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ヴォルガの舟唄  作者: 坂本梧朗


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8/11

その8

 大正十五年四月、東京で評議会の第二回全国大会が開かれた。村山と鈴江は二人とも出席した。大会から帰ってきた鈴江は、「火等美さん、話があります」と改まったら様子で火等美を呼んだ。火等美は鈴江の前に座った。何を言われるのだろうと思ったが、こんな場合は話の内容が何であれ、承諾しなければならないことがわかっていた。鈴江は火等美の顔を見つめて一呼吸すると、

「お母さん達は今から忙しくなります。家にもあまり居られなくなると思います。それであなたのことですが、」

 そこで言葉を区切り、自分を励ますようにして、

「上京中に堺利彦さんの娘の真柄さんに会いました。あなたを預かってもいいとのことでした。行ってくださらないか」

 火等美は「はい」と頷いた。彼女はその頃、楽しかった久宝寺小学校から野田小学校に転校していた。久宝寺小学校は遠いので、朝食の支度など鈴江に負担がかかりすぎると村山から近くの学校に変るように言われたのだ。鈴江はその時カリエスにかかっており、肩から腰までのコルセットをつけ、動きが不自由だった。転校した火等美は、いつも怒りの表情を浮かべている担任教師になじめず、教室の中にいることさえ苦痛に感じていたので、鈴江の話を聞いて、助かったという気が多少した。肉親と離れて暮らすことにも特別な感情は起きなかった。鈴江は堺真柄に電報を打ち、上りの夜行列車に火等美を乗せた。

 その頃浜松の日本楽器では大争議が起きていた。浜松合同労組に加入した千二百人余の従業員は、四月下旬、最低賃金、退職手当、会社都合による休日の日給保証、年二の慰労会などを要求する「嘆願書」を会社側に提出した。会社は要求を拒否し、警察や右翼団体を利用して組合を威圧した。交渉決裂とともに日本楽器の殆ど全ての従業員は職場を放棄して市内の劇場ライオン館にたてこもり長期ストも辞さない決意を示した。

 評議会は前月、組合側の敗北で終息した東京の共同印刷の争議に引き続き、日本楽器の争議を全力をあげて支援する態勢をとった。村山ら幹部はオルガナイザーとして現地に入り、争議の指揮をとることになった。鈴江も村山と行動を共にする気持を固めていた。火等美を堺真柄の家に預けたのは、闘争の渦中に入るにあたって、少しでも身軽になっておこうという考えだった。

 堺真柄の家に身を寄せた火等美は近くの小学校に転入した。夏休みに入り、火等美は大阪に帰った。喜んで帰って来たのだが、家には鈴江も村山もいなかった。三か月にもなるのに争議はまだ解決していなかったのだ。

 争議はその頃、山場を迎え、村山は調停者と協議を重ねていたが七月末に検挙され、出版法違反で起訴された。そして直後の八月八日、スト突入後百五日間にわたった争議は組合側の敗北で終った。全従業員のほほ三分の一にあたる三百五十九人が解雇され、解雇手当として三万円が出されただけだった。村山の方は十一月、証拠不十分で無罪となった。争議をつぶすことだけを目的とした検挙、裁判だった。

 争議が終り、鈴江も帰ってきて家の中もしだいに落着いてきた。火等美も東京に居る必要はなくなった。しかし彼女は学校にも行かず、何か習い事をするでもなく、宙ぶらりんの状態に置かれた。留守番や、簡単な炊事、掃除などで時を消す日々は成長期の火等美には苦痛だった。勉強もしたかったし、外に出て何か役立つこともしたかった。そんな思いを果たせないまま火等美は苛立たしい日々を過ごした。忙しく動き回っている鈴江に自分の不満をぶつけることも彼女にはできなかった。

 梅雨が降る季節、火等美は一年前に発刊された「無産者新聞」の立売りに誘われた。「無産者新聞」は再建中の共産党の合法機関紙として創刊され、その頃読者拡大運動が行われていた。「週刊無産者新聞、一部五銭」と書いた大きな厚紙を首からさげ、小脇に新聞の束を抱えて、火等美は自分を誘った二人の女性と西野田の駅前に立った。二人の女性は鍋山歌子と河合鈴子でいずれも評議会幹部の婦人だった。本来なら鈴江がするはずの仕事を、多忙のため、火等美が代役となったのだ。

