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ヴォルガの舟唄  作者: 坂本梧朗


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その4

「聖家族」のような生活は長くは続かなかった。最大の援助者である海軍退役大尉が病気になり、住吉の自宅に帰ったのである。主のいない借家にいつまでも居るわけにもいかず、一家は転居した。大正四年の秋だった。生活の窮迫がこの頃から始まった。ひところは固定読者三百を目標としていた「田園通信」も読者が減るばかりで、便りや来訪する人の数も少なくなっていった。

 大正六年に入っていよいよ生活は苦しく、ついにその秋、唯一の財産である印刷機一式を売り払い、一家は上京した。 

 上京しても、パンのためには働こうとしない十蔵であるから、生活は窮迫するばかりだった。火等美の他に妹の富慈恵も生まれ、二人の子供に明日は何を食べさせるのかが常に問題なのに、十蔵は「なに、二日や三日は水を呑んでも人は生きられる」と強がりを言い、友人を家に連れてきては「今日は君に断食をごちそうしよう」などと言って面くらわせた。そんな十蔵に鈴江はようやく批判の目を向け始めた。

 一方、東京に出てきた鈴江の胸の中では再び 社会主義の火が燻り始めていた。大正四年には堺利彦が雑誌「新社会」を発行し、大杉栄も「近代思想」を復刊した。前年から始まった世界大戦の進展とともに、数年間鳴りをひそめていた社会主義運動は活発化しつつあった。東大教授、吉野作造も「中央公論」誌上で民本主義デモクラシーの提唱を行った。大正六年にはロシアに革命が起り、世界で初めてのプロレタリア政権が樹立された。そんな時代の息吹が、鈴江の胸の埋もれ火を煽り始めていた。                                                

 十蔵は今まで協力してきた妻が再び社会主義の方へ心を向け始めていることを推察した。それをたたきつぶす言葉は持っていたが、生活の現実が突きつけてくる問題に彼は無力だった。苛立った十蔵が鈴江に怒鳴り声をあげることが多くなった。夫婦の会話も途絶えがちになった。十蔵はどこ に行くのか、しばしば家を空けるようになった。いつもの癖で本をふところに二、三冊入れて、ふらりと家を出る。家を出ると何日か帰らない。時には大阪や、郷里の岡山まで足をのばすこともあった。

「どちらへお出かけですか」

「鼻の向いた方」

「いつお帰りですか」

「わからん」

 夫婦の問答はそんな具合だった。

 鈴江は辛抱強く、物欲も少なかったが、掲げる燈火がないことには耐えられない女だ。すべてを燃やし尽くすほどの思いで献身する何かがなくては生きられない。 かつての十蔵には理想があったが、それがいつの間にか潰えてしまっていた。以前は神の声かと思われた十蔵の言葉も今は屁理屈にしか聞こえないのだった。

 十蔵はついに一ヶ月余も帰らなくなった。居所も知れない。質草もなく、クズ屋に売るものさえなく、借りられるところは借り尽くしたあげく、鈴江は十蔵の友人のロききで、松屋呉服店のPR雑誌の編集部に勤め始めた。子供二人を託児所に預けての勤めだった。

 その託児所は石造りの建物で、木造の平家ばかりが並ぶ通りにあって、ひときわ目立つ立派なものだった。備品や玩具などもよく考えられた本格的なものが揃っており、保母達も品よく優しかった。一階は託児所で、二階は幼稚園だった。入った当座は妹の富慈恵が他の子となじめずによく泣くので、火等美は気が許せなかった。 しかし何日かたつと富慈恵も馴れてきたので、火等美は二階の幼稚園に仲間入りさせてもらった。そこには学齢に 近い子供が集まっていて、火等美は初めて大勢の子供達と遊戯をしたり、お話に聞き入ったりする楽しさを経験した。しかし幼稚園の時間が終ると園児達は帰ってしまう。火等美は一階の託児所に戻って、母の迎えを待った。残業でもしているのか、鈴江の迎えは遅くなることが多かった。他の子供達が次々と母親や祖母とつれ立って帰っていくのに火等美達だけがとり残される。泣きべそをかき始める妺の手を握り、火等美も心細さに身を固くして、入口のドアをじっと見つめ、今か今かと母親の姿が現れるのを待った。

