第二話 「一人で韜晦した君へ」
あの日から、屋上に行くことが当たり前になった。
昼休みになると、自然と足が向く。
扉を開けると、だいたい薫がいる。
「おせぇ」
それが、いつもの挨拶だった。
「……別に、普通でしょ」
「俺からしたら遅い」
意味のわからない基準で文句を言う。
最初は戸惑っていたそのやりとりも、いつの間にか当たり前になっていた。
凪は、屋上の端には近づかなくなっていた。
代わりに、少し離れた場所に座る。
薫も、何も言わない。
ただ、隣に座るだけだ。
「なあ、今日どこ行く?」
ある日の昼休み、薫が言った。
「また行くの?」
「当たり前だろ」
即答だった。
「たった二、三回程度で人生の美しさなんて語れるわけないじゃんか。」
その言葉に、少しだけ考える。
言われてみたら、そうなのかもしれない。
「……どこでもいい」
「よし決まり」
何も決まっていないのに、薫は満足そうに頷いた。
放課後。
その日は、電車に乗った。
「遠くない?」
「いいんだよ、たまには」
窓の外の景色が流れていく。
こんな風にどこかへ行くのは、いつぶりだろうか。
思い出せないくらい、遠い記憶だった。
着いた先は、水族館だった。
薄暗い館内。青い光。
ゆっくりと泳ぐ魚たち。
言葉が出なかった。
ただ、見ていた。
表情は変えなかった。変える理由がなかった。
「どうよ」
隣で薫が言う。
「……綺麗」
それだけだった。
それだけなのに、十分だった。
そんな凪を見て、薫は一人満足そうにしていた。
帰り道。
人通りの少ない道を歩く。
沈みかけた夕日が、街を赤く染めていた。
「なあ」
薫が前を見たまま言う。
「お前、花好きだろ」
「なんで、そう思うの?」
当然の疑問だと思って聞いたはずだったけど、この質問は薫にとっては意外だったらしい。
薫は、顎に手をあて少し考えてから発言した。
「彼岸花のこととかさ、色々教えてくれたから…とか?」
明るい声だった。
「…昔、親にプレゼントされたんだ。」
そう言いながら、古い茶色の本の姿を思い浮かべる。
「へえ」
薫は軽く笑った。
「素敵な話じゃんか、もっと早く話せよそれ」
薫は凪のほうを見て肩をつついてきた。
その言葉に、何も返せなかった。
──学校では、相変わらずだった。
机に落書き。
なくなる靴。
聞こえる笑い声。
体への攻撃はかなり減った。けどそれは他への攻撃を増やすための要因に過ぎなかった。
でも、前とは違う。
放課後がある。
屋上がある。
薫がいる。
それだけで、耐えられた。
「お前さ」
ある日、薫が言った。
「最近、顔マシになってきたな」
「……何それ」
「最初死にそうな顔してたぞ」
せっかく変わって来たところなのに…と思いながら凪は不機嫌そうな顔を浮かべた。
「……うるさい」
「でも今は、ちょっとマシ」
そんな言葉に、少しだけ、顔の表情が柔らかくなる。
そんな自分に、驚いた。
屋上に吹く風は、相変わらず強い。
でも、あの日とは違った。
冷たさよりも、心地よさを感じることが増えていた。
その変化に、一番気づいていなかったのは、自分だった。
ある日。
靴箱を開けると、靴がなかった。
いつものことだった。
ため息をつく。
探しに行こうとした、そのとき。
「ほら」
横から差し出される靴。
自分のものだった。
「……なんで」
「たまたま見つけた」
軽く言う。
本当は違うと、なんとなくわかった。
わかってしまったからなのか、ちょっと笑ってしまった。
「……ありがと」
「おう」
それだけで、十分だった。
帰り道。
「なあ」
薫が言う。
「もしさ」
珍しく、少し間を置く。
「俺いなくなったら、どうする?」
心臓が、少しだけ強く鳴った。
冗談なはずなのに、冗談に聞こえなかった。
「……え?」
「いや、なんとなく」
軽く笑う。
「そんなわけないだろ」
そう言おうとした。
でも。
言葉が出なかった。
「……別に」
目を逸らす。
「どうも思わないよ。」
嘘だった。
自分でもわかっていた。
「そっか」
薫はそれ以上何も言わなかった。
その日の夜。
なぜか眠れなかった。
頭の中に、さっきの言葉が残っている。
――いなくなったら。
考えたくないのに、考えてしまう。
「……あるわけない」
小さく呟く。
それでも、不安は消えなかった。
次の日。
屋上に行く。
扉を開ける。
風が吹く。
でも。
そこに、薫はいなかった。
「……あれ」
見渡す。
いない。
珍しいだけだ。
そう思った。
少し待つ。
でも、来ない。
次の日も。
その次の日も。
いなかった。
胸の奥が、ざわつく。
理由のわからない不安。
それを、無理やり押し込める。
「……来るよね…」
自分を納得させるための言葉だった。
誰に言うでもなく、呟く。
でも、
来なかった。
ある日の昼休み。
いつものように屋上に向かう。
扉に手をかける。
少しだけ、ためらう。
開ける。
風。
誰もいない。
静かすぎる。
そのときだった。
背後で、扉が大きな音を立てた。
思わず全身が硬直したが、すぐに解除し振り向く。
そこにいたのは――
見慣れた顔。
いじめっ子だった。




