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『お前の歌は耳障りだ』と婚約破棄されたので、二度とあなたのためには歌いません ~王都の鐘が鳴らなくなってから謝られても、もう遅いのです~

掲載日:2026/10/01

「お前の歌は、耳障りなんだ」


 春の祝宴で、アルベルト王太子殿下はそうおっしゃった。


 楽団の演奏が止まり、広間を満たしていた笑い声も消える。


 私は銀盆に載せていた杯を、落とさないよう両手で持ち直した。


「……わたくしの歌、でございますか」


「そうだ。毎朝毎朝、同じ歌を繰り返しているだろう。朝早くから甲高い声を聞かされる身にもなってみろ」


 殿下の隣では、男爵令嬢のミレーヌ様が扇で口元を隠していた。けれど、細められた目までは隠れていない。


「エレノア様は、とても熱心でいらっしゃいますものね。雨の日も、雪の日も。わたくしでしたら、皆様のお眠りを妨げると思って遠慮いたしますけれど」


 くすくすと笑いが広がった。


 私は返事をしなかった。


 毎朝、日の出とともに東塔へ上り、古い祈りの歌を歌う。


 好きで続けていたわけではない。


 あの歌は、王都を覆う結界を眠りから起こすためのものだ。


 王家と、代々歌い手を務める私の一族しか知らない秘事。民に不安を与えぬよう、歌の本当の役目を口外してはならないと教えられてきた。


 アルベルト殿下も、十二歳の立太子の儀で説明を受けている。


 そのはずだった。


「エレノア・ハイネ。君との婚約を、本日限りで破棄する」


 殿下の声が高い天井に響いた。


 ざわめきが起こる。


「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」


「理由?」


 殿下は心底あきれたように眉を上げた。


「陰気で、笑いもせず、朝から不吉な歌をうたう女を妃にできると思うのか。ミレーヌのように明るく、民を笑顔にする女性こそ、私の隣にふさわしい」


「まあ、殿下。わたくしはそのようなつもりでは」


 そう言いながら、ミレーヌ様は殿下の腕へ自分の腕を絡めた。


 私の胸には、不思議なほど何も湧かなかった。


 悲しみは、もっと前に使い切ってしまったのかもしれない。


 十歳で婚約してから八年間。殿下のお好きなものを覚え、苦手な話題を避け、王太子妃教育に耐えた。朝の歌で喉を傷めた日も、午後からは殿下の公務を手伝った。


 それでも一度として、歌のあとに労いの言葉をいただいたことはない。


 結界の説明を忘れてしまった殿下へ、私は何度もお伝えしようとした。


 けれど、そのたびに「朝から辛気臭い話をするな」と遮られた。


 今夜、ようやく分かった。


 殿下は忘れたのではない。


 初めから、私の言葉を聞く気がなかったのだ。


「承知いたしました」


 私は杯を近くの卓へ置いた。


「婚約破棄を、お受けいたします」


 広間が静まり返る。


 殿下は、なぜか不満そうだった。


「それだけか」


「ほかに、何かございますか」


「謝罪は?」


「何についての謝罪でしょう」


「ミレーヌを長く不安にさせたことだ。私に愛されてもいないくせに、婚約者の座へ居座り続けただろう」


 今度こそ、胸の奥で何かが切れた。


 音はしなかった。


 ただ、八年間握りしめていた糸が、あっけなく指から離れていった。


「申し訳ございませんでした、ミレーヌ様」


 私は淑女の礼をした。


 彼女は勝ち誇った笑みを浮かべる。


「分かってくださればよろしいのです。ああ、でもエレノア様。朝のお歌はこれからも続けてくださいませね。わたくし、早起きが苦手ですから」


「そうだ」


 殿下がうなずいた。


「婚約と役目は別だ。歌い手の務めまで投げ出すことは許さない」


 私は顔を上げた。


 お二人は本気だった。


