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ヴォルガの舟唄  作者: 坂本梧朗


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2/5

その2

 火等美の母、九龍鈴江が社会主義というものに初めて触れたのは明治三十九年十一月、一七才の時だった。その時鈴江は岡山県立高女の最終学年にいた。通学路にある正覚寺という寺で社会主義の演説会が開かれ、それを聴きに行ったのだ。女学校の帰りで、制服姿のまま本堂に入ろうとすると、入口に立っている巡査から「こんなところに来るじゃない」と制止された。服装がまずいのだと考えた。鈴江は家に駆け帰り、海老茶の袴を脱ぎ、かわりに前掛けをしめて会場に戻った。「何の話か聞かしてつかあさらんか」と巡査に声をかけると、今度はすんなりいれてくれた。聴衆は十五、六人、女は鈴江一 人だった。                                                       

 貼り紙に興味を覚えて聴きに行ったのだが、鈴江の生い立ちを見ると社会主義に関心を持つ下地はできていたと言えそうだ。                                                        

 九龍家は岡山県北部の勝山藩二万八千石の家老職を代々勤めた家柄だった。しかし維新によって禄を失い鈴江の祖父にあたる人が維新直前に結核で若死にしていたこともあって、没落士族の道を辿った。しかし気丈な祖母は一人娘のハルを育てあげ、成人したハルは岡山県医学校付属の産婆看護婦養成所に入学して、産婆の資格を得た。ハルは婿養子をとり、鈴江を生んだ。しかし鈴江が四才の時父親は離縁となった。大酒飲みで酒癖が悪かったためというが、柔剣術を心得、二十才になるかならぬかで後家となって一女を育てあげたしっかり者の祖母と、時代の先端を行く西洋医学の知識と技術を身につけた妻の家に入るには気弱の人だったようだ。九龍家の家系に対する姑や妻の誇り高さにも息をつけない感じがしていたのかも知れない。

 鈴江を加えて女三代が住む家には、特権階級だった家柄への誇りと開明的精神が同居していた。解明的精神は西洋医学を学んだハルから主に生じていたといえる。たとえば家の前にカトリックの教会ができると、ハルは鈴江をその付属幼稚園に通わせた。仏教徒である祖母が幼稚園と喧嘩してそこをやめてからも、鈴江は他派の教会に出入りしてキリスト教に親しんだ。明治のこの時代、キリスト教の博愛精神と万人平等意識は、貧富の差の解消を目ざす社会主義の理念と極めて親しい関係にあった。キリスト教の信仰から社会主義に進んだ者は多い。鈴江の場合もこのキリスト教の素地が社会主義へ近づく大きな要員だった。

 鈴江の()()()に本田茂という人がいた。鈴江より三つ年上だった。野の花や草木を愛し、 詩を作り、読書を好む物静かな青年で、鈴江は彼を尊敬していた。この茂が一時期社会主義に関心を持ってしばしば女学生の鈴江を相手に、その新しい思想について語った。鈴江は敬愛する()()()の話を熱心に聞いたのだった。同じ頃、遠縁にあたる大野信吉という医学生が鈴江の家に同居していた。鈴江は彼からベラミー著、堺利彦訳の「百年後の社会」や、堺の「家庭の新風味」などを借りて読んだ。信吉は 休日などに岡山郊外の被差別部落にしばしば出かけ、病人の相談を受けたり、オルガンを持ち込んで子供たちを歌や遊戯で楽しませたりしていたが、鈴江にもその活動や手伝うように誘った。鈴江は承諾した。初めてその村へ出かけた時、鈴江が農夫に道を尋ねると、農夫は訝しむようにそこが被差別部落であることを彼女に告げた。鈴江は「そこに行くのです」と臆せずに答えた。彼女の胸中にはキリスト教が培った平等博愛の精神が燃えていたに違いない。

 鈴江が社会主義の演説会に出会うまでにはこうした過程があった。鈴江には鈴江なりに社会主義に期するものがあったといえる。

 鈴江はこの演説会で山川均を知る。山川はこの時二十六才だった。不敬罪で三年余り巣鴨監獄で服役した後、帰郷して義兄の薬店を手伝っていた。鈴江は山川から、翌朝、旅館に講演者の座間止水を訪ねるように言われた。その通り行ってみたが、旅館には、「都合で座間さんは早く発ったから、今後、林源十郎支店へ連絡して下さい。ミスソシアリストへ」という山川の置手紙があった。林源十郎支店というのは山川が担当していた薬屋の支店である。鈴江はクラスメートを誘って山川の店に行ったり気がねのいらない友人の家に山川を中心に集まったりしながら、彼の話を熱心に聞くようになった。

