第一話 『僕を否定した君へ』
屋上の端に立った。
風が強い。制服の裾が揺れて、視界の端でちらつく。
足元を見下ろすと、思っていたよりも高かった。
ここから落ちたらどうなるのか、なんて考えなくてもわかる。
それでも。
凪は、足を引かなかった。
――もういい。
何度もそう思った。
何度も繰り返した。
そのたびに、どこかで踏みとどまって、結局また同じ日常に戻って。
教室のざわめき。
視線。
笑い声。
全部が、どうでもよくなった。
だから、今度こそ。
「……終わりにしたい」
小さく呟く。
声は風にかき消されて、誰にも届かない。
届かなくていい。
どうせ、僕の声なんか誰も聞かないんだから…
そう思った、そのときだった。
腕を掴まれた。
強い力だった。
「っ……!」
反射的に振り払う。
「なんだよ…なにも…知らないだろ!」
振り返る。
そこには、見知らぬ生徒が立っていた。
息を乱す様子もなく、ただこちらを見ている。
「……あぁそうだ。俺は何も知らない」
落ち着いた声だった。
「でも、おまえも知らない」
「は……?」
意味がわからない。
けれど、その一言で、足が止まった。
「人生の美しさだよ」
風が吹く。
「綺麗事だと思うなら、それでいい。でもな、おまえはそれを知らないから死のうとした」
苛立ちがこみ上げる。
「俺的にはさ、そうやって死なれるの、胸糞悪いんだわ」
一歩、距離を詰められる。
「だから教えてやる。綺麗事だなんて思えなくなるくらいにな」
その目は、真っ直ぐだった。
まるで、本気でそう思っているみたいに。
「……もう少し、頑張ってみろ」
その言葉だけが、なぜか胸に残った。
軽いはずなのに。
何度も言われてきたはずなのに。
なんで、この人はその顔で言えるんだ。
「俺、蓮見薫。お前は?」
少しの間、迷ったあと。
「……水瀬…凪」
名前を口にした。
その瞬間、何かが変わった気がした。
次の日。
凪は、気づけば屋上に向かっていた。
理由なんてない。
ただ、足が勝手に動いていた。
扉を開ける。
きしむ音と一緒に、光が差し込む。
昨日と同じ景色なはずなのに、全く違うような感覚に襲われた。
そうして目が光に慣れ、手を降ろした時にわかった。
そこに、いた。
「来るって、わかってたの?」
思わず聞いてしまう。
「わかるわけねぇだろ」
振り返って笑う。
「俺が来たいから来てるだけだ」
相変わらず意味がわからない。
でも、少しだけ安心した。
凪は端には近づかず、少し離れた場所に腰を下ろした。
沈黙が流れる。
気まずいわけじゃない。
ただ、何を話せばいいのかわからなかった。
「なあ」
先に口を開いたのは薫だった。
「お前、昨日あそこから飛ぶつもりだったんだよな」
体が強張る。
「……だったら、何」
「別に責めてるわけじゃねぇよ」
軽く言う。
「なんでって、思っただけだ。」
「……。」
声が出なかった。
「あのときはさ、人生の美しさだ〜とか、とにかくお前のこと止めるのに必死でさ、結局なにも聞けなかったじゃんか。」
そうやって話しかけられ続けたが、凪は沈黙を貫くしかなかった。対等に人と話すこと自体、したことがあったのはかなり昔のことだったからだ。
「…やっぱ答えたくねぇか。ごめんな、無理に聞くような真似して。」
またしばらくお互いに沈黙が続いた。
凪は何度も言葉を出そうとした。でも、それが薫にとって対等に感じれる言葉なのかが分からなくて、口だけを動かすだけになったのが何度かあった。
そんな凪の様子に気づいたのか、薫が再び口を開く。
「…とりあえず今日さ、時間ある?」
「……なんで」
今度はなぜかはっきりとした声がでた。
「言っただろ。教えてやるって」
振り向いて笑う。
「人生の美しさ」
その言葉に、昨日の感覚が蘇る。
「……別に」
少しだけ迷ってから。
「あるけど」
「そっか。よしじゃあ決まりな!」
薫は立ち上がった。
「放課後な」
放課後。
靴箱に向かい、自分の靴があるべき場所を見つめた。
…またか。
もう大分慣れてきた。凪は溜息をついて、靴を探し始めた。
それから靴が見つかったのは、数分後のこと。思っていたよりも早かったようだ。
見つけた場所は、階段の踊り場。夕日が差し込んでいて、白色の靴をオレンジ色に照らしていた。
「何してんだよ。」
予想外のタイミングでの声にビクッとした。階段の上をみると、薫が凪を見下ろしているのが見えた。