 私から名前も居場所も取り上げて、それでも喉だけは王家のために差し出せと言っている。


「……かしこまりました」


 答えた瞬間、窓ガラスが大きく震えた。


 地の底から響くような咆哮が、王城を揺らす。


「魔獣だ!」


 誰かが叫んだ。


 西の空を覆う雲の中から、黒い翼が現れた。


 災厄級の飛竜。


 広間は一瞬で混乱に陥った。貴族たちは出口へ殺到し、楽器が倒れ、硝子の杯が床で砕ける。


 飛竜が火を吐いた。


 炎は王都の外壁へ降り注ぎ、淡い光の膜に弾かれた。


 しかし、膜には大きな亀裂が走っている。


 今朝の歌だけでは、日没後に現れた災厄級の攻撃を防ぎきれない。


「東塔へ行かなければ」


 私が駆け出すと、誰かに腕をつかまれた。


 振り返る。


 近衛騎士のルーカス・ノルト様だった。


 黒髪に灰色の瞳。必要なこと以外ほとんど話さないため、社交界では『石の騎士』と呼ばれている。


「お供します」


「ですが、殿下をお守りしなければ」


「殿下の護衛は足りています」


 短く答えると、ルーカス様は私の前へ出て道を開いた。


 人波を押し分け、倒れた燭台を蹴りのけ、私たちは東塔へ向かった。


 螺旋階段を駆け上がる間にも、衝撃が何度も城を揺らす。


「エレノア様」


 最上階の扉を前に、ルーカス様が私を呼び止めた。


「今から歌えば、どうなります」


 私は息を整えながら答えた。


「結界を強くできます」


「あなたは」


「……分かりません」


 嘘だった。


 分かっていた。


 先代の歌い手だった叔母は、一夜に二度、災厄を退ける歌をうたい、声を失った。


 でも、歌わなければ大勢が死ぬ。


 その中には、私を笑った人々も、私の話を聞かなかった殿下もいる。


 それでも、城下には何も知らず眠る子どもたちがいる。


 ルーカス様は私を見つめていた。


「嘘がお下手だ」


「申し訳ございません」


「謝らないでください」


 彼は腰の剣を抜き、私へ柄を向けた。


 そこには、細い青い紐が結ばれていた。


 見覚えがある。


「これは……」


「六年前、初めて近衛の試験を受けた朝、あなたからいただきました」


 そうだった。


 東塔へ向かう途中、緊張で青ざめた少年騎士を見かけた。名も知らぬその人へ、私は髪を結んでいた紐を渡したのだ。


 ――幸運の色です。きっと大丈夫。


 ほんの気まぐれだった。


「あなたは、お忘れでしょうが」


 ルーカス様の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「私は、あなたの声に救われました」


 飛竜が再び吠えた。


 結界の亀裂が広がる。


 私は剣の柄の青い紐に触れた。


 忘れられていたと思っていた私の言葉を、覚えている人がいた。


「行ってまいります」


「ここで、お待ちします」


 東塔の扉を開ける。


 風が髪をほどき、冷たい夜気が喉へ刺さった。


 私は王都を見下ろした。


 そして、歌った。


 一音目で、塔の床に刻まれた紋章が輝く。


 二音目で、街路の魔石灯が一斉に青く染まる。


 三音目で、王都を覆う結界の亀裂が閉じ始めた。


 喉が焼ける。


 口の中に血の味が広がる。


 それでも歌った。


 飛竜が炎を吐く。


 炎と歌が夜空でぶつかり、白い光が弾けた。


 私は最後の一節を、祈るように紡いだ。


 王都中の鐘が鳴り響いた。


 低い鐘、高い鐘、広場の鐘、教会の鐘。


 百を超える音が重なり、飛竜の翼を光が貫く。


 巨大な影は遠く西の森へ落ちた。


 歓声が、地上から湧き上がる。


 私は息を吸った。


 終わった、と言おうとした。


 けれど、空気が喉を通る音しか出なかった。


「エレノア様」


 ルーカス様が駆け寄ってくる。


 大丈夫です。


 そう答えたかった。


 声は、もうどこにもなかった。


