第四話 「徒花を咲かせた君へ」
意識が浮かび上がる。
ぼんやりとした光が、視界に滲んだ。
白い天井。
知らないはずなのに、どこか見覚えのある光景。
ゆっくりと、瞬きをする。
音が、遅れて戻ってくる。
機械の電子音。
かすかな話し声。
そして――泣き声。
「……っ、薫……!」
視界の端で、人影が揺れた。
母親だった。
その隣で、父親も立っている。
どちらも、泣いていた。
どうして、そんな顔をしているのか。
うまく理解できなかった。
「……俺……」
声が、ひどく掠れていた。
喉が乾いている。
「……助かった…んだよな……」
母親の声が震える。
「奇跡みたいに……ドナーが見つかって……」
その言葉で、少しずつ現実が形を持ち始める。
――助かった。
そうか。
自分は、生きているのか。
──誰かの犠牲で。
その事実のせいで、喜びという感情をあまり感じはしなかった。
胸の奥に、違和感があった。
手を当てる。
鼓動がある。
確かに、動いている。
けれど。
どこか、自分のものじゃないような感覚。
「……誰」
ぽつりと、零れる。
「……ドナー」
部屋の空気が、わずかに揺れた。
さっきまで喜んでいた両親の表情が一気に曇り、言葉に詰まっている。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
「……先生を呼ぶわね」
母親が逃げるための言い訳かのようにそう言って、部屋を出ていく。
父親も、それに続いた。
静寂が、残る。
機械音だけが、規則正しく響く。
しばらくして、医者と担任が入ってきた。少し遅れて、両親も。
簡単な説明。
手術は成功したこと。
もうしばらくすれば、日常生活に戻れること。
言葉は理解できる。
でも、頭に入ってこない。
知りたいのは、それじゃなかった。
「……ドナーは」
遮るように言う。
医者が、一瞬だけ言葉を止めた。
そして、視線を担任に向ける。
だがそんな視線をはじくかのように担任は薫から目を逸らした。
そんな両親と同じ逃げるような選択をする担任に、苛立ちを感じてしまった。
それでも、諦めずに聞いた。
聞かなければならなかった。
「……誰ですか」
声が、震える。
担任が、ゆっくりと口を開く。
その名前を聞いた瞬間。
時間が止まった。
「……は?」
理解できない。
したくない。
頭が、拒絶する。
「……なんでだよ」
声が漏れる。
震えが止まらない。
「なんで……あいつなんだよ……」
胸の奥が、強く痛む。
鼓動が、うるさい。
「なんで……勝手に決めてんだよ……!」
初めてだった。
こんな風に、誰かに怒りをぶつけるのは。
「生きろって言っただろ……!」
視界が滲む。
思わず自分の顔を掴み、血が出そうなほどの強い力を籠めた。
何も、届かない。
もう、届かない。
「なんで……お前が……死んでんだよ……」
言葉が、崩れる。
涙が止まらない。
どれくらい、そうしていただろうか。
気づけば、部屋には誰もいなかった。
静かだった。
あまりにも、静かだった。
机の上に、封筒が置かれていた。
白い封筒。
見覚えのない字。
でも。
誰が書いたのかは、わかっていた。
震える手で、封を切る。
中から、一枚の紙を取り出す。
そこに書かれていたのは。
『もう少し、頑張ってみろよ』
それだけだった。
面白くないのに、すこし笑ってしまった。
涙が溢れたまま。
「……ふざけんなよ……」
声が震える。
「なんで…お前が言ってんだよ…」
紙を握りしめる。
しわになる。
それでも、離せなかった。
どれだけ考えても、答えは出なかった。
どうして。
どうして、自分なのか。
どうして、あいつが死ぬのか。
あの日。
屋上で。
手を掴んだ。
助けたはずだった。
なのに。
「……助けられてねぇじゃんかよ……」
声が、消える。
嫌いでもないはずの静寂が、薫を苦しめた。
それからの日々は、曖昧だった。
リハビリ。
検査。
退院の準備。
すべてが、どこか現実感のないまま過ぎていった。
ただ一つだけ、確かなものがあった。
胸の奥で鳴る、鼓動。
ドクン。
ドクン。
その音が鳴るたびに、思い出す。
あいつのことを。
退院の日。
外に出る。
空気が、少しだけ違って感じた。
光が眩しい。
息を吸う。
胸が動く。
生きている。
でも。
それは、自分だけのものじゃなかった。
歩き出す。
足は、思ったよりも重い。
ふと、足が止まる。
視界の端に、赤い色が映った。
道端に、花が咲いていた。
細い茎に、広がる花弁。
見覚えのある形。
でも、言えなかった。
あいつを救えなかった俺に、名前をだす資格はない。
あの日から、薫は凪のヒーローになれた気がしていた。
だからこそ、自分を否定した。否定して、憎んで、泣いて。そんなことが何度もあったことを思い出した。
ただ、見つめる。
風が吹く。
花が揺れる。
あの日と、同じだった。
胸に手を当てる。
ドクン。
ドクン。
音が、大きい。
「……わかったよ」
そう言った。
言ったはずなのに。
足は、動かなかった。
前に進まなきゃいけないのに。
進めない。
「……頑張ってみるよ」
声が、弱い。
本当にできるのか、自分でもわからない。
それでも。
そう言うしかなかった。
薫には似合わないほどの弱い声と失った自信。
胸の奥で鳴る鼓動だけが、やけに確かだった。
その音が。
どうしても、忘れられなかった。
風が吹く。
赤い花が揺れる。
まるで、何かを咲かせるように。
けれど、それが何なのかは。
最後まで、わからなかった。




