鏡合わせの嘘
莉乃との情事から一週間。健一の日常は、奇妙な二重生活の色を帯び始めていた。
会社での仕事中、不意にスマートフォンの画面が光る。莉乃からの、甘く、それでいて切迫したメッセージ。
『昨日の香りがまだ残ってるみたい。早くまた会いたいな』
デスクの陰でそれを見るたび、健一の心臓は早鐘を打ち、背徳感という名の麻薬が全身を駆け巡る。彼はトイレに立つふりをして、鏡の前で自分の顔を確認した。そこには、退屈な日常に飽き飽きしていた男ではなく、誰かに「強く求められている」という全能感に満ちた男の顔があった。
一方、自宅の空気は、以前にも増して密度を増していた。
「健一さん、最近、お仕事が随分とお忙しいみたいね」
土曜日の朝、真由美がトーストを皿に置きながら言った。彼女の視線は、健一の目ではなく、彼の「喉元」に向けられているようだった。
「ああ、大きなプロジェクトが動いててさ。来月まではバタバタすると思う」
「そう……。体、壊さないようにね。栄養のあるもの、もっと作ったほうがいいかしら」
真由美は甲斐甲斐しく立ち働く。その姿は、絵に描いたような「良き妻」そのものだ。しかし、健一はその献身さに、言いようのない不気味さを感じ始めていた。彼女が洗ったシャツの襟元が、以前よりも白すぎる気がする。彼女が淹れたコーヒーが、以前よりも苦すぎる気がする。
「……真由美、そのノート、まだ書いてるのか?」
ふと思い出し、健一は先夜の問いを重ねた。
真由美の手が、一瞬だけ止まる。
「ええ。記録は大切よ。あとで見返したときに、あんなこともあった、こんなこともあったって、笑える日が来るかもしれないから」
彼女はそう言って、キッチンの奥にある「自分専用の棚」に視線をやった。そこには、同じ装丁のノートが数冊、整然と並べられている。
健一が家を出た後、真由美はリビングのカーテンを閉め切った。
彼女はおもむろに最新のノートを取り出し、万年筆を握る。
『〇月〇日(土)午前9時15分。
夫、嘘をつく。視線は左斜め下。
「プロジェクト」という単語を使う際、指先でテーブルを叩く癖。
金曜日のシャツから検出された香料は、ムスク系。私の好みとは180度異なる、安っぽい官能の匂い。
相手は、おそらく20代後半から30代前半。
泳がせる時間は、あと二ヶ月といったところか。』
真由美の文字は、定規で引いたように真っ直ぐで、感情の揺らぎが一切なかった。
彼女にとって、健一の不倫は「悲劇」ではなかった。それは、変化のない退屈な日常に投じられた、最高にエキサイティングな「観察対象」だったのだ。
真由美は結婚してから、自分のアイデンティティを消し去ることに全力を注いできた。感情を殺し、反応をパターン化し、健一にとっての「背景」になること。そうすることで、彼がいつ、どのような形で自分を裏切るかを実験していたのだ。
午後、健一は莉乃と会うために「休日出勤」と称して家を出た。
ホテルのベッドの上で、莉乃が健一の胸に顔を埋めながら囁く。
「ねえ、健一さん。奥さんと別れて、なんて言ったら困る?」
「……今は、そんなこと考えられないよ」
健一は彼女の髪を撫でるが、その心はどこか冷めていた。莉乃の情熱は、重荷になり始めていた。彼はただ、日常からの「逃避」がしたかっただけで、別の日常を築きたいわけではなかった。
夕刻、健一が帰宅すると、家の中は真っ暗だった。
「真由美?」
返事はない。キッチンに行くと、メモが置かれていた。
『実家の母の具合が悪いので、一晩泊まってきます。冷蔵庫に作り置きがあります。』
健一は安堵した。今夜は、莉乃の香りを気にせずにゆっくり眠れる。
しかし、彼が冷蔵庫を開けたとき、背筋に冷たいものが走った。
冷蔵庫の中には、びっしりと「肉」が詰まっていた。
それも、スーパーで売っているパックのままではなく、すべてが同じ大きさ、同じ形の正方形にカットされ、不気味なほど整然とラップに包まれている。
その数は、正確に「一ヶ月分」の夕食の回数と同じだった。
健一は、自分が何かに追い詰められているような錯覚に陥った。真由美は、実家に行ったのではない。彼女は、この家の中に「不在」という名のプレッシャーを充満させていったのだ。
その頃、真由美は実家ではなく、ある探偵事務所の前に立っていた。
彼女の手には、あのノートと、健一がゴミ箱に捨てたつもりの「ホテルの領収書」が握られていた。
「準備は整ったわ」
彼女は誰に聞かせるでもなく呟き、夜の街へと消えていった。