 ◇


 翌朝、私は王城の客室で目を覚ました。


 枕元にはルーカス様がいた。椅子に座ったまま眠っている。


 青い紐のついた剣を抱き、眉間にしわを寄せていた。


 私が身じろぎすると、すぐに目を開ける。


「医師を呼びます」


 私は首を横に振った。


 喉へ触れ、口を開く。


 やはり声は出ない。


 ルーカス様は唇をきつく結んだ。


「医師は、声が戻るかは分からないと」


 私はうなずいた。


 覚悟していたことだ。


 扉が乱暴に開いた。


「エレノア!」


 アルベルト殿下が入ってくる。その後ろにはミレーヌ様もいた。


「いつまで寝ている。日の出は過ぎているぞ」


 私は窓を見た。


 朝日が王都の屋根を照らしている。


 けれど、いつもなら日の出とともに鳴るはずの鐘が、一つも鳴っていなかった。


 王都が、息をひそめているように静かだった。


「早く東塔へ行け」


 殿下が苛立った声で命じる。


 ルーカス様が立ち上がった。


「エレノア様は、昨夜の歌で声を失われました」


「声を?」


 殿下の顔から血の気が引いた。


 ようやく、思い出したのだろう。


 毎朝の歌が何のためにあったのか。


「では、結界はどうなる」


 その言葉に、ルーカス様の目が冷たくなる。


「最初に心配なさるのが、それですか」


「当然だろう! 王都には百万人の民がいるんだぞ」


「その百万人を救った方が、ここにいらっしゃいます」


 殿下は私を見た。


「エレノア。昨夜のことは褒めてやる。婚約破棄の件も、いったん保留にしてもいい。だから、何とかして歌え」


 私は殿下の顔を見つめた。


 八年間、この人に愛されたいと思っていた。


 昨夜までは。


 近くに紙とペンがある。


 私は一枚取り、文字を書いた。


 ――声は戻りません。


「ならば治せ。神官でも魔術師でも、好きなだけ使えばいい」


 ――戻ったとしても、もう歌いません。


「何?」


 殿下の声が低くなる。


「役目を放棄するつもりか」


 私は別の紙を手に取った。


 それは昨夜、婚約破棄のために用意されていた誓約書だった。殿下の署名だけがあり、私の欄は空白になっている。


 その裏へ、ゆっくりと書く。


 ――二度と、あなたのためには歌いません。


 殿下の顔が赤く染まった。


「誰のおかげで今まで暮らせたと思っている!」


 私は答えない。


 答えられないのではない。


 答える必要がなかった。


「殿下」


 ルーカス様が私と殿下の間へ立つ。


「昨夜、ご自身で婚約を破棄されました。エレノア様へ命令する権利は、もうありません」


「近衛の分際で、王太子に意見するのか」


「近衛だから申し上げています。王都を救った功労者を脅すお方に、民を守る資格はない」


 殿下が剣へ手をかける。


 そのとき、廊下から重い足音が近づいた。


「そこまでだ、アルベルト」


 国王陛下だった。


 宰相と、神殿長と、近衛隊長を従えている。


 陛下は私の前まで来ると、深く頭を下げた。


「エレノア嬢。王家を代表し、礼を言う。そして詫びさせてほしい」


 王が臣下へ頭を下げる。


 室内にいる全員が息をのんだ。


「歌い手の犠牲を当然と思い、その務めを秘したまま、正しい敬意を払わなかった。王家の過ちだ」


「父上、しかし結界が――」


「昨夜、結界院が古文書を調べ直した」


 陛下は息子を振り返った。


「あの歌は、王家との婚姻契約に付随する奉仕だ。お前が婚約を破棄した時点で、ハイネ家に歌う義務はない」


 殿下が固まる。


「そんな……」


「さらに、歌い手を侮辱し、危険を承知で二度目の歌を強いた。立太子の際に説明したはずだな」


「私は、よく覚えていなくて」


「王太子が国の根幹に関わる説明を覚えていない。それを無能と呼ばず、何と呼ぶ」


 陛下の声は静かだった。