 やがて鈴江は託児所と勤め先に近い神田に部屋を借りた。そこは大衆食堂の二階で、店の端にある急な梯子段を上がったところの障子だけで仕切られた狭いへやだった。さかんに食欲を満たしている労働者や学生の視線を浴びながら火等美達は梯子段を上り下りした。部屋に居ても、注文のやりとりや客の喧燥が聞こえ、煮たきの匂いのこもる温気が遠慮なく入ってきた。南京虫も横行するひどい部屋だったが、鈴江にすれば何よりも間代が安いこと、用意ができない時は店から食事もとれることなどで我漫しようと考えたらしい。                                      

 しかし十蔵が帰ってきて、この食堂の二階屋暮しはあっけなく終った。                              

 十蔵は怒った。自分の留守に勝手に引越して働き始めた妻をなじった。                     「妻は夫を天として服従すべきなのに、勝手なことをするな」

 十蔵の持論であった。鈴江も負けてはいなかった。

「それなら夫らしく、生活のことを少しは考えて下さい。私はともかく子供達の食事にも不自由してい るのですよ」

 十蔵は言葉に詰ったが、気持を取りなおして、

「人間はあくせくと思い煩わなくても、生 活は自ずと支えられていく。それをお前は信じられないで仕事についたのだから、それで食べていけばいい。食べて行けないのなら、お前は本来社会主義者なのだから、雇主に要求を出すべきだ」           

 終りの方をいう十蔵の顔には皮肉な笑いがあった。鈴江は十蔵の言葉に反発を覚えると同時に「そうだ、私は社会主義者だったのだ」との自覚をいよいよ深めるのだった。

 結局十蔵は鈴江に勤めをやめさせ、母子三人を知人がやっている牛込の学生相手の下宿屋にひきあげさせた。この下宿屋の女主人は金沢出身で、金沢の本願寺系の寺の住職を介して十蔵と知り合いだった。十蔵には「田園通信」を通じて、宗教界、教育界に知人が多かった。

 鈴江は下宿屋で女中たちの仲間に入り、膳を運んだり、炊事を手伝ったりして働いた。しかし腹の中では夫と別れて自立する決意を固めつつあった。十蔵に愛人ができていたことも別れる理由の一つだった。同時に、最初の上京の時に知り合っていた堺利彦の自宅を訪れるなど、社会主義の道に戻ることにも積極的になっていった。

 離別を決意した鈴江は十蔵の知人の下宿屋を出て、本郷団子坂の下宿屋に移った。子供達には十蔵は旅行中と言って聞かせていた。鈴江はその下宿屋で筆耕の仕事を始めていた。昼は窓際に机を持って行き、夜は低くした電灯の下で、カサカサといつまでもペンの音を立てた。 火等 美達は机を睨む母の顔を眺めながら眠った。

 同じ下宿屋に二間続きの部屋を借りている若夫婦がいた。火等美はそこに時たまよばれて行くことがあった。居間には簟笥や鏡台、針箱などがきちんと置かれ、長火鉢の上ではいつも鉄瓶が湯気を立てていた。火鉢の両側にはメリンスの華やかな柄の座ぶとんが置かれてあった。隣の部屋には彩り美しい小さなふとんに、生まれたばかりの赤ちゃんが寝かされている。その上でセルロイ ドの玩具がくるくる回っていた。どこからともなく廿い匂いがした。片すみの乱れ箱にはきちんとたたまれたおしめや、小さな衣類が入れてある。若い両親は赤ちゃん の頬をつついては笑い、あくびをしたと言っては笑うのだった。自分のところにはまったくない美しい色、甘やかで暖かい空気に火等美の胸はときめいた。

 この団子坂時代に、村山三郎が鈴江を初めて訪れた。堺利彦の紹介で、秘密出版する「共産党宣言」の原紙を切ってくれと頼みに来たのだった。このメガネをかけ、鼻筋の通った丸顔の青年は、笑顔も見せず要件だけを告げた。鈴江はその仕事を引き受け、社会主義の戦線に片足を踏み出した。



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