その9
ある日の夕暮れ、見知らぬ男が火等美を尋ねてきた。男は火等美の名を確認すると、「お母さんの所に行きましょう」と、低いが厳しい口調で言った。母に頼まれたのだと火等美は反射的に頷き、奥の間でひっそりと着かえ、脱いだ普段着を小さな風呂敷包みにして抱えると、その人と一緒に鍋山家を出た。まっすぐ大阪駅に行き、上り急行の薄暗い三等席に向い合って腰かけた。
一面に灯火が輝く大阪の街が遠ざかり、暗闇に灯がポツリ、ポツリと見えだした頃、男は「東京に着くのは朝だから横になったらいいでしよう」と言った。彼は一度も笑顔を見せず、わずかに言葉をかわす時も堅い表情のままだった。火等美は言われた通り、肘かけに頭をのせ、足を縮めて横になりながら男を人さらいではないかと疑っていた。そう思って、男の顔を盗み見ると、目付きも鋭く、髭の剃り痕も怖そうに濃い。 横浜あたりで降ろされ、船底に入れられて上海にでも売られるのでは、と活動写真仕込みの想像が広がった。眠ると危ないぞ、と時々薄目をあけて様子を伺う。男は窓の外をじっと見つめている。悲しげな汽笛を何度か聞いているうち、火等美はいつの問にかぐっすり寝入ってしまった。はっと目が覚めると、もう品川の海が見え、やがて朝日の射す東京駅のホームに列車は停止した。
男は火等美を三田四国町の労働組合関東地方評議会の事務所に連れていった。そして、夕方になれば別の人が迎えにくるだろうと言い残して立ち去った。労働組合の事務所なら慣れているので火等美は安心した。そこは二階建て長屋の一軒で、薄暗い部屋の壁には、「メーデー歌」や「どん底の歌」などの歌詞を書いた紙が貼られていた。出入りする人は火等美のことに殆ど無頓着だった。彼女は所在なく壁に貼られた歌詞を何度も読み返した。午後になり、火等美はたまりかねて事務所を出た。帰りに迷わないよう曲り角ごとに目印を確認しながら歩いた。しばらく歩くと電車通りに出、それを渡ると広い草原に行きあたった。そこでは二、三才の幼児から十三、四の少年までが走ったり、叫んだりして伸びやかに遊んでいた。何とも心もとない状況にいる自分とその子供達とを比べて、火等美は長い間そこに立ちつくしていた。
その夜は評議会幹部の人の家に泊り、翌日の夜、火等美は四谷大木戸のある家に連れて行かれた。暗い玄関に入った途端、奥との境の襖が開き、明るい電灯の光が射しこむなかを、鈴江が転がるように出てきて、抑えた声で火等美の名を呼んだ。
その家は露地の奥の一戸建てで、 一階は玄関の問と六畳一間に台所・手洗い。二階は六畳一間に小さい物干し台が付いていた。茶の間には真新しい鏡台と食器棚が並び、食器棚にはティーカップや酒器が揃えられていた。火等美の勉強机や椅子さえ用意されていた。貧しいはずの母達にどうしてこんなことができるのか火等美は不思議に思ったが、説明もされぬままその家での生活が始まった。
問もなく鈴江は火等美を呉服屋に連れて行った。よそ行きの着物を買ってくれるという。火等美は店に人ってからも半信半疑で母の顏を見やった。鈴江は落着いた態度で番頭とやりとりしている。本当のことだと実感されると、前々から考えていた夢がはっきり頭に浮かんだ。船場の町中の寺に住んでいた頃、近所の女の子達が着ていた紫の矢絣である。それに似た柄を探し出し、紫に合う羽織地と帯・裏地などを決めると、鈴江はごく当り前の顔付きで何枚かの紙幣を番頭に渡した。羽織地などは「これはこの次にしましよう」と言われるのではと懸念していた火等美は、ほっとすると同時に、嬉しさが現実のものとしてこみあげてきた。仕立ては隣が和裁の師匠だったのでそこに頼んだ。気さくなその師匠はご近所のことだからと早々に仕立ててくれた。
満十三才の火等美は、この着物で初めて腰上げをやめ、着丈を紐で調節することになった。鈴江は紐の締め方、襟元を合せる工夫など細々と指図し、娘を粧わせる喜びを隠さなかった。火等美も何度となく鏡の前に立ち、「これが私? 」と自分の姿に見とれた。夜になって村山三郎が帰ってきた。火等美はもう一度新調の一式を身につけ、村山に礼を言った。「なかなか似合うじゃないか。いい娘さんになった」と言い、「折角きれいになったところで一つお酌をしておくれ」と上機嫌だった。
小ぎれいな家。多少の家庭的な雰囲気。明日の米の心配はなさそうだ。私のこの家での役割は何か。火等美は考えをめぐらした。そして掃除に念を入れた。台所や玄関の格子、ガラスを磨き、板の間や階段を力をこめて拭いた。洗曜をし、茶碗を洗いながら、隣の和裁のお師匠さんの所に習いに行くことくらい叶うかも知れないと考えた。そうしたら一生懸命習って独り立ちできる人間になろうと火等美は胸を弾ませた。