 山川均は、帰郷以来重ねてきた思考の結果、社会主義者として生きる決意を固めた時期だった。幸徳秋水の招きに応じて日本社会党の機関紙の編集員となるため上京する日も決っていた。縞の着物に前だれという番頭姿の彼は、進路が開けた自分の昻揚する気持を若い娘たちにぶつけたに違いない。鈴江も三年の刑に服したこの青年が再び正義の道に足を踏み出そうとしている姿に男性としての一つの理想像を見たことだろう。若い二人のそうして弾んた気持は山川が鈴江を「ミスソシアリスト」と呼び、鈴江がそう呼ばれることを誇らかに感じていたことにも表われている。                            

 演説会から一ヶ月後の十一一月半ば、鈴江は学校に通う服装のまま、岡山駅から汽車に乗りこみ、単身上京した。ハルには学校に行ったと思わせての家出だった。山川均の上京に刺激を受けての行動だったことに間違いはなかろうが、 ハルが鈴江の婿養子に選んだ相手が気に入らなかったことも理由の一つである。山川より一足遅れて東京に着いた鈴江は彼と同じ下宿屋にいったん荷物を置いた。この二人の行動は周囲の社会主義者から、駆け落ちと勘繰られたようだ。鈴江に山川への憬れの気持があったことは確かだろう。 しかしそれは社会主義という理想への憧憬と重なっており、男女の恋愛というものまでには至ってなかった。山川にとっても鈴江は社会主義に熱意を示す好ましい娘という認識に止まっていたと思われる。したがって周囲のそうした勘ぐりは二人にとって心外なことであった。社会主義の戦列に加わろうと上京して来た二人の純粋な心は、同じ社会主義を目ざす仲間から無神経なからかいの泥水をかけられたことになる。

 鈴江は友人から貰った紹介状をもって同郷の社会主義者、福田英子の家を訪ねた。福田英子は若くして自由民権運動に身を投じ、大阪事件で名を馳せた人物だった。日本国内の改革の前段階として、朝鮮の清からの独立と改革を果そうとしたこの事件で、英子は外患罪で軽禁錮一年六ヶ月の判決を受けた。帝国憲法発布による大赦例で出獄すると、彼女は時の人となっていた。憂国の女壮士、東洋のジャンヌダルクと新聞は書き立て、行く所各地で歓迎集会が開かれた。郷里岡山でも例外ではなかった。だから鈴江は早くから福田英子の名を知っていたし、同郷の先達としていたのだ。

 福田英子はこの頃、家庭的、社会的に様々な変転を経て、社会主義に共感を寄せ、平民社の人々との交りを深めていた。近くに引っ越ししてきた「万朝報」の記者、堺利彦との親交がこの機縁となったが、旧自由党員の堕落、腐敗への失望、憤慨が彼女を社会主義に向かわせたといえる。彼女は書生として家にいた石川三四郎を堺に紹介し、堺や幸徳秋水が平民社をつくると石川を人社させた。さらにドイツ帰りの医師を堺に紹介し、その医師は平民社のスポンサーとなった。英子は弾圧下で苦闘を続ける平民社の姑役を買って出ていた。田中正造とも親しく交流し、足尾銅山鉱毒被害者の救援活動にも力を入れていた。さらに鈴江が身を寄せたこの頃は婦人解放をめざした雑誌「世界婦人」の創刊を前にして、その準備に忙しい時期だった。英子は老母と子供三人を抱えて家事にも追われていた。こんな時に飛びこんできた鈴江は英子にとって重宝な存在だった。訪ねた翌日から鈴江は福田家に住みこみ、山のような仕事と取り組むことになった。雑誌のための原稿とり、校正、広告とり、発送、さらに炊事、洗濯、掃除、買物から借金の使い走りまで、鈴江は休む暇なく、働いた。 一日の仕事を終え、仕舞湯につかると、いつのまにか眠っていて、湯をしたたかに飲んだことも再三あった。

 柏木の福田家の近辺には堺利彦のほかに幸徳秋水、荒畑寒村、菅野スガなどが住んでおり、「社会主義村」などと呼ばれていた。福田家の家計はやりくりの連続だったが、時に金が入ると、女主人は手料理に腕をふるい、それらの住人を招いてご馳走をした。だから鈴江は短時日の間に有名無名の進歩的な人達を多く見知ることになった。また女主人は鈴江を議会に連れて行った。内村鑑三の所に伴ったりもした。こうして鈴江の見聞は確かに広まった。

 しかしこの最初の上京は四ヶ月であっけなく終った。女学校の担任教師が上京して帰郷を勧めても頑として応じなかった鈴江だったが、「父死す」の報に接し、慌しく東京を去ったのだ。幼いときに別れたきりの父親の死だった。一度戻れば再びの上京は難しいことが予想されたが、鈴江はこの縁薄かった父親をせめてとむらいたかったのだろう。

「いにしえはシャキャアシュギ者じゃったが、今はだめにな ったと言われんようにしてつ かあさい」

英子はそう言って帰郷を決意した鈴江を送り出した。



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