『お前の歌は耳障りだ』と婚約破棄されたので、二度とあなたのためには歌いません ~王都の鐘が鳴らなくなってから謝られても、もう遅いのです~
「お前の歌は、耳障りなんだ」
春の祝宴で、アルベルト王太子殿下はそうおっしゃった。
楽団の演奏が止まり、広間を満たしていた笑い声も消える。
私は銀盆に載せていた杯を、落とさないよう両手で持ち直した。
「……わたくしの歌、でございますか」
「そうだ。毎朝毎朝、同じ歌を繰り返しているだろう。朝早くから甲高い声を聞かされる身にもなってみろ」
殿下の隣では、男爵令嬢のミレーヌ様が扇で口元を隠していた。けれど、細められた目までは隠れていない。
「エレノア様は、とても熱心でいらっしゃいますものね。雨の日も、雪の日も。わたくしでしたら、皆様のお眠りを妨げると思って遠慮いたしますけれど」
くすくすと笑いが広がった。
私は返事をしなかった。
毎朝、日の出とともに東塔へ上り、古い祈りの歌を歌う。
好きで続けていたわけではない。
あの歌は、王都を覆う結界を眠りから起こすためのものだ。
王家と、代々歌い手を務める私の一族しか知らない秘事。民に不安を与えぬよう、歌の本当の役目を口外してはならないと教えられてきた。
アルベルト殿下も、十二歳の立太子の儀で説明を受けている。
そのはずだった。
「エレノア・ハイネ。君との婚約を、本日限りで破棄する」
殿下の声が高い天井に響いた。
ざわめきが起こる。
「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「理由?」
殿下は心底あきれたように眉を上げた。
「陰気で、笑いもせず、朝から不吉な歌をうたう女を妃にできると思うのか。ミレーヌのように明るく、民を笑顔にする女性こそ、私の隣にふさわしい」
「まあ、殿下。わたくしはそのようなつもりでは」
そう言いながら、ミレーヌ様は殿下の腕へ自分の腕を絡めた。
私の胸には、不思議なほど何も湧かなかった。
悲しみは、もっと前に使い切ってしまったのかもしれない。
十歳で婚約してから八年間。殿下のお好きなものを覚え、苦手な話題を避け、王太子妃教育に耐えた。朝の歌で喉を傷めた日も、午後からは殿下の公務を手伝った。
それでも一度として、歌のあとに労いの言葉をいただいたことはない。
結界の説明を忘れてしまった殿下へ、私は何度もお伝えしようとした。
けれど、そのたびに「朝から辛気臭い話をするな」と遮られた。
今夜、ようやく分かった。
殿下は忘れたのではない。
初めから、私の言葉を聞く気がなかったのだ。
「承知いたしました」
私は杯を近くの卓へ置いた。
「婚約破棄を、お受けいたします」
広間が静まり返る。
殿下は、なぜか不満そうだった。
「それだけか」
「ほかに、何かございますか」
「謝罪は?」
「何についての謝罪でしょう」
「ミレーヌを長く不安にさせたことだ。私に愛されてもいないくせに、婚約者の座へ居座り続けただろう」
今度こそ、胸の奥で何かが切れた。
音はしなかった。
ただ、八年間握りしめていた糸が、あっけなく指から離れていった。
「申し訳ございませんでした、ミレーヌ様」
私は淑女の礼をした。
彼女は勝ち誇った笑みを浮かべる。
「分かってくださればよろしいのです。ああ、でもエレノア様。朝のお歌はこれからも続けてくださいませね。わたくし、早起きが苦手ですから」
「そうだ」
殿下がうなずいた。
「婚約と役目は別だ。歌い手の務めまで投げ出すことは許さない」
私は顔を上げた。
お二人は本気だった。
私から名前も居場所も取り上げて、それでも喉だけは王家のために差し出せと言っている。
「……かしこまりました」
答えた瞬間、窓ガラスが大きく震えた。
地の底から響くような咆哮が、王城を揺らす。
「魔獣だ!」
誰かが叫んだ。
西の空を覆う雲の中から、黒い翼が現れた。
災厄級の飛竜。
広間は一瞬で混乱に陥った。貴族たちは出口へ殺到し、楽器が倒れ、硝子の杯が床で砕ける。
飛竜が火を吐いた。
炎は王都の外壁へ降り注ぎ、淡い光の膜に弾かれた。
しかし、膜には大きな亀裂が走っている。
今朝の歌だけでは、日没後に現れた災厄級の攻撃を防ぎきれない。
「東塔へ行かなければ」
私が駆け出すと、誰かに腕をつかまれた。
振り返る。
近衛騎士のルーカス・ノルト様だった。
黒髪に灰色の瞳。必要なこと以外ほとんど話さないため、社交界では『石の騎士』と呼ばれている。
「お供します」
「ですが、殿下をお守りしなければ」
「殿下の護衛は足りています」
短く答えると、ルーカス様は私の前へ出て道を開いた。
人波を押し分け、倒れた燭台を蹴りのけ、私たちは東塔へ向かった。
螺旋階段を駆け上がる間にも、衝撃が何度も城を揺らす。