「お前の靴、踊り場に置いてんの?」
少し笑いながら言ってきたもんだから、凪も苦笑いで返した。
「…いじめられてんのか?」
凪の心に直接的な刃を刺す言葉だった。その言葉で泣かないように、舌を噛む。
薫は凪のそんな様子を察したのか、ゆっくりと階段を降り、凪が拾わなかった凪の靴を拾い上げ、凪へ突き出すように向けた。
「…すまん、ちょっと用事思い出したからさ、先に校門前で待っててくれ。すぐ行くから。」
薫からの靴を受け取った瞬間、薫は凪のそばを通り抜けて行った。
───一方、薫は苛立ちを感じていた。いじめられている子がいるという噂は知っていた。その犯人も。
だが、被害者は知らなかった。最も、凪であるということを理解したときは、酷く犯人を憎んだ。凪より先に学校を出ると、その犯人が他の友達と笑っているのが見えた。
「おい」
殺意の籠もった、本人が想定するよりもずっと低い声がでた。
「おー薫じゃん、どうしたんだよそんな不機嫌そうな顔で。」
いじめっ子。そのリーダーから向けられた、なにも理解していない顔。
「お前さ、いや、お前らって言ったほうが正しいか?…凪のこと、いじめてんの?」
「あ?あーあの陰キャ?あいつ反撃もしないからストレス解消にちょうどいいんだよ、今度一緒におまえもやろうぜ」
そんな言葉に取り巻きが賛同や称賛の声を上げた。皆が笑い、心配する者はいなかった。
「あのさ、あいつ俺の友達なんだわ。だからあぁ言う事されると困るわけ。…正義振りたいわけじゃないけどさ、そういうことやめろよ。」
「は?」
ある者は不安の表情を抱き、ある者は怒りを感じた。
リーダーは後者だったようだ。
「薫…お前は仲間だと思っていたんだが…そういう奴ならしょうがねぇよなぁ?」
取り巻きが一歩後退し、リーダーは一歩前進した。
薫は、あの時の凪の顔を思い出しながら、リーダーへと歩き出した。
──本当に来るのか、半信半疑だった。
自分なんかと出かけて、何が楽しいのか。
そう思っていた。
「よぉ、悪い、遅くなっちまった。」
後ろから声がした。
振り向くと、薫がいた。
なぜか少し汚れているが、怪我はない。
「……来るんだ」
「来るって言っただろ」
当たり前のように言う。
その態度が、少しだけ救いだった。
そうして腕を掴まれた。あのときとは違う、優しい力。止めるためじゃなく、進むための力。
その後はゲームセンターに連れていかれた。
音がうるさい。
光が眩しい。
でも、嫌じゃなかった。
「ほらやってみろよ」
肩を掴まれ、椅子に座らされた。
「いや、無理」
「いいからいいから」
強引だった。
でも、その強引さがありがたかった。
少しずつ、笑う回数が増えた。
自分でも気づかないうちに。
帰り道。
沈みかけた夕日が、街を赤く染めていた。
道端に、赤い花が咲いていた。
細く伸びた茎に、広がる花弁。
「……あれ」
思わず立ち止まる。
「ん?」
「この花、知ってる?」
「いや」
凪は少しだけ、息を整えてから言った。
「彼岸花っていうの」
静かな声だった。
「へえ」
薫はそれを見つめる。
「覚えとくわ」
その言葉に、少しだけ胸が温かくなった。
それだけで、十分だった。
次の日も、屋上に行った。
薫は、やっぱりいた。
その次の日も。
その次の日も。
少しずつ、会話が増えていった。
くだらない話ばかりだった。
でも、それがよかった。
「お前さ」
ある日、薫が言った。
「いじめられてんだろ」
体が固まる。
「……別に」
「別にじゃねぇだろ」
軽く言う。
「見りゃわかる」
何も言えなかった。
言いたくなかった。
「言えよ」
少しだけ、声のトーンが下がる。
「友達だろ?」
その言葉に、息が詰まる。
「言わなきゃ、助けられねぇじゃん」
何も返せなかった。
「次からはちゃんと言えよ。といっても、次はないだろうけどな。」
相変わらず、理解できない言葉ばっか吐くやつだった。
でも。
胸の奥に、その言葉が残った。
その日の帰り道。
一人で歩きながら、ふと思う。
「……友達、か」
呟いた声は、小さかった。
でも、確かにそこにあった。
空を見上げる。
赤く染まり始めた空。
昨日と同じ色。
でも、少しだけ違って見えた。
理由はわからない。
わからないけど。
ほんの少しだけ。
――もう少しだけ、生きてみてもいいかもしれない。
そんなことを、思ってしまった。




