その7
村山と鈴江は本格的な労働運動の中に入っていた。大正十 一年、山川均の「無産階級運動の方向転換」が発表されると、社会主義運動にたずさわる人々は労働者の中に入り、労働運動と の結合を目指すようになった。村山と鈴江は文選工として印刷工場に人り、大阪印刷労働組合の中軸的存在として活動していた。住居は組合の事務所も兼ねていて、印刷労働者達が足しげく出入りした。組合は日本労働総同盟に加入しており、村山と鈴江は自分の組合の活動だけでなく、各地で起こるさまざまな争議に関わり、駆け回っていた。
そんな状態の中に火等美達がやって来たことは二人に困惑を与えただろう。子供が入りこむ余地のない場であった。姉妹は車輪のように回転する二人の側で、せめてその邪魔にならないように気をくばらなければならなかった。鈴江は娘達が運動の障害にならないか、村山の癇癖にふれはしないか、と気使っていた。火等美には母の心が十分に読めたので、二人の言うことには素早く従い、気に触るような物言いを控え、ねだりごとは一切しなかった。学校の保護者会費の請求さえ、言い出すのに時を選んだ。
日本労働総同盟は、大正十四年四月に分裂し、左派によって日本労働組合評議会が結成された。村山と鈴江は評議会結成に加わり、村山は中央委員の一人になった。印刷労働組合は評議会に加入し、玉川町に一軒借りて、そこを事務所とした。火等美達の家も同じ町に移った。二階の一間が子供の部屋に決められ、早速村山は板を買ってきて窓の両側に三段の棚を作った。そしてその棚に鞄や本を置くように命じた。棚の下にはリンゴ箱を置き、それが机だった。隣の鈴江達の部屋も小さな本と机があるだけの殺風景なもので、壁にはマルクスとレーニンの写真が掛けられ、本箱のうえの小さな写真立てにはローザ・ルクセンプルグが微笑えんでいた。
階下の六畳間には青年達がいれかわりで同居した。彼等は深夜まで討論をしたり、町を歩き回ったりするので朝が遅い。どんな場合でも早起きの村山は、青年達の枕元をすかずか通りながら、「そんなことでは朝の革命に間にあわんぞ」と起こすのが例だった。かまどから釜をはずし、食卓に乗せると、みんなわっと集まって賑やかな朝食が始まる。青年達は皆世の不平や不公平を黙視できない労働者や学生だった。
村山は狷介な性格で、青年達の中に自分の考えを理解しない者が居ると表情や言葉に露骨な不快感を表した。そして相手の理論的な未熟さを徹底的に攻撃した。そのため意見を同じくする者からさえ時に反感を持たれた。そんな村山の傍らで、鈴江は潤滑油的な存在だった。「まあごはんを食べていらっしゃい」と鈴江はなけなしの財布をはたいて貧しい食事を分けあった。この道を選んだために肉親と離れがちになっている青年達には、鈴江の提供する粗食も心暖まるものだったろう。村山を煙たく思う者も鈴江の親しみあふれる態度には心を和らげた。火等美はそんな母が好きだったが、自分達姉妹と青年達とをあまりに隔てなく扱うことが時に物足りなく感じられた。
大正十四年四月、治安維持法公布された。普通選挙法とひきかえに政府が強引に設定したものだった。アカの取締法と理解されていたが、国民全てから自由と権利を奪い、日本を侵略戦争へ駆り立てて行った悪法だった。
悪法反対の示威運動は全国各地で行われた。大阪の集会に、鈴江は火等美達を連れて参加した。組合で鈴江が親しくしている女性達が横断幕を掲げてたむろしている場所に母子は加わった。行進の隊形を整えたところを新聞社のカメラマンが写真に撮った。さあ行進、という矢先、帽子の顎紐をかけ、ゲートルを巻いた警官達が襲いかかった。たちまち数人を行列から引きずり出し、トラックに乗せた。婦人の中では鈴江が真っ先に狙われた。火等美は母親の活動を正義のためと信じていたが、目の前で荒々しく扱われるのを見ると胸が痛み、脚が震えた。「大丈夫、すぐ帰ってくるよ」と周囲の人は肩を抱いて慰めてくれたが、どうしてこんな辛い目を我慢しなければならないのかと火等美は情けない気持がした。
