うん」
「記憶はある。全部ある。でも、それだけだ。ごめん」
エナは笑った。涙が落ちた。
「謝らなくていい。わかってた」
「……」
「ねえ。私、決めたことがある」
エナは涙を拭いて、まっすぐリオを見た。
「同情で隣にいるのは、嫌。あなたも、義務で私の隣にいないで」
「じゃあ、どうすれば」
「気持ちが残ってないなら、毎日、決めて。来るか、来ないか。
私は、私が好きだから隣にいる。あなたがどうでも、それは私が決めたこと」
リオは手帳を開き、最後のページを見た。
自分の字で、書いてあった。
『エナの隣にいること。気持ちがなくなっても』
それを書いたとき、自分は何を思っていたのか。もう、わからなかった。
「……考えさせて」
「いいよ。毎日、考えて」
エナは笑って、部屋を出ていった。
翌朝、リオは王宮へ行った。
「東の国境で、魔物の気配が――」
「行きません。もう、魔法は使いません」
王は怒った。人々は失望した。
リオは広場に立って、すべてを話した。幸福度は燃料であること。
魔物は、捨てられた心でできていること。
魔王は、それを集めて、国を守っていたこと。
人々は笑った。
「感情を失った英雄の、妄言だ」
「戦いたくない言い訳だろう」
列の中から、一人の少女が出てきた。幸福度九十六。
来月には戦場へ出る予定の、若い魔術師だった。
「……本当なの」
「本当だ」
「証拠は」
「ない。証明できるのは、僕の中身が空だということだけだ」
少女はしばらく、リオの顔を見ていた。それから何も言わず、列へ戻っていった。
リオは、何も感じなかった。
世界は変わらなかった。
ただ、翌朝の水晶の前の列が、ほんの少しだけ短かった。
冬の終わり。リオは丘へ行った。
エナがいた。
「来ると思ってた」
「手帳を読んだ」
「どうだった」
「他人の話みたいだった」
エナは小さく頷いた。
リオは水晶柱に触れた朝を思い出した。
「九」
数字は、もう一桁になっていた。
夕日を見ながら、リオは自分の中を探した。
恐怖はない。喜びもない。怒りも、悲しみも、愛もない。
ただ、何かがあった。
名前のないものだった。波のない水面のような。
誰かの隣に座っているときだけ、そこにあるもの。
それが、何なのかはわからなかった。失ったものの代わりでもなかった。
「エナ」
「なに」
「明日も、ここに来る」
エナは、横目でリオを見た。
「気持ちで?」
「いや」
リオは立ち上がって、夕日に背を向けた。
「決めた」
エナは、声を出して笑った。涙を拭きながら、何度も。
夕日が沈んで、丘に夜が来る。
二人は並んで、歩き始めた。




