9.ヘーリグ
きっと来ると信じていても、まだまだ朝だと分かっていても、ヘーリグはじりじりとする心を持て余していた。
「御使に心とは……厄介、実に厄介ですね。困った方たちです、本当に」
見守るのが役割なのだ。ただ淡々と、起こることをそのままに眺めてあの方に報告してそれで終わり。あとは起きてふらふらしていても眠っていてもヘーリグの好きに過ごして良い。あの方の元へ帰っても良い。封印が緩むたびに聖女を見守り封印が成されることを確認することだけがヘーリグの役割なのだ。それなのに。
気が付けば、エルネスティとリトヴァがやって来る日を待っている自分がいる。
気が付けば、アーヴァが目覚めるかもしれないその日を指折り数えている自分がいる。
これは封印が正しくなされるかを御使として見ているだけ…始めの数年はそう誤魔化していたがいつの頃からか止めた。ヘーリグは、その日を楽しみに待っている。期待を込めて、不安を抱えて、その日が来るのを待っている。
「愛しいアーヴァ、私に心を与えてしまったアーヴァ……責任を持って、今度はさよならではなく、未来を語って私に笑ってくださいね……」
それ以上は望まない。人ではないヘーリグには望むべくもない。望み方も分からない。
だからせめて、あの日最後に見せてくれたあの美しく輝く鮮やかな笑顔で未来を…希望を語ってほしい。
封印石をそっと撫で、ヘーリグは封印石越しにアーヴァに口づけた。そのまま間近でじっとアーヴァを見つめていると、扉を叩く音とほぼ同時に後ろでぎぃ、と扉の開く音がした。
「ヘーリグ、起きてる?少し早いけど来てしまったわ」
後ろを振り向けばアーヴァと同じ輝く碧の瞳が瞬いていた。アーヴァは封印石の間近にいるヘーリグを見て少し目を瞠り、「あら、やっぱり早かった?」と破顔した。
「すまない、気が早ってしまって…我慢ができなかった」
その後ろから、この九年で幼さを残す青年から随分と精悍な色男に育ったエルネスティが入って来た。
「問題ありません。私が睡眠も食事も必要無いのはご存知でしょう?」
にこりと笑ってヘーリグが腕を広げれば、リトヴァが真っ直ぐに飛び込んできた。
御使であるヘーリグには食事も睡眠も、人の生命活動を維持するための行為は何ひとつとして必要ない。けれど従者として動いていた時間、心配したアーヴァにいつも食事はしっかりと食べさせられていた。食べられないわけでは無いので良いのだが。
「ヘーリグ、お姉様にお変わりはない?」
「もちろんです。ああでも、今日は天気が良いせいか、少し機嫌が良さそうに見えますよ」
ヘーリグも抱き返して頷くと、リトヴァは「それは素敵ね!」と笑いすぐに離れて後ろを振り向いた。入れ変わりにエルネスティがヘーリグを抱擁した。エルネスティはあれからまた少し背が伸びた。今はヘーリグと同じくらいだ。
「ヘーリグも変わりないか?」
「私に変わりがある時は世界に変革がある時だけですね」
エルネスティもぎゅっと抱き返すと、ヘーリグが「それも困るな」とぽんぽんとヘーリグの背を叩いた。ヘーリグも「そうでしょう?」と笑ってエルネスティの背を叩いた。
「十回目、ね」
背負っていた荷物を下ろしてリトヴァが呟いた。
もうリトヴァはここへ来るのに護衛も手助けも必要ない。美しい容姿は年を経て大人の落ち着きを得たことで更に磨きがかかっているが、毎年ここへ来るために領政の勉強の合間に剣を習い、体を鍛え、自力で野宿ができるようになっている。美しく、そして強い大人の女性に育っていた。
「ああ、十回目だ」
エルネスティが頷いた。荷物を下ろし肩を回すと真面目な顔でじっと封印石を見つめている。