そんなある日、村山は歓迎会と称して、銀座のレストランに火等美をつれて行った。注文は西洋料理のフルコース。火等美はもちろん初めての経験だった。側に立っているボーイの目を意識しながら、出されるものを一心に片づけていった結果、三品ほどで満腹になり、後半のコキールは見るのも苦痛、デザートのアイスクリームさえ一口しか食べられない羽目になった。火等美が慣れない洋食で目を白黒させたことはその夜の笑い種になった。鈴江は夫と我が子が実の親子のように楽しんできたと考えて満足しているようだった。火等美は母の望みに合せて幾分「おじさん」に甘えてみせた。その夜は三人がそれぞれの思いで一家団欒を楽しんでいた。火等美はそれを「努力した楽しさ」と感じていた。村山にはやはり心からなじめなかったからだ。それにこの生活もいつ崩れるか知れないという不安があった。火等美はその場にいない妹のことを思った。自分だけがこんな豊かな生活をしていることを後ろめたく感じるのだった。富慈恵は同じ東京の郊外に、父十蔵と住んでいるとのみ聞かされていた。
ある日、食後の片付けに立とうとする火等美を村山が呼びとめた。鈴江も改まった顔付きで頷いて見せた。
「あんたはこれから母さんを〝おばさん〟と呼びなさい。私のことは今まで通りおじさんでいい。あんたは田舎から東京のおばさんの家に手伝いに来た姪というわけだ。私は表札の通り、木村京太郎、本籍、……職業……」
架空のことをいろいろと村山は述べた。戸籍調べの巡査が来たとき、自然な態度ですらすら言えるようにと 言い聞かされた。火等美は「はい」「はい」と頷いた。彼女の名は「勝江」ということになった。そして、隣家に同じ年頃の娘がいるが、朝夕の挨拶以外、無駄口を慎むようにと特に念を押された。
数日後、火等美が配達された新聞を何気なく見ると、村山の小さな顔写真入りで、「労働組合評議会幹部村山三郎は、内縁の妻九龍鈴江及びその娘をつれ、昨年暮れよりようとして行方が知れない」という記事が出ていた。昨年暮れといえば須磨に移転した頃だ、と火等美は思った。それからの生活を彼女は振り返った。気づかれるのはやはり村山の不在だった。何かがあったのだと火等美は思った。
この家に来てから、少しは世間並みの暮しになったのかと思っていたが、どうやら今まで以上に厳しい環境のなかにいることを火等美は感じとった。大阪にいた時のように大っぴらな人の出入りはない。デモやストもない。むしろ人々との交流を断って身を隠そうとしているようだ。おそらく警察の監視の目から。押入れの中には行季が二つあるだけで、古新聞が積み上げられている。たしかにこの家の暮らしには普通の生活とどこかちぐはぐなものが感じられた。 火等美は知らないことだが、前年の秋、村山は日本共産党に入党していた。日本楽器争議での活躍が認められたのだ。
日本共産党は大正十一年七月、非合法裡に設立された。しかし相次ぐ激しい弾圧のため、党幹部の一部に共産党結成の機は未だ熟せずという考えが生まれ、大正十三年、解党が決議された。しかし間もなく「解党」は闘争を回避する大きな誤りだという見解を持つグループが強くなり、大正十四年、党再建準備の共産主義グループが改めて結成された。翌年入党した村山は、まず神戸地区、そして関西地方の責任者となり、大正十五年十二月、即ち前年の暮れ、山形県の温泉で開かれた共産党再建の大会にメンバーの一人として参加した。そして中央委員候補に選ばれたのだった。
押しつまっての須磨への転居、さらに鍋山家への移転、村山のうち続く不在など、慌ただしい転変の背後にはこういう事情があった。鈴江も村山に続いて党員になっていた。隠れ家めいた家での不思議な暮しは非合法の党の重要メンバーであることをカモフラージュするためだった。
ひっそりとしたこの家にも時々来客があった。彼等は鈴江が出迎え、そのまま二階へ上がり、やがてひっそりと帰って行く。そのうち火等美はその客達のうちの二人の常連の顔を覚え、言葉を交わすようになった。
一人は「岡野さん」と言い、四十近い年格好。色黒で長身の痩せ型。面長で額が広く、度の厚い眼鏡の奥に優しい目がある。茶色のカマキリのようなおじさんと火等美は思っていた。もう一人はこれも長身だがずっと若々しく、肩巾が広く、あごが張った顔立ちで、明るい表情をしている。この二人と親しくなったのは、用談が長びき、朝食を取りにしばしば茶の間に現れたからだ。火等美の目に彼等二人はとても教養深そうに見えた。まず第一に和服の時はいつも袴をつけている。立居振る舞に品があり、物言いが正しく柔らかで、しかも会話が面白い。火等美は二人を大学教授だとひとりで決めていた。
