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ヴォルガの舟唄  作者: 坂本梧朗


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3/3

その3

 母親ハルとの生活が再び始まった。祖母ウタは二年前に亡くなっていた。鈴江は短期間だったとは言え、他人の家で家事を切り廻してきたことで母親の日常の労苦がわかったのか、よくハルの身の回りの世話をし、家事を 手伝った。しかし、 地元の社会主義者のグループ「いろは倶楽部」との連絡は絶やさなかった。「いろは倶楽部」は鈴江が聞きに行った正覚寺での演説会を主催したグループだった。中央での平民社の活動の影響で、当時全国各地にこのような社会主義者の小グループができていた。

 たいした活動はしていなかったのだが、岡山高女の学生でありながら、社会主義思想にかぶれて家出、上京した鈴江は地元ではやはり目立つ存在だった。帰ってきてからも社会主義グループとの接触を続けているということで警察は鈴江を甲号要視察人とし、日常生活を監視するようになった。甲は社会主義者本人を意味した。乙であればその家族である。この〝身分〟は以後ずっと鈴江 につきまとうことになる。

 明治四十一年、鈴江が帰郷して 一年余りたっ た六月、東京で「赤旗事件」が起こった。筆渦事件で入獄して い た山口義三の 出獄歓迎会が神田錦町の錦輝館で開かれ、閉会直前に大杉栄、 荒畑寒村などが「無政府」と書かれた赤旗を取り出し、 それを持っ て門外に押し出したのである。警官がそれを見とがめ、旗を巻けと言ったところ口論となり、参加者十五名が検束され、十三名が官吏抵抗罪と治安警察法違反で起訴された。この事件をきっかけに西園寺首相は内閣を投げだし、元老山県有朋の意を受け、社会主義運動に対する取締り、弾圧を一つの柱とする第二次桂太郎内閣が成立した。早晩、社会主義者の一斉検挙が予想される情勢だった。

 明治四十三年、果して「大逆事件」が起こった。機械工宮下太吉らが爆弾で天皇を暗殺しようと謀議していたのが発覚したのだ。政府はこれは機として全国の社会主義者、無政府主義者を一網打尽にしようという計画を立て、宮下以下三、四名の陰謀予備を、幸徳秋水を首魁とする全国規模の大逆事件に仕立て上げた。次々と検挙された社会主義者らのうち、二六名が起訴され、二四名に死刑の判決が下った。翌日十二名が無期懲役に減刑されたが、残りの秋水ら十二名には判決後一週間を出ずに死刑が執行された。何かを恐れるような早々とした執行だった。処刑された者の中には「いろは倶楽部」の有力メ ンバー、森近運平もいた。

 社会主義者に冬の時代が訪れた。一般国民は〝主義者〟 に近づくことをわけもなく恐れるようになった。社会主義者達の側も、ある者は道をかえ、道をかえない者も深く声をひそめた。「赤旗事件」で入獄していた山川均も、出獄後社会主義に対してすっかり冷えきっている世間の対応に驚き、帰郷して再び薬店を営みながらひっそり暮らすことになった。

 明治四十四年、ハルが腎臓病で亡くなった。夫との離別以来、産婆を業として、女手一つで鈴江を女学校まで進ませた気丈な女性だった。鈴江は一人になった。

 鈴江がハルの遺骨をその生地の墓所に納めて帰宅すると、家はもぬけのからで、家具類はすべてハルの親しい友人宅に移されていた。家主はハルが亡くなった以上、もう若い〝女社会主義者〟に住んでもらい たくはなかったのだろう。鈴江はショックを受けながらも、やむなくハルの友人宅にやっかいになることになった。

 ハルの友人である老夫婦は、ハルに頼まれていたのか鈴江にしきりと嫁入りを勧めた。しかし鈴江の経歴では相手探しが難しい。それでいっそアメリ力に移住している人ならそんな事情も気にすまいと、移住者との縁談が進められることになった。鈴江の意に添わぬ事態の進行だった。今後の身の処し方について考えなければならなかったが、鈴江には適当な相談相手がいなかった。一度路上で帰郷していた山川均と出会ったけれども、山川は周囲を憚かるように、二言、三言挨拶を交わしただけでそそくさと去っていった。鈴江は山川の態度に失望した。それは仲間からきり離され、世間の怜た い対応にさらされて傷ついた鈴江の心をさらに落胆させるものだっ た。