 だからこそ、刃のように鋭かった。


 ミレーヌ様が一歩後ずさる。


「わ、わたくしは何も存じませんでした。殿下が、歌はただの習慣だと」


「知らなかったことは罪ではない」


 宰相が答えた。


「知ろうともせず、務めを果たす者を嘲笑した品性は、妃を選ぶ判断材料になりますが」


 彼女の顔が青ざめた。


 国王陛下はその日のうちに、アルベルト殿下の王太子位を停止した。


 ミレーヌ様との婚約話も消えた。


 そして王家は、歌い手一人の命と声に依存していた古い結界を廃止し、魔術師と神官による新しい防衛網を作ると公表した。


 朝の鐘は、三十日間鳴らなかった。


 それは王都が初めて、名も知らず守られていた日々を悼んだ期間になった。


 ◇


 私は王城を出て、北のハイネ領へ戻った。


 声がなくても、生活はできる。


 筆談もある。手ぶりもある。表情もある。


 けれど、話しかけられるたびに紙を探すのは不便だった。


 そこで私は、古い修道院で使われていた手指の言葉を習うことにした。


 最初の授業の日。


 教師の隣に、なぜかルーカス様が座っていた。


 私は目を瞬いた。


 彼は両手を動かした。


 ――おはようございます。


 ぎこちない。


 でも、意味は分かった。


 私も手を動かす。


 ――いつ覚えたのですか。


 ルーカス様は首をかしげた。まだ、その言葉までは習っていないらしい。


 私は笑い、紙へ同じ質問を書いた。


「王都を発つ前からです」


 彼は答えた。


「あなたと話したかったので」


 胸の奥が、温かくなる。


 声を失ってから、多くの人が私に言った。


 かわいそうに。


 早く治るといい。


 以前のあなたに戻れるといい。


 ルーカス様だけは、一度も言わなかった。


 今の私と話す方法を、黙って覚えてくれた。


 それから彼は、休暇のたびに領地へ来た。


 手指の言葉はなかなか上達しなかった。剣なら一度見ただけで型を覚えるのに、指を二本立てるところで三本立てたり、似た動きを取り違えたりする。


 ある日、庭の東屋で、彼が真剣な顔で手を動かした。


 ――あなたの羊が好きです。


 私は庭で草を食む羊を見た。


 ルーカス様は違う、と激しく首を振った。


 もう一度、慎重に手を動かす。


 ――あなたの歌が好きです。


 私は喉へ触れた。


 もう、歌えない。


 すると彼は、さらに続けた。


 ――あなたの声が好きでした。


 ――あなたの沈黙も好きです。


 ――あなたが笑うと、もっと好きです。


 最後の動きだけは、間違えなかった。


 ――あなたを愛しています。


 涙が頬を伝った。


 悲しい涙ではなかった。


 私は彼の手を取り、指の形を一つだけ直した。


 そして答える。


 ――私も、あなたを愛しています。


 その春、私たちは婚約した。


 式の日、王都から贈り物が届いた。


 小さな銀の鐘だった。


 鐘の内側には、国王陛下の文字でこう刻まれていた。


『あなたの声によって救われたすべての朝を、私たちは忘れない』


 私は鐘を鳴らした。


 澄んだ音が、春の庭へ広がっていく。


 ルーカス様が私を見る。


 私は声の代わりに、両手で伝えた。


 ――きれいな音ですね。


 彼はうなずき、少し考えてから答えた。


 ――あなたの笑顔のほうが、きれいです。


 また言葉を間違えているのかと思い、私は教師を見る。


 教師は笑って首を横に振った。


 今度は、正しいらしい。


 百年続いた王都の朝の歌は、もう聞こえない。


 けれど私は初めて、誰かの命令ではなく、自分で選んだ朝を迎えていた。


 声が戻ることはなかった。


 それでも私の言葉は、もう二度と、誰にも無視されなかった。


 了

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