例えば若い方はこんな風に話す。
「ねえ、勝ちゃん、南部の鮭の鼻曲りって知ってる? 南部の鮭は石や岩にぶつかりながら川を上って行く。それで鼻が曲るんだ。僕の鼻を見てごらん。曲がっているだろう。南部の鮭にそっくりなんだ」
火等美は思わずその人の鼻をまじまじと見つめてしまう。その様子がおかしいと食卓にいっせいに笑いが起こる。火等美はひっかけられたことを知る。
うちの「おじさん」は頭がよく、熱心で儿帳面だが、雑談は下手で面白みがない。軽い冗談を楽しむということがない。でも労働運動で認められたので、こんなえらい学者の先生達と話ができるようになったのかなと火等美は思うのだった。
夏になって淀橋浄水場近くの住宅街に越した。長く同じ場所に居ると警察が目をつけるからだ。新しい家は二階家で上下五間あり、庭には築山もあった。持って来たわずかな家具は六畳の茶の間に納まってしまい、他の部屋は置くものもなくがらんとしていた。
この家の二階に集まる人々の仕事ぶりは一層厳しくなり、息抜きに茶の間に降りてくることもめったになく、昼時になると下から握り飯を運んだ。家計は切りつめられ、毎日ナスやインゲン、キュウリなどが味付けを変えて出された。魚も鰯や鯖などが工夫されて食膳に出た。「ヤスコさん」という新潟出身の十八、九才の人が家に同居した。色白で眉は濃く、唇は色も形も桃の花を写したような美人だった。彼女は中野という東大新人会(社会主義を志向する東大の学生達の組織)のメンバーの婚約者だった。中野は、火等美を大阪から東京へ連れてきたあのひげ剃り痕の濃い青年だったが火等美はもちろんそんなことはなにも知らなかった。火等美と「おばさん」とヤスコさんの三人は茶の間で針仕事に没頭した。火等美は「おばさん」から細かく指示されて袖や身頃を縫い、着物が形をなしてゆく楽しさを味わった。
秋が深まる頃、一家は荒川土提に近い、赤羽町稲付という所に居た。まわりには赤土が曝け出された空地がそこここにあり、家は例によって二階屋だった。庭も塀もなかったが、幸い周囲の家は皆背を向けて建っ ており、隣人たちとの接触がないだけ火等美は気が楽だった。
しばらくすると二階の部屋への来客が激しくなった。一人、また一人と入口の戸が開け閉てされ、客はすぐ二階へ上る。洋服姿もあれば和服にインバネスの人もいる。しかし誰も一様に中折帽子を被り、マスクをしている。大方の客は帰りにも言葉少なく出て行ったが、おなじみの岡野さんや、南部鮭の「南部さん」は茶の間にちょっと立ち寄り、鈴江と互いの無事を喜びあったり、共通の知人の消息を伝え合った。人懐かしい思いの強い鈴江は彼らと嬉しそうに応対していた。ある日、そのように鈴江と話をしている客の顔を火等美は何気なく鉛筆でスケッチした。うまく描けたと思い、やや得意な気持で鈴江達に見せるとひどく叱られた。特徴のある顔立ちなので一目でその人とわかるのだ。互いに潜行中なのにとんでもないと彼女はスケッチ禁止を言い渡された。
年末のある日の夕方、火等美と「おじさん」と「おばさん」の三人は上野広小路まで暮れの買物に出た。広小路の大通りから御徒町駅の方に一筋寄った裏通りに和装の既製品ばかりを売る店が並んでいた。いつもの年なら反物を買って仕立てる余裕のない人が、正月用の晴着を求めて群れ集まるのだが、その年は深刻な不景気のせいか、行き交う人も少ない。店員も寒そうに肩をすくめ、少しでも近づく客があれば声をあげて呼びこもうとする。鈴江と火等美は和服用のコートをたくさん置いてある店に入った。鈴江は火等美の好みも聞きながら、慎重に品質や値札を調べた。そして火等美に臙脂、自分は紫紺のものを買った。さらに毛糸屋に人り、あれこれと吟味したあげく、英国ビーハイプ印の毛糸を買い、手袋まで買った。舶来の毛糸は和製とは比べものにならない高級品で、火等美は大きな包みを抱えて思わず口元がほころんだ。一年前の暮れには、一株の青菜を求めて心ならずも他人の畑に踏みこんだことを思うと火等美はやはり不思議な気がした。
年が明けると一家は北海道に移り住むとのことで、真冬の北国行きの準備として、コートとショールを編むための毛糸を買ったのだった。
この年の初め、モスクワに派遣されていた党幹部達は、コミンテルンと協議して、「日本問題に関する決議」、いわゆる「二七年テーゼ」をつくり、持ち帰った。そして全国各地から赤羽の家に人々が集り、連日「テーゼ」の討議が行われたのだ。十二月、日光山中で拡大中央委員会が開かれ、「二七年テーゼ」は全員一致で確認された。党幹部達の留守中、中央の責任者の一人となっていた村山はその任を終え、新たに北海道地方の組織担当者になったのだった。




