2.アーヴァ
アーヴァは意地で自力で登り切り、膝に手をついて大きく深呼吸を繰り返した。息が整ったところで顔を上げると大きな柱が何本も連なり道を作り、その向こうに祠が見えた。白い小さな建物に、扉がひとつ付いている。
「お姉様、着きましたね……」
追いついたリトヴァが隣でぜえぜえと浅い息を繰り返している。岩登りは辛かっただろうに、登り切ってすぐにアーヴァの隣へと来てくれたのだろう。
「ええ、着いたわね。リトヴァ……疲れたでしょう?水を飲みましょうか」
「はい、お姉様。少し、お休み、しましょう」
リトヴァが甘えるようにアーヴァの腕を取った。その様子を見ていたヘーリグが倒れていた柱の一本にすっとブランケットを敷いてくれる。そこに座れということだろう。
「そうね。あちらへ、リトヴァ」
倒れた柱に並んで座ると、リトヴァの隣にエルネスティが座った。ヘーリグは背負っていた荷物から水の革袋をそれぞれに渡してくれる。ひと口、ふた口と飲んでいると、ふと視線を感じて振り返った。
「どうしたの?リトヴァ……」
アーヴァが首をかしげると、じっとアーヴァを見詰めていたリトヴァが泣きそうな顔で笑った。
「これで、これでようやく終わるのだと思ったら…何だか感慨深くて………」
「そうね、皆と別れて最後の町を出てからたったの五日だけど、中々の道のりだったわね……」
そう言いながらも思い出すのはアーヴァが生きてきたこの十八年だ。生まれてすぐに聖女となり、三歳でリトヴァが生まれ、五歳でエルネスティと婚約し、十歳頃からエルネスティに疎まれ、昨年にはエルネスティとリトヴァの心を知った。
決して不幸では無かったと思う。けれど、幸せだったかと言われると分からない。
正直、アーヴァの生家は全く良い家では無かった。父は無関心だったし母は虚栄心に満ちていた。
父はアーヴァの聖女という肩書がもたらす恩恵に満足していたし、リトヴァの美貌がもたらすであろう富にも満足していた。けれどそれ以外にはふたりが何をしようとどうなろうと無関心だった。
アーヴァの聖女という肩書とリトヴァの美貌は母の心を満たしたが、アーヴァもリトヴァも母の装飾品であり娘でも無ければ家族でも無かった。
アーヴァにとってリトヴァだけが、血を分けた家族だった。これまでふたりで寄り添うように生きてきたと思う。
封印が終わればアーヴァたちは王都に戻り、エルネスティとアーヴァは結婚してアーヴァが実家の伯爵家を継ぎ、エルネスティは伯爵家へ婿に入りしてアーヴァの家は聖女の継ぐ家として公爵家となる。
アーヴァは言ったのだ。エルネスティとリトヴァが思い合っているのだからリトヴァが家を継いでエルネスティが婿に入り、聖女の生家として爵位を貰えば良いと。
陛下もそれで良いと言ったのだ。けれど、駄目だった。もらえる爵位が公爵ではなく侯爵になるからだ。それを聞いた母はエルネスティと会えないようリトヴァをあまり家から出さなくなった。父にも訴えたが好きにすれば良いと言っただけだった。誰の好きにすれば良いかすら明言しなかった。
好きにすれば良いと言いながら父は後継者の変更届に署名をしなかった。理由はリトヴァがまだ成人を迎えていないから。リトヴァが十六歳を迎えれば署名をすると嘯いていたがそんなことは無理だ。その頃にはアーヴァとエルネスティの婚姻が成立してしまう。それに成人前に後継者指名をしてはいけないなどという法は無い。
結婚までに何とかできないかと色々と調べはしたが結局良い方策は見つからなかった。ただひとつ、可能性が残るとすればこの封印の旅でアーヴァが死ぬこと。
失踪では駄目だ。確実に家が継げずエルネスティとの婚姻も結べないとすぐに判断される状況が必要だ。そうすれば、陛下も封印のために犠牲になった聖女とその家族を無碍には扱えないはず。
けれど、万が一エルネスティやリトヴァが犯人として疑われてはいけない。そうなれば、それこそ爵位云々の話では無くなってしまう。
どうするべきかと考えていた時、この旅についての説明を受けるために普段は神殿の奥深くで祈りをささげ決して表に出てこない神官長と面会することになった。
本来であれば封印の旅に出るアーヴァとエルネスティのふたりで聞くべきだったのだが、エルネスティはアーヴァが聞けば良いと来なかった。リトヴァとの逢瀬を優先したのだ。
その神官長との面会で、アーヴァは封印の大切な真実を聞いた。アーヴァの望みが叶うことを知った。あの時ほど、エルネスティがリトヴァを優先してくれて良かったと神に感謝したことは無い。
後日、エルネスティに神官長との話の内容を聞かれたアーヴァはその大切な事実だけは伏せた上で封印の旅について聞いたことをエルネスティに報告した。エルネスティは「そうか」と頷いただけだった。
そうして今、眼前に封印の祠がある。アーヴァの願いを叶えてくれる祠。その扉の中に封じられているのは世界を破滅へと誘う混沌だと言われるけれど、アーヴァにとっては楽園へと導く扉だ。
「殿下、リトヴァ。わたくしは封印を施してまいります。こちらで休んでいてくださいませ。ヘーリグ。あなたは共を
」
「承知いたしました」
一礼したヘーリグと共に祠へ向かおうと立ち上がると、ぐっと腕が引っ張られた。
「お姉様……お姉様、お願いですから早く帰って来て下さいね」
あまりにも不安そうに眉を下げるリトヴァにアーヴァは笑った。アーヴァは何も言っていない。それなのにリトヴァはまるで何かに感づいているようだ。
「大丈夫よ、リトヴァ。何もかもうまくいくわ。これで最後でしょう?殿下、リトヴァをよろしくお願いいたします」
アーヴァの腕に縋りつくリトヴァのずいぶんと傷んでしまった蜂蜜色の髪を撫で、リトヴァを安心させるように微笑むとアーヴァはエルネスティに頷いた。
「ああ、分かっている。………アーヴァ、さっさと行ってさっさと戻って来い。さっさと山を下りるぞ」
「はい、殿下。それでは行ってまいります」
アーヴァはもう一度リトヴァの髪を撫でた。不安げに揺れる美しい碧眼を覗き込み、そうして額へ、右の頬へ、左の頬へと口づけを贈る。効果があるのかは知らない、けれど聖女からの祝福だ。
「良い子でね、リトヴァ」
「はい、お姉様………これで、これで終わりですね」
「ええ、そうよ……行って来るわ」
名残惜しそうにリトヴァがアーヴァの腕から手を離した。そう感じるのはアーヴァがこれからやろうとしていること故だろうか。
きっと名残惜しいのはアーヴァの方。覚悟をしてきたはずなのに、この柔らかな、少し荒れてしまった手を離すことがこんなにも難しい。
エルネスティに頷きリトヴァにもう一度微笑むと、その目にリトヴァを焼き付けて瞬きをひとつ、アーヴァはゆっくりと歩き出した。