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ヴォルガの舟唄  作者: 坂本梧朗


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その1

 昭和三年の冬。その頃火等美(ひとみ)達は北海道に居た。それはわずかな間であったけれど幸福な日々に違いなかった。

 火等美には北の国で見聞するものが新鮮だった。たとえばスキー。スキーなどというものを彼女は新聞でしか知らなかった。ところがそこでは家の近くから見える山にスキー場があった。火等美の家から路地を通って表通りに出ると、左手に遠く白い山並が見える。その正面の尖った山がスキー場だった。よく目を凝らすとその山の斜面に黒く小さい点がいくつも動いている。あれが「スキーヤー」というものなんだな、と火等美は眺めた。

 ある晴れた日の午後、彼女は思いきってその三角山に行ってみることにした。スキーというもの、スキーヤーという人間を自分の目で確かめたかったのだ。火等美は山を目指して歩き始めた。歩いているうちに幅広い道の両側に続いていた家並が途切れ、柔らかい雪の起伏に変った。畑地らしい。 それを過ぎると牧場らしい所にさしかかった。そして一面の雪の原に踏みこんでしまった。しかし正面に見える三角山は一向に近くならない。斜面に動いている黒い点の大きさも変らない。火等美は立ち止まった。どうしようかと思った。思案していると空が暗くなった。雲がたれこめてきた。山の姿がかすんだ。雪が山の方からせまってくる。こんなところで雪にうもれたらどうしよう。彼女は急に心細くなった。悪い予感が走った。運よく人に助けられたとしても警官が来るだろう。警官に自分達の〝かくれ家〟までつれていってもらうわけにはいかない。火等美の気分は急速に沈みこみ、自分の軽率を責めないわけにはいかなかった。しかし迷っている時ではなかった。急ぎ足で、半ば人心地をなくして、彼女は来た道を戻った。

 馬ゾリに乗ったのも初めてだった。そこではどこに行くにも馬ゾリがよく使われた。あれは追分節の大会を見物に行った帰りのことだ。

 シャン、シャンと鳴る鈴は火等美をたちまち童話の世界にひき込んでいった。母親がよく語り聞かせてくれたアンデルセンの童話の情景などを思い浮かべてうっとりしていると、突然ギイ、ゴットンとゆっくりソリが横転した。倒れかたがゆるやかだったので、彼女達は何事もなく、幌の中から這い出した。四つ角で馬が何かに驚いたらしい。御者は馬に罵声を浴びせるわけでもなく、だまって悠然とソリを引き起こし、火等美達も笑いながらまた席にならんだ。事故だったのに、いかにもゆったりとしていて、なにやら愉快な目にあったという感じが心に残った。

 土地の人は雪が激しく降っていても傘をささない。帽子やショールを被って平気で歩いている。駒下駄に爪皮がスリッパのように密着した「雪下駄」というのを買ってからは、火等美も土地の人にならって頭からショールを被り、雪の中を歩きまわった。街に出ると必ず何か発見があった。

「八百屋さんのガラス戸に〝不凍リンゴあります〟って紙が貼ってあったのよ」

「平目のような白身の魚のお刺身が二十銭でこんなに沢山よ」

 火等美は帰ってきては新発見を母親に報告した。また玄関に母を呼びたて、「ほら、ごらんなさい」と、雪をかぶったショールをひと振りして見せた。雪は水気も残さず、きれいに払い落とされる。それが手品でもしているようで、彼女は得意だった。

 家の近くに銭湯があった。そこがまた面白かった。外気との温度差が大きいので浴室はもうもうと湯気がたちこめている。それで中に人ると一層暖かく感じた。狭い流し場に二人ほどが桶を枕に体を伸ばしている。湯船に入っ たり、背中を流しあったりしている客が三、四人いる。年輩の人が多い。そのうち横になっている一人が追分節を唄い出した。男の人が合の手を入れる。ひとふし唄うとほかの人が唄いつぐ。火等美は無関心を装って体をこすり髪を洗っている。声をかけられたりすると困るからだ。新顔だし言葉のナマリも違う。注目され人の噂に上ることを彼女は恐れた。しかし耳だけはしっかり唄声を捉えている。哀調を帯びた唄声は、開拓時代の苦難を偲ばせるようでしみじみと心に響いた 帰り道、体の芯まで暖まって歩く雪の道は快かったが、五、六分もすると洗い髪は凍って棒のようになるのだった。

 家族は三人だった。父母とその娘という形だったが、母親と夫婦として暮してした男は火等美と血のつ ながりがなかった。彼のことを「おじさん」と呼ぶのには何の抵抗もなかったが、彼女は実の母をも「おばさん」と呼ばなければならなかった。母親にとって火等美は姪ということになっていた

 粉雪がたえず舞う札幌の街。大勢の 人が行きかう狸小路を、火等美は、「おじさん」、「おばさん」と一緒に、心を弾ませて歩いた。行き交う人々のなかでは、やはり同年輩の女の子達の服装が火等美の目を引いた 大部分が黒いマントに黒い長靴をはき、さっそうと歩いている。特に攵学生が素敵だ。 私ももし札幌の女学生だったら――そんな夢想に火等美は心を弾ませた。大人の女性は角巻き姿が多い。初めてそれを見たとき火等美は毛布を被っているのかと思った。顔だけ出して体の半分近くがすっぽり毛布にくるまれている。角巻きはよく見ると模様や配色に装身具としての気配りがされており、縁を飾る房糸もなかなか美しい。()()大きくなって、()()お金ができたら私もぜひ房飾りの美しい角巻きを着よう……。そんな思いに彼女は心を膨らませた。

 ()()()()・はその頃火等美の気持ちを慰める言葉だった。彼な女はいつでも、この言葉を弄んでいた。それは一つの精神的な娯楽で、その言葉を用いることで火等美は苛酷な現実を脱け出し、希望する世界に身を置くことができたのだ。現実の彼女は、貧しさのために引っ越しを重ねる家に生まれ、父親と母親との間をいったりきたりし、小学校さえ終えていない娘だった。しかも母親は常に官憲に追われる社会主義者だった。


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