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金曜日の共犯者

金曜日の午後、都心へ向かう地下鉄の窓には、ネクタイを締め直す健一の顔が映っていた。

仕事の打ち合わせを早々に切り上げ、彼は「接待」という大義名分を盾に、恵比寿の雑踏へと降り立った。


街は週末の解放感に満ちている。カップルやグループが楽しげに談笑する中、健一の足取りだけが、どこか浮き足立ち、同時に重かった。目的のバーは、大通りから一本入った路地の地下にある。大学時代、サークルの打ち上げの喧騒を逃れて、莉乃と二人きりで忍び込んだ思い出の場所だ。


重い木製のドアを開けると、カサブランカの強い香りと、微かなタバコの煙が混じった空気が流れてきた。薄暗い店内のカウンターの隅に、彼女はいた。


「……健一さん」


莉乃が振り返る。三年前の同窓会よりも少し髪を短くし、耳元で揺れるパールのピアスが、カウンターのスポットライトを反射して細かく光った。彼女の瞳には、かつての後輩としての無邪気さはなく、代わりに大人の女性特有の、諦念を帯びた色気が宿っている。


「待たせたかな」

「ううん、私も今来たところ」


隣に座ると、彼女の香水の匂いがふわりと漂った。真由美が使っている、洗濯洗剤と無香料のハンドクリームが混ざった「清潔すぎる匂い」とは正反対の、意志を持った香りだ。


二人はグラスを傾けた。最初は共通の友人の噂話や、仕事の近況といった無難な話題から始まった。しかし、アルコールが回るにつれ、会話のピントは次第に互いの「家庭」へと絞られていく。


「旦那さんとは、どうなんだ?」

健一が、聞きたくないような、でも聞かずにはいられない問いを投げかける。


莉乃は自嘲気味に笑い、マドラーで氷を転がした。

「……カゴの中の鳥、って言ったら笑う? 彼は私を『妻』という装飾品だと思ってるの。どこへ行くにも報告が必要で、帰りが遅ければGPSで居場所を確認される。愛されてるんじゃなくて、管理されてるだけ」


彼女の言葉は、健一の胸に鋭く刺さった。

「うちは、その逆だよ。管理すらされない。ただ、そこにいるのが当たり前で、空気みたいに透明になっちゃった気がするんだ」


「透明……」

莉乃が健一の手元に、自分の手をそっと重ねた。その指先は驚くほど熱かった。

「じゃあ、今夜だけは、お互いに『透明じゃない人間』に戻りませんか?」


見つめ合う二人の間に、抗いがたい引力が生まれる。健一の脳裏に、今頃自宅で一人、無表情にテレビを見ているであろう真由美の姿がよぎった。しかし、目の前の莉乃の体温が、その罪悪感を急速に蒸発させていく。


「……店を出ようか」


健一の声はかすかに震えていた。

その夜、彼は初めて一線を越えた。恵比寿の路地裏にあるビジネスホテルの一室で、彼は真由美との生活では決して得られない、剥き出しの情動に身を任せた。それは愛というよりも、互いの欠落を埋め合わせるための、必死な確認作業に近いものだった。


深夜二時。

タクシーを拾い、健一は静まり返ったマンションに戻った。

「接待が長引いて、タクシーで帰る」と事前に送ったメッセージには、一言「わかりました」とだけ返信があった。


玄関の鍵をそっと開ける。リビングの電気は消えていたが、寝室のドアの下から漏れる光が、健一の心臓を跳ねさせた。


(起きているのか……?)


足音を殺して寝室に入る。真由美はベッドの上で上体を起こし、読書灯の灯りで一冊のノートを広げていた。

「……おかえりなさい。遅かったわね」

彼女の声は、驚くほど冷静だった。責める色も、心配する色もない。


「ああ、悪い。部長に捕まって、断れなくてさ」

健一は上着を脱ぎながら、莉乃の香水の匂いが残っていないか、必死に神経を尖らせる。

「お酒の匂い、すごいわね。シャワー浴びてきたら?」


真由美はノートを閉じると、それをサイドテーブルの引き出しの奥に仕舞い込んだ。

「何、それ。家計簿?」

健一が何気なく尋ねると、真由美は一瞬、口角をわずかに上げて微笑んだ。それは健一がこれまで一度も見せたことのない、冷たく研ぎ澄まされた笑顔だった。


「いいえ。ただの……記録よ。忘れちゃいけないことを書き留めてるだけ」


「記録?」

「ええ。あなたが外で頑張っている間に、私が家で何を感じていたか。そういう、些細なこと」


真由美はそのまま読書灯を消し、背を向けて横になった。

健一は暗闇の中で立ち尽くした。シャワーを浴びても、莉乃の感触は消えても、真由美のあの「笑顔」の残像が、網膜に焼き付いて離れない。


真由美が閉じたノート。

そこには、健一が帰宅した正確な時間、ネクタイの乱れ、そして彼が嘘をつく時に特有の「瞬きの回数」までもが、緻密に記録されていた。


健一が莉乃との甘い共犯関係に酔い痴れている一方で、真由美はまた別の、より冷徹なゲームを開始していた。彼女は「不倫された妻」という被害者の役を演じながら、虎視眈々と夫を破滅させるためのデータを蓄積していたのだ。


翌朝、食卓にはいつも通りの、冷めた焼き魚と味噌汁が並んでいた。

しかし、その味噌汁の具材である豆腐は、昨日よりも少しだけ細かく、鋭利な形に切り揃えられていた。

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