時間銀行
エヌ氏は、待つことが何よりきらいだった。
赤信号を待つ。電車を待つ。病院の待合室で名前を呼ばれるのを待つ。会議がはじまるのを待つ。そういう時間のすべてが、人生のむだづかいに思えてならなかった。
そんなある日、駅の広告が目にとまった。
『あなたの待ち時間を、おあずかりします。年利五パーセント。老後に、まとめてお使いください。時間銀行』
エヌ氏はその日のうちに、窓口へ行った。
*
手続きは簡単だった。腕時計のような小さな機械を、手首につけるだけである。
「待たなければならないときに、このボタンを押してください」と係員は説明した。「その待ち時間は当行におあずかりし、お客さまは、待ち時間が終わった瞬間へお進みいただけます」
ためしに、帰りのホームでボタンを押してみた。電車が来るまで、あと十二分。
まばたきをすると、目の前に電車がとまっていた。ドアがひらき、人びとが乗りこんでいく。腕時計を見ると、たしかに十二分たっていた。だがエヌ氏にとっては、ほんの一瞬だった。
「これはいい」
エヌ氏は、すっかり気に入った。
*
それから、エヌ氏の人生から待ち時間が消えた。
信号の前でボタンを押せば、もう青になっている。歯医者の待合室でボタンを押せば、もう名前を呼ばれている。退屈な会議も、ボタン一つで終わりの瞬間にとんだ。
毎月、銀行から通帳がとどいた。あずけた待ち時間に利息がつき、残高はみるみる増えていく。
エヌ氏は、通帳をながめるのが楽しみになった。
*
やがてエヌ氏は結婚した。
妻が産気づいた夜、エヌ氏は病院の廊下の長椅子にすわっていた。分娩室の扉は、いつまでもひらかなかった。落ちつかず、立ったりすわったりしているうちに、エヌ氏はつい、手首のボタンを押した。
まばたきをすると、看護師がほほえんでいた。
「おめでとうございます。女の子ですよ」
なんと便利なのだろう、とエヌ氏は思った。
娘が小学校の学芸会に出た日も、幕があくまでの時間をあずけた。娘が高校生になり、夜おそくまで帰ってこなかった晩も、玄関で待つ時間をあずけた。ボタンを押せば、娘は「ただいま」と言って、もう目の前に立っていた。
年老いた父が入院したときも、そうだった。医者に「今夜がやまでしょう」と言われ、エヌ氏は病室のすみの椅子で、ボタンを押した。
まばたきをすると、すべてが終わっていた。
悲しかったが、つらい時間を過ごさずにすんだことは、ありがたかった。
*
そして、エヌ氏は定年をむかえた。
娘はとうに家を出て、妻にも先だたれていた。エヌ氏の手もとに残ったのは、四十年分の待ち時間に利息がついた、ぶあつい通帳だけだった。残高は、ちょうど五十年分になっていた。
「これからが、わたしの人生だ。五十年もあれば、何だってできる。世界じゅうを旅して、好きな本を読んで、のんびり暮らそう」
エヌ氏は通帳をにぎりしめて、時間銀行の窓口へ行った。
「全額、引き出したいのですが」
「かしこまりました」
係員はにこやかに書類をととのえ、エヌ氏の手首の機械に、細いコードをつないだ。
「では、お受け取りください。長いあいだ、ご利用ありがとうございました」
カチリ、と音がした。
*
気がつくと、エヌ氏は駅のホームに立っていた。
見おぼえのあるホームだった。若いころ、毎朝通勤に使っていた駅だ。ベンチも、売店も、柱のしみまで、あのころのままだった。
構内アナウンスが流れた。
「ただいま、電車が遅れております。しばらくお待ちください」
エヌ氏は、ふしぎに思いながらベンチにすわった。しばらくすると、景色がゆらいだ。
エヌ氏は、病院の廊下の長椅子にすわっていた。
分娩室の扉が、すぐそこにある。扉の向こうから、かすかに妻の声が聞こえる。エヌ氏は思わず立ちあがった。もうすぐだ。もうすぐ、あの子に会える。
しかし扉がひらく前に、景色はまたゆらいだ。
エヌ氏は、学芸会の客席にいた。幕は、まだあかない。それから、夜の玄関にいた。娘は、まだ帰らない。それから、父の病室のすみの椅子にいた。父は、まだ息をしている。
そして、また駅のホームに。
エヌ氏は、ようやく気がついた。
あずけたのは、待ち時間だった。引き出したのも、待ち時間だった。四十年分の、ありとあらゆる待ち時間が、利息のぶんまでていねいにつなぎあわされて、エヌ氏に返されたのだった。待っていた先にあったものは、ひとつも入っていなかった。それは、とうの昔に受けとってしまったのだから。
エヌ氏は、手首のボタンを押そうとした。しかし、機械はもうどこにもなかった。
アナウンスが、もう一度流れた。
「ただいま、電車が遅れております」
電車は、まだ来ない。
計算によれば、あと四十九年と十一か月ほどは、来ないはずである。