 歌子と鈴子が美人だったためか、女の立売りが珍しかったせいか、新聞は意外によく売れた。新聞社のカメラマンがやって来た。三人を写すというのでトラやんという組合員がさくらになって一部買うところを写させた。一時間ほどの販売だったが、火等美はいくらかの小遣いをもらうことができ、それを母に渡して大いに嬉しかった。学校に行けないのなら働きたいと思っていた火等美は母親に「無産者新聞」を毎日売りたいと申し出て許された。

 時間は夕方の退け時の二時間、場所は駅前と決めた。雨の降る日が多かったが、駅舎内には入れなかったので、大きな重い番傘をさし、新聞が濡れないように気をつかった。週刊なので発行日から二、三日間しか売れない。毎号決まって買っていく人、「頑張れよ」と声をかけてくれる人もいたが、大部分の人が無関心に通り過ぎた。十部売れればまずまずだった。二十部以上も売れ、一銭銅貨や五銭白銅貨で一円になった時は大得意で母親に渡した。自分も一人前の稼ぎ手だと思えることが無性に嬉しかった。慣れてくると、時には駅前の小店で茹であずきを食べ、凍えた手を温めてから帰途についた。茹であずきは三銭だった。

 実際には小遣い稼ぎ程度の意味しかなかったが、火等美は自分の働きが一家の生活の一助になっているような張合いを感じていた。以前の苛立たしい日々が嘘のようだった。

 しかし火等美の意気込みとは裏腹に、地下の共産党の主張を掲げる「無産者新聞」は何度も発売禁止処分を受け、それが毎号のようになって、火等美のこの「商売」もやむなく中止になった。

 いつの間にか冬になっていた。師走の二十六日になって一家は引っ越すことになった。例によって火等美達にその理由は知らされなかった。移った先は神戸の須磨の海辺で、小さいながらも門があり、見越しの松さえ覗く家だった。大正天皇が没し、新聞は「暮れの賑わいも遠慮がち」と報じていた。

 大晦日、明日が正月というのに家の台所には一かけらの餅も、塩鮭の尻尾もなかった。七輪の中でパチパチとはぜる安炭と、青いホーローびき のヤカンの口から立つ湯気がわずかに暖かみを感じさせた。村山はこの月、二度ほど帰ってきたほかはずっと不在で大晦日にも居なかった。親子三人は口数も少なく夕食を摂った。茶漬けと沢庵の食事だ。華やいだ遊びもなく、食事が終れば寝るばかりだった。鈴江は食べながら、「淋しいね」と言って小さく笑った。そして茶漬けを流しこむと急かされるように「ちょっと行ってきます」と娘達に言って家を出た。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

 鈴江が帰ってきたのは午前一時だった。既に年が明け、昭和二年が始まっていた。布団の中で足を縮め、母の帰りをずっと待っていた火等美は、「お餅を買ってきましたよ」という鈴江の声にとび起きた。居間に出てみると、鈴江は火鉢の前に座っていた。煙草の煙を吐いてなにかを思案していたが、「ちょっと一緒に出て下さらないか」と火等美に言った。

 外は皎々たる月夜だった。家から二百メートルほど歩いた菜畑の前で立ち止まり、鈴江はまた考える風だった。後ろから従いてきた火等美はそんな母の姿を見つめた。

「遅くなったものだから、お餅のほかは何も買えなくて……」

 誰に言うともなく鈴江は呟き、火等美を振り返った。

「お雑煮の青味くらいなくては。悪いことだけど、この杓子菜を一株もらおうかと思うの」

 火等美はビクッとして反射的にあたりを見回した。人影はない。畑の緑が月明にくっきり浮かんでいる。

「勘弁してもらいましょう」

 と言うと、鈴江は思い切ったように畑に足を踏み入れた。

 神戸住まいは一ヵ月余りで終り、二月に入ると一家はまた大阪に舞い戻って、村山と同じく評議会の中央委員である鍋山貞親の家に同居することになった。同居してみると、主の鍋山はずっと留守であり、転居の際には帰ってきていた村山三郎もまたいつの間にか姿を消し、やがて鈴江までも、「ちょっと行ってきます」と妹をつれて出てしまった。二十そこそこの鍋山夫人・歌子さんは、「心配せんかてよろし。今に帰ってくるて」と明るい調子で火等美を励ましたが、火等美の心は晴れなかった。                                             