その年の五月三十日、中国の上海で、労働者、学生のデモに英国の警官隊が発砲し、多数の死傷者がでるという事件が起きた。そのデモは中国総工会が中心となり、直接的には日本資本が経営する紡績工場で起きた女工暴行事件に抗議するものだった。この「五・三○事件」に民衆は激怒し、上海は全市をあげて抗議ストに入り、運動はたちまち北京、天津、漢口、広東、香港などに広がっていった。これを強圧するために、日・英・米・仏・伊などの列強は自国の権益と人命保護を口実として軍隊派遣を行った。こうした情勢のなかで、日本の労働組合は中国の労働者と連帯、共闘する立場でメッセージを送り、資金カンパを行った。成立して間もない日本労働組合評議会も中国民衆支援の募金を呼びかけ、代表を送って闘争を激励することを決めた。村山がその代表に選ばれた。
七月のある暑い日、村山がおおきなトランクをさげて中国から帰ってきた。上衣を脱いで汗を拭うと、早速トランクを開け、中からいろいろなものを取り出した。そしてたくさんの写真が出てきた。生々しい傷を負った若い女性達が写っている。上海の紡績工場の女工達だ。乳房の先を抉られた少女の写真もあった。火等美は自分自身が恥辱と痛みを受けたように感じ、気が遠くなりそうで、二、三枚で見るのをやめた。
九月、ソビエトの労働組合の代表が評議会の招きで来日することになった。世界で初めてプロレタリア政権を樹立したこの国を、日本の政府はペストやコレラの病原体のように宣伝し、国民から隔離しようとしていたが、どういう風の吹き回しか労組代表の人国を許可した。
レセプ以下三名の代表一行は上海から下関に渡り、まず東京に直行したのち、大阪の評議会本部に来ることになった。上京途中の各駅で、停車時間を利用して歓迎会を行うことが計画され、特に大阪駅では盛大な歓迎集会が持たれることになった。評議会、総同盟の代表がそれぞれ歓迎の挨拶を述べ、花束を贈るという企画で、その花束贈呈役に火等美が選ばれた。
外国からの賓客だが、相手も労働者、こちらも食うや食わずで闘っている労働者ということで、火等美は普段着のままリボン一つつけず、大きな花束を抱え、顔なじみの組合員に囲まれるようにして駅のホームに立った。例によって帽子のあごひもをかけた警官が大勢歓迎団を取りまいている。今か今かという期待と興奮のなか、汽車がホームに滑り込んできた。車両が停止した途端、わっとばかりに歓迎の人波と警官の群が押し寄せ、ぶつかり、乱闘となった。花束はどこかに飛んでいき、もみくちゃになった火等美は人の渦の外にはじき出された。
レプセ一行が東京から西下する日、大阪玉川町の評議会本部では青年達が一生懸命掃除をしていた。玄関の土間に普段だらしなく積み上げられている古新聞を片づけ、水を打ち、破れた古畳までキュッキュッ拭いた。机の上にはきれいに洗ったぶどうを盛った器が置かれ、ピールが並べられた。寄せ集めのちぐはぐなグラスも用意された。
しかし、レプセ一行は評議会本部に到着することができなかった。一行は大阪駅で降りる予定だったが、構内を埋めつくした警官隊のものものしさに下車を見合せ、三ノ宮で降りて自動車で大阪に引き返した。そして先ず労働総同盟の事務所を訪ねたがここも警官の渦で、押し合いへし合いの混乱の中で評議会への案内役まで検挙されてしまった。評議会本部への訪問をあくまで妨害しようとする官憲に憤慨した代表団は、そのまま神戸のホテルへ去ってしまった。本部で待っていた人々はその知らせを聞くと、がっくりとうなだれ、その場に言葉もなく座りこんだ。