「エレノア様」
最上階の扉を前に、ルーカス様が私を呼び止めた。
「今から歌えば、どうなります」
私は息を整えながら答えた。
「結界を強くできます」
「あなたは」
「……分かりません」
嘘だった。
分かっていた。
先代の歌い手だった叔母は、一夜に二度、災厄を退ける歌をうたい、声を失った。
でも、歌わなければ大勢が死ぬ。
その中には、私を笑った人々も、私の話を聞かなかった殿下もいる。
それでも、城下には何も知らず眠る子どもたちがいる。
ルーカス様は私を見つめていた。
「嘘がお下手だ」
「申し訳ございません」
「謝らないでください」
彼は腰の剣を抜き、私へ柄を向けた。
そこには、細い青い紐が結ばれていた。
見覚えがある。
「これは……」
「六年前、初めて近衛の試験を受けた朝、あなたからいただきました」
そうだった。
東塔へ向かう途中、緊張で青ざめた少年騎士を見かけた。名も知らぬその人へ、私は髪を結んでいた紐を渡したのだ。
――幸運の色です。きっと大丈夫。
ほんの気まぐれだった。
「あなたは、お忘れでしょうが」
ルーカス様の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「私は、あなたの声に救われました」
飛竜が再び吠えた。
結界の亀裂が広がる。
私は剣の柄の青い紐に触れた。
忘れられていたと思っていた私の言葉を、覚えている人がいた。
「行ってまいります」
「ここで、お待ちします」
東塔の扉を開ける。
風が髪をほどき、冷たい夜気が喉へ刺さった。
私は王都を見下ろした。
そして、歌った。
一音目で、塔の床に刻まれた紋章が輝く。
二音目で、街路の魔石灯が一斉に青く染まる。
三音目で、王都を覆う結界の亀裂が閉じ始めた。
喉が焼ける。
口の中に血の味が広がる。
それでも歌った。
飛竜が炎を吐く。
炎と歌が夜空でぶつかり、白い光が弾けた。
私は最後の一節を、祈るように紡いだ。
王都中の鐘が鳴り響いた。
低い鐘、高い鐘、広場の鐘、教会の鐘。
百を超える音が重なり、飛竜の翼を光が貫く。
巨大な影は遠く西の森へ落ちた。
歓声が、地上から湧き上がる。
私は息を吸った。
終わった、と言おうとした。
けれど、空気が喉を通る音しか出なかった。
「エレノア様」
ルーカス様が駆け寄ってくる。
大丈夫です。
そう答えたかった。
声は、もうどこにもなかった。
◇
翌朝、私は王城の客室で目を覚ました。
枕元にはルーカス様がいた。椅子に座ったまま眠っている。
青い紐のついた剣を抱き、眉間にしわを寄せていた。
私が身じろぎすると、すぐに目を開ける。
「医師を呼びます」
私は首を横に振った。
喉へ触れ、口を開く。
やはり声は出ない。
ルーカス様は唇をきつく結んだ。
「医師は、声が戻るかは分からないと」
私はうなずいた。
覚悟していたことだ。
扉が乱暴に開いた。
「エレノア!」
アルベルト殿下が入ってくる。その後ろにはミレーヌ様もいた。
「いつまで寝ている。日の出は過ぎているぞ」
私は窓を見た。
朝日が王都の屋根を照らしている。
けれど、いつもなら日の出とともに鳴るはずの鐘が、一つも鳴っていなかった。
王都が、息をひそめているように静かだった。
「早く東塔へ行け」
殿下が苛立った声で命じる。
ルーカス様が立ち上がった。
「エレノア様は、昨夜の歌で声を失われました」
「声を?」
殿下の顔から血の気が引いた。
ようやく、思い出したのだろう。
毎朝の歌が何のためにあったのか。
「では、結界はどうなる」
その言葉に、ルーカス様の目が冷たくなる。
「最初に心配なさるのが、それですか」
「当然だろう! 王都には百万人の民がいるんだぞ」
「その百万人を救った方が、ここにいらっしゃいます」
殿下は私を見た。
「エレノア。昨夜のことは褒めてやる。婚約破棄の件も、いったん保留にしてもいい。だから、何とかして歌え」
私は殿下の顔を見つめた。
八年間、この人に愛されたいと思っていた。
昨夜までは。
近くに紙とペンがある。
私は一枚取り、文字を書いた。
――声は戻りません。
「ならば治せ。神官でも魔術師でも、好きなだけ使えばいい」
――戻ったとしても、もう歌いません。
「何?」
殿下の声が低くなる。
「役目を放棄するつもりか」
私は別の紙を手に取った。
それは昨夜、婚約破棄のために用意されていた誓約書だった。殿下の署名だけがあり、私の欄は空白になっている。
その裏へ、ゆっくりと書く。
――二度と、あなたのためには歌いません。
殿下の顔が赤く染まった。
「誰のおかげで今まで暮らせたと思っている!」
私は答えない。
答えられないのではない。
答える必要がなかった。
「殿下」
ルーカス様が私と殿下の間へ立つ。