 母親の不在には慣れている。火等美の心を重くしているのは自分の今後のことだった。義務教育を終えたら働きに出ようと火等美は早くから思い続けてきた。働く生活はどんなに張合いがあるだろうと考えていた。しかし学校との縁は、去年、堺真柄の家に寄留していた間に六年生の一学期を終えたのが最後になっている。義務教育は終らず、戸籍上は私生児(十蔵の最初の妻は家を出るに際して、戸籍上は生涯十蔵の妻であることを約束させていた。それで鈴江は入籍されず、火等美と富慈恵は鈴江の私生児として役場に届けられた)、しかも母親は常に警察から監視されている社会主義者である。住所も転々として定まらない。これでは女工にも給仕にもなれそうにない。子守として他人の家に住むことも難しいのではないか。一般世間に入って行くには、自分にはあまりに説明しなければならないことが多い。火等美にはこの壁を打ち破る方法がわからなかった。

 悩みを訴える相手は母親しかいないが、訴えても母は「どうか母さんを困らせないでください」と答えるのみだろうと火等美は思った。不安と不満を胸の奥に包みこんで、彼女は努めて呑気な居候として鍋山家での日々を過ごした。

 鍋山家にもまた、明るく屈託のない女主人の人柄にひかれて、労働組合で活動している青年達が多く出入りした。彼等は乏しい炭火の火鉢を囲み、粗服の膝をゆすっては語り合う。空腹にも失業にもめげず、時々どっと声を上げて笑う。語り飽きると歌をうたう。革命歌である。高らかに歌うこともあれば、低くハミングで合わせることもある。「南欧の革命歌」というのを彼等はよく歌った。


 アネモネ咲けば 胸おどり

 薔薇落つれば うれひあり

 われエルテルに あらずとも

 紅の恋 なからんや……

 爆弾とりて 叫ぶとき

 昔の恋を 偲ぶらん


 青年達の心理の厳しく淋しいものが、そのまま歌詞に投影されている感じがして、火等美は胸がつまるような思いで耳を傾けた。彼女もそんな感受性を持つ年頃になっていた。

 火等美の脳裏で母やその同志達の姿は、活動写真館で見た月形竜之介や阪東妻三郎が主演する幕末物の志士達の姿に重なっていた。世の中は矛盾に満ちていた。松島遊廓移転をめぐる汚職や、田中義一政友会総裁の四百万円横領事件などが新聞をにぎわしている一方で、働いても働いても食えない家庭がロべらしのため、年端も行かぬ子供を奉公に出していた。そんな世相を見聞きするなかで、火等美は自分なりに社会主義の目指すものへの理解を形づくっていた。

 ――国中の働く人々が団結すれば、富を貧る者の不正、横暴は根絶され、大多数の人のための政治が実現するはずである。人々は八時間だけ働けばよい。あとは休養や娯楽や勉学に使える時間だ。失業もなく、病気になれば手厚い看護が受けられる。婦人も男子と平等の社会的権利を持ち、老人は尊敬され、子供は国の宝として大切に育てられる。こういう素晴しい世の中をつくるために母達は、桂小五郎や吉田松蔭のように権力に屈せず命がけで働いているのだ。そしてそういう人達は世界中に居る。彼らは時にひそかに国境を越え、地球上で初めて「働くものの政権」を打ちたてた国に集まり、会議を開いたりするのだ。

 モスクワの国際会議では世界中から集まった人々が、それぞれの国の言葉で「インターナショナル」を歌うのだと聞くと、火等美の胸は感動で一杯になるのだった。国ごとの違う言葉で歌っても、最後の「ああインターナショナル……」という繰り返しだけはきっとぴたりと揃うに違いない。火等美はこの歌を一人で口ずさむ時も人々の合唱の中に居る時も、最後の繰り返しの所にさしかかるとその感動が甦り、こみあげてくるものに声を呑まれてしまうのだった。


 



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