エルネスティもリトヴァも九年経ってすでに立派な大人になった。ヘーリグは意識して姿を変えないとそもそも年を取らないのであの頃のままだが、封印石で眠るアーヴァも二十七歳になるが姿かたちは十八歳の少女のままだ。
「お姉様………」
今ではアーヴァよりもずっと大人になったリトヴァがそっとアーヴァに…封印石に触れた。九年経ってもリトヴァがアーヴァを見る瞳は変わらない。
「ヘーリグ、見守ってくれ」
「ええ、もちろんです。……奇跡を、期待していますよ」
「ああ、期待していてくれ」
「エル……」
「大丈夫だ、リトヴァ」
エルネスティが不安そうに見上げるリトヴァに笑って頷いた。
笑っても泣いてもこれが最後だ。たとえあと十回来れば目覚めるとしても、エルネスティとリトヴァに許された時間がこれが最後なのだ。もう、次は無い。
エルネスティは封印石の前で目を閉じ大きく深呼吸をすると、口元に手を当てて「愛しているよ、アーヴァ」と唇だけで囁いた。これはひとつのおまじないのようなものだ。これまでも、封印石に触れるたびにエルネスティはそうしてきた。
そうして、エルネスティは目を開いて泣きそうな顔で笑った。
「アーヴァ、起きて。もう朝だよ」
一度躊躇うように手を止め、けれどエルネスティはそのままそっと封印石に触れた。ちかりと封印石が一度光を大きくして、光がゆっくりと緑に染まっていく。エルネスティの瞳の色だ。ちかりちかりと何度か緑に点滅すると、封印石はまた静かにいつもの柔らかな光へと戻った。
「駄目……か……?」
呟くエルネスティの声が震えている。封印石はいつも通り少し色を変えただけでまた元に戻ってしまった。
「駄目、なのか?」
エルネスティがもう一度封印石に触れた。けれど何も起こらない。十回目のエルネスティの封印は確かに封印石に刻まれたのだろう。
「いえ、分かりません。アーヴァは石と融合していませんから生きているはずです。けれどどう出せば良いのか……」
ヘーリグも封印石に触れた。いつもの通り、ひんやりとした封印石の感触に落胆よりも焦りが勝つ。これが最後なのだ。何か方法が無いのだろうか。
こんなことを考えること自体が間違いなのだ。ヘーリグは御使、神の代理。物語の中心にはいない、単なる傍観者でしかないのだから。だからひとりの聖女にこれほどに心惹かれて、たったひとつの時代の者たちに強く肩入れして、こんな風に振舞ってはいけないのだ。
けれどもう、目を逸らすことなどできはしない。このまま御使失格だとあの方に消されるとしても、ヘーリグはこの三人に移してしまった情を断ち切るつもりは無い。
「………いっそ割るか?」
「世界が亡びますよ」
「お姉様がいない世界なんて……」
「アーヴァが喜びません」
「そうだな……」
「そうよね……」
リトヴァもまた封印石に触れた。三人で封印石に触れ、三人でじっと眠るアーヴァを見つめる。
「でも、諦めるなんてできないわよ」
「そうだな……あと十年、陛下に頼むか」
「いっそここに家を建てるってどうかしら。そうすれば陛下とのお約束通り子供も産めるわ」
「産婆さん泣かせ…いえ、その前に大工泣かせな家になりそうですね」
「家は騎士たちが建てて赤子はあなたが取り上げれば良いのよ、ヘーリグ」
「私は千年以上存在していますが赤子を取り上げたことなどありませんよ!?」
誰ひとり封印石から離れることができないまま、本気とも冗談とも取れない会話を続ける。ふと会話が途切れた時、リトヴァがもう片方の手も封印石に触れ、ゆっくりと美しい顔を近づけて封印石に唇付けた。
「愛しているわお姉様。わたくしは絶対に諦めない……!」
――――その時だった。
それまでただふわふわと上下に揺れるだけだった封印先が、ぶるりと身震いするように震えたのは。




