甘い毒の副作用
不倫という関係には、特有の「賞味期限」がある。
最初のスリルが日常に溶け込み、背徳感が義務感へと変質し始めるその瞬間、甘い毒は急激に副作用をもたらし始める。
「ねえ、なんで昨日の夜、LINE返してくれなかったの?」
月曜日の昼下がり。会社の休憩室でスマートフォンを開いた健一は、莉乃からの通知を見て溜息をついた。かつては胸を躍らせた彼女からの連絡が、今ではまるで未処理のタスクのように重くのしかかる。
『昨日は真由美がいたから。ごめん。』
短く返信を打ち、すぐに画面を伏せる。
真由美は、あの日「実家の母の看病」から戻ってきて以来、以前にも増して饒舌になっていた。
「お母さんね、急に血圧が上がっちゃって。でも健一さんがお仕事頑張ってるから、自分も頑張らなきゃって言ってたわよ」
そう微笑む彼女の瞳は、相変わらず奥の方が笑っていない。彼女の語る「母親の病状」が真実なのか、それとも自分を試すための作り話なのか、健一には判別がつかなくなっていた。
その日の仕事帰り、健一は強引に莉乃に呼び出された。
場所は恵比寿のバーではなく、彼女が住むマンションの近くにある、冴えないファミレスだった。
「私、もう限界なの」
莉乃は化粧の崩れた顔で、ドリンクバーのメロンソーダをかき混ぜていた。
「夫が、私の浮気を疑い始めてる。昨日の夜、寝てる間にスマホを見られそうになったの」
「……それは、大丈夫だったのか?」
「暗証番号を変えてたから、その場は凌いだけど。でも、彼は執念深いの。健一さん、あなたも他人事じゃないわよ。もしバレたら、私の夫、あなたの会社にだって乗り込み兼ねないんだから」
健一の喉が鳴った。莉乃の夫は、建設コンサルタント会社を経営する、気性の荒い男だと聞いている。もし不倫が露見すれば、慰謝料だけで済む話ではない。社会的地位、キャリア、そして今の平穏な(あるいは平穏を装った)生活のすべてが瓦解する。
「少し、会う頻度を落とそう。お互いのために」
健一が提案すると、莉乃はカチリ、とグラスにストローをぶつけた。
「……逃げるの? 私がこんなに怯えてるのに、自分だけ守ろうとするんだ」
「そうじゃない。リスクを最小限にするための——」
「愛してるって言ったじゃない!」
莉乃の声が店内に響き、数人の客がこちらを振り返った。健一は冷や汗が背中を流れるのを感じた。
「……分かった。分かったから、声を落としてくれ。愛してるよ、莉乃。でも、今は冷静にならないと」
必死になだめ、彼女をタクシーに乗せて見送った後、健一は激しい疲労感に襲われた。
莉乃との関係は、もはや「癒やし」ではなかった。それは、いつ爆発するか分からない不発弾を抱えて、綱渡りをしているようなものだった。
深夜。
重い足取りで帰宅した健一を待っていたのは、暗闇の中に座る真由美だった。
彼女はリビングのソファで、電気もつけずに、ただ一点を見つめていた。
「……真由美? 起きてたのか」
「ええ。あなたが帰ってくるのを、数えていたの」
「数えてた……何を?」
「時計の針の音よ。一秒、二秒って。四時間半。あなたが『残業』を始めてから、ちょうどそれだけの時間が過ぎたわ」
真由美が立ち上がり、ゆっくりと健一に近づく。
彼女の手には、あの「ノート」ではなく、一枚の白い封筒が握られていた。
「健一さん。今日、ポストに変なものが入っていたの。宛名もなくて、ただの白い封筒」
真由美はそれを健一に差し出した。
健一が震える手で中身を取り出すと、そこには数枚の写真が収められていた。
一枚目は、先週、恵比寿のホテルから出てくる健一と莉乃の後ろ姿。
二枚目は、タクシーの中で莉乃が健一の肩に頭を預けている横顔。
そして三枚目は——つい一時間前、ファミレスの窓越しに、莉乃が健一に詰め寄っている場面だった。
「これ……っ」
血の気が引く。心臓が痛いほどに脈打つ。
「誰が、こんなものを……」
「さあ? でも、これを見たとき、私、不思議と悲しくなかったの」
真由美は健一の頬に、冷たい指先で触れた。
「ああ、やっぱりこの人は、私の予想通りのルートを辿ってくれるんだって。安心しちゃった」
真由美の声には、狂気と歓喜が混じり合っていた。
健一は悟った。自分を追い詰めているのは、莉乃の夫でも、探偵でもない。
目の前にいる、この「温度のない妻」こそが、すべての糸を引いているのではないかという恐怖に。
「健一さん、お茶を淹れるわね。これから……長いお話をしましょう?」
真由美の背後で、キッチンのタイマーが、無機質な音で終了を告げた。
それは、偽りの平穏が完全に終焉を迎えた合図だった。