 自活の道も得られぬまま、 鈴江はその家に留まっ ていたが、その ままでは顔写真も見たことのな いア メリカ移住者と結婚させられることになりそうだった。せっぱつまった鈴江に思い浮かんだ唯一の相談相手は、鈴江が敬愛していた()()()の本田茂だっ た。寡黙なこの青年は、ぼそぼそと自分が兄事している田高十蔵の名を告げた。大阪の河内に住んでいるが、鈴江と同じ町の生まれで、 理想に燃える三十四才のキリスト者だという。夫人と別れて日常の雑務の処理に困っているらしい。鈴江は一縷の望みを抱いて十蔵のもとへ莽った。

 十蔵は一九才でキリスト教の洗礼を受けて以来、次第にその信仰を深め、軍隊に入っても、「人殺しの稽古は、キリスト教を信じる自分にはできない」と、銃を空に向けて射ったという。日露戦争の際には、招集された兵営内から新聞に「我が非戦論」を投稿した。所属部隊が大陸に向うことを知ると中国語を懸命に勉強し、救護班の通訳を志願した。「勲章などはないほうがなんぼか偉いんじゃ」と戦場で人を殺さなかったことを生涯の誇りとした。除隊後は神戸の聖書学校の教師となり、信仰を通じて知り合った女性と結婚し、二児を得た。やがて彼は父親から援助を得て印刷機と活字を購人し、「田園通信」という宗教的な内容の個人誌の発行を始める。そしてそれに専念するため、生計を細々と支えてきた聖書学校の教師の職を捨ててしまう。それが原因か、それとも信仰上の対立があったのか、夫人はまもなく二人の幼児を連れて家を出た。鈴江が十蔵のところに来たのは、この破局があってまだ日が浅い頃だった。                  

 鈴江は炊事、掃除、洗濯など十蔵の身の周りの世話をするほか、活字を拾ったり、校正をしたり、「田園通信」発行の手伝いをした。そんななかで、破婚の悲しみをのりこえ、自分の信念と理想に生きようとする十蔵の心を知り、若い鈴江は感動を覚えた。この人を慰め、励ますことが自分に与えられた使命と考えることで、理想を失いかけていた鈴江は生気をとり戻した。十蔵も朝夕の折りに、鈴江の心の痛手が一日も早く癒されることを願ってくれた。二人の心は急速に接近した。          

 初めは暮しも順調だった。海軍退役大尉が「田園通信」の価値を認め、援助を申し出てくれたのが大きな支えとなった。彼は住吉に自宅があったが、わざわざ十蔵の住居の近くに部屋数が八つもある大きな家を借り、自分は一間だけを使って、あとは全部「田園通信」の発行所兼十蔵たちの住まいに提供した。さらに自分の賄いの費用ということで多少の金銭援助もしてくれた。

 「田園通信」に対する反響も大きかった。多くの人が便りを寄せ、誌代もぽつぽっ送られてきた。討論や激励のためにわざわざ訪ねてくる人もいた。そういう人達と十蔵はしばしば食卓を囲んだ。乏しい家計の中ではそんな供応も負担であったが、人々の私心を離れた熱っほい議論を聞くこと、またそういう人々をねぎらうことが大好きな鈴江は、かえって楽し気に、手に人る粗末な材料で心のこもった料理をつくった。

 この頃は十蔵と鈴江にとって物質的にも安定し、精神的にも張りのある幸福な日々だった。十蔵は鈴江の協力によって破局から立直り、再出発できた。――「空をぶ鳥、野に咲く花」のように人も神によって生かされている。金を追ってあくせくして何の幸があろう。神の道に従い、それを広めれば、生きる糧も自ずから与えられる。竹皮で包んだ肉をもってやってくる人がいる。黙って金を置いていく人もいる。「それは神の意志だ」。――十蔵はは感謝と満足をもってそう思った。「河内の聖人」などと呼ばれることも満更ではなかった。そんな貧しいけれど充実した暮しの中で大正三年、十蔵と鈴江の問に火等美が生まれた。


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