温度を失った食卓
佐藤健一(34歳)が帰宅し、マンションの玄関ドアを開けた瞬間に鼻を突くのは、微かな芳香剤の香りと、それ以上に無機質な「生活の匂い」だった。
「ただいま」
返ってくる声は、リビングの奥から発せられる。
「おかえりなさい。お疲れさま」
妻の真由美(33歳)は、テレビのバラエティ番組を眺めたまま、振り返ることなく応じる。ダイニングテーブルには、ラップがかけられた冷めた焼き魚と、副菜のきんぴらごぼう、そして炊飯器の中で少し黄色くなった白米が待機していた。
健一は中堅の広告代理店に勤めるサラリーマンだ。結婚して5年。専業主婦の真由美との生活は、傍目には平穏そのものに見えるだろう。子供はまだいない。かつては、いつか子供ができればこの静かすぎる部屋も賑やかになるだろうと語り合った時期もあったが、いつの間にかその話題は避けるべき「澱」のように、会話の底に沈殿してしまった。
ネクタイを緩め、洗面所で手を洗う。鏡に映る自分は、疲労で目の下に薄い隈ができている。
「……今日も、特に変わりなかった?」
食卓につき、ラップを剥がしながら健一が問いかける。
「ええ、別に。掃除して、買い物に行って。午後は録画してたドラマを見てたわ。……あ、お醤油、切らしそうだから明日買ってきてくれる?」
「分かった」
会話はそれだけで途切れる。テレビの中では芸人たちが大声で笑っているが、この食卓の空気とは完全に隔絶されていた。真由美は箸を動かす健一の横顔を、感情の読み取れない瞳で見つめている。
真由美が不満を口にすることはない。健一もまた、真由美に対して声を荒らげることはない。それは一見すると円満な夫婦の姿だが、実態は「衝突を避けるための相互不可侵条約」が結ばれているに過ぎなかった。
深夜、寝室で背中を向けて眠る真由美の呼吸音を聞きながら、健一はスマートフォンの画面を眺める。
SNSのタイムラインを無意味にスクロールしていると、ふと一つの通知が目に留まった。
『久しぶり。まだ起きてるかな?』
送り主は、大学時代の後輩、佐々木莉乃だった。
莉乃とは卒業以来、数年に一度、近況報告をするかしないかの間柄だった。最後に会ったのは三年前の同窓会。その時の彼女は、少し派手な結婚生活を送っていると噂されていたが、画面の向こうから届いた文字には、どこか危うい湿り気が含まれているように感じられた。
健一の指が止まる。
本来なら、「もう寝るよ、また今度」と返すべきだろう。あるいは、既読をつけずに無視するのが正解だ。
しかし、暗闇の中で青白く光る液晶画面は、今の彼にとって唯一の「外の世界」への窓だった。冷え切った家の中で、自分の名前を「個人」として呼んでくれる誰かの存在。
『起きてるよ。どうしたの、急に』
送信ボタンを押す。その指先には、かすかな震えがあった。
数秒と経たずに、返信が来る。
『声が聞きたくなっちゃった。……今の生活、息が詰まりそうで』
その一行を見た瞬間、健一の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。それは真由美との5年間で築き上げてきた、倫理という名の薄い氷だった。
翌朝。
健一はいつもより早く家を出た。真由美は玄関で見送ることなく、キッチンで洗い物をしていた。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい。雨、降るかもしれないから傘忘れないでね」
真由美の言葉は、まるでテンプレートを再生しているかのように正確で、血が通っていなかった。
駅に向かう道すがら、健一は莉乃とのメッセージのやり取りを思い返す。昨夜、結局二人は一時間以上もチャットを続けた。内容は他愛のない愚痴だったが、それは健一にとって、数年ぶりに浴びる「熱」だった。
会社に着くと、デスクに向かいながらも、スマートフォンのバイブレーションが気になって仕方がない。
昼休み、屋上へ続く非常階段の踊り場で、彼は莉乃に電話をかけた。
「……もしもし」
受話器越しに聞こえる莉乃の声は、記憶にあるよりも少し低く、そしてひどく艶っぽかった。
「健一さん、本当に電話くれるなんて」
「いや、なんか気になって。……大丈夫か?」
「大丈夫じゃない、って言ったら……会いに来てくれる?」
冗談めかした口調の中に、本気が混じっている。健一は手すりを握る手に力を込めた。
「今度の金曜日、仕事が早く終わるかもしれない」
「……待ってる。恵比寿の、あの店でいい?」
「あの店」とは、大学時代に一度だけ二人で行った、隠れ家のようなバーのことだろう。
電話を切った後、健一は空を見上げた。真由美が予言した通り、空は今にも泣き出しそうな灰色に染まっている。
彼は自分の罪を自覚していた。
しかし、それと同時に、自分を求めてくれる存在がいるという事実が、砂漠に水が染み込むように彼の乾いた心を潤していくのを止められなかった。
帰宅後、リビングに入ると、真由美が新しい醤油のボトルを棚に並べていた。
「あ、お醤油、結局私が買ってきたわ。安くなってたから」
「……そうか。ありがとう」
健一は嘘をつく。
「金曜日、接待が入った。遅くなると思う」
真由美は手を止め、一瞬だけ夫の目を見た。
「そう。大変ね。夕飯はいらないのね?」
「ああ、いらない」
真由美の表情は、相変わらず凪いでいた。
だが、健一が背を向けた後、彼女は自分のスマートフォンの画面をそっと確認した。そこには、健一が莉乃と連絡を取り合っていることなど、既に織り込み済みであるかのような、冷徹な静寂が宿っていた。
静かな食卓。温度を失った夫婦。
不倫という火種は、まだ小さな燻りに過ぎない。
しかし、それは確実に、佐藤家の土台を焼き尽くそうとしていた。