「昨夜、ご自身で婚約を破棄されました。エレノア様へ命令する権利は、もうありません」
「近衛の分際で、王太子に意見するのか」
「近衛だから申し上げています。王都を救った功労者を脅すお方に、民を守る資格はない」
殿下が剣へ手をかける。
そのとき、廊下から重い足音が近づいた。
「そこまでだ、アルベルト」
国王陛下だった。
宰相と、神殿長と、近衛隊長を従えている。
陛下は私の前まで来ると、深く頭を下げた。
「エレノア嬢。王家を代表し、礼を言う。そして詫びさせてほしい」
王が臣下へ頭を下げる。
室内にいる全員が息をのんだ。
「歌い手の犠牲を当然と思い、その務めを秘したまま、正しい敬意を払わなかった。王家の過ちだ」
「父上、しかし結界が――」
「昨夜、結界院が古文書を調べ直した」
陛下は息子を振り返った。
「あの歌は、王家との婚姻契約に付随する奉仕だ。お前が婚約を破棄した時点で、ハイネ家に歌う義務はない」
殿下が固まる。
「そんな……」
「さらに、歌い手を侮辱し、危険を承知で二度目の歌を強いた。立太子の際に説明したはずだな」
「私は、よく覚えていなくて」
「王太子が国の根幹に関わる説明を覚えていない。それを無能と呼ばず、何と呼ぶ」
陛下の声は静かだった。
だからこそ、刃のように鋭かった。
ミレーヌ様が一歩後ずさる。
「わ、わたくしは何も存じませんでした。殿下が、歌はただの習慣だと」
「知らなかったことは罪ではない」
宰相が答えた。
「知ろうともせず、務めを果たす者を嘲笑した品性は、妃を選ぶ判断材料になりますが」
彼女の顔が青ざめた。
国王陛下はその日のうちに、アルベルト殿下の王太子位を停止した。
ミレーヌ様との婚約話も消えた。
そして王家は、歌い手一人の命と声に依存していた古い結界を廃止し、魔術師と神官による新しい防衛網を作ると公表した。
朝の鐘は、三十日間鳴らなかった。
それは王都が初めて、名も知らず守られていた日々を悼んだ期間になった。
◇
私は王城を出て、北のハイネ領へ戻った。
声がなくても、生活はできる。
筆談もある。手ぶりもある。表情もある。
けれど、話しかけられるたびに紙を探すのは不便だった。
そこで私は、古い修道院で使われていた手指の言葉を習うことにした。
最初の授業の日。
教師の隣に、なぜかルーカス様が座っていた。
私は目を瞬いた。
彼は両手を動かした。
――おはようございます。
ぎこちない。
でも、意味は分かった。
私も手を動かす。
――いつ覚えたのですか。
ルーカス様は首をかしげた。まだ、その言葉までは習っていないらしい。
私は笑い、紙へ同じ質問を書いた。
「王都を発つ前からです」
彼は答えた。
「あなたと話したかったので」
胸の奥が、温かくなる。
声を失ってから、多くの人が私に言った。
かわいそうに。
早く治るといい。
以前のあなたに戻れるといい。
ルーカス様だけは、一度も言わなかった。
今の私と話す方法を、黙って覚えてくれた。
それから彼は、休暇のたびに領地へ来た。
手指の言葉はなかなか上達しなかった。剣なら一度見ただけで型を覚えるのに、指を二本立てるところで三本立てたり、似た動きを取り違えたりする。
ある日、庭の東屋で、彼が真剣な顔で手を動かした。
――あなたの羊が好きです。
私は庭で草を食む羊を見た。
ルーカス様は違う、と激しく首を振った。
もう一度、慎重に手を動かす。
――あなたの歌が好きです。
私は喉へ触れた。
もう、歌えない。
すると彼は、さらに続けた。
――あなたの声が好きでした。
――あなたの沈黙も好きです。
――あなたが笑うと、もっと好きです。
最後の動きだけは、間違えなかった。
――あなたを愛しています。
涙が頬を伝った。
悲しい涙ではなかった。
私は彼の手を取り、指の形を一つだけ直した。
そして答える。
――私も、あなたを愛しています。
その春、私たちは婚約した。
式の日、王都から贈り物が届いた。
小さな銀の鐘だった。
鐘の内側には、国王陛下の文字でこう刻まれていた。
『あなたの声によって救われたすべての朝を、私たちは忘れない』
私は鐘を鳴らした。
澄んだ音が、春の庭へ広がっていく。
ルーカス様が私を見る。
私は声の代わりに、両手で伝えた。
――きれいな音ですね。
彼はうなずき、少し考えてから答えた。
――あなたの笑顔のほうが、きれいです。
また言葉を間違えているのかと思い、私は教師を見る。
教師は笑って首を横に振った。
今度は、正しいらしい。
百年続いた王都の朝の歌は、もう聞こえない。
けれど私は初めて、誰かの命令ではなく、自分で選んだ朝を迎えていた。
声が戻ることはなかった。
それでも私の言葉は、もう二度と、誰にも無視されなかった。
了




