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記憶を無くした者  作者: ひろろ
1章
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01話

 

 ぴちゃん、と小さな音がして、冷たい雫が頬に

 落ちた。


「……ん……」


 かすれた声とともに、ひとりの人物が目を覚ます。重い瞼を持ち上げ、ぼんやりとした視界のまま周囲を見渡した。


「……ここは……?」


 木々が生い茂り、見覚えのない景色が広がっている。空は薄曇りで、湿った空気が肌にまとわりつく。


「……何も、思い出せない。……見たことのない場所だ……」


 自分の声すら、どこか他人のもののように感じられた。


 ゆっくりと立ち上がり、身体に違和感がないか確かめる。痛みはない。だが、胸の奥がひどく落ち着かなかった。


「……どうしたものかな」


 独り言を呟きながら、考えを整理しようとする。


「まず考えるべきなのは……自分が何を持っていて、何をすべきか……だよな」


 そう言って、身につけていたものをすべて地面に置いた。


 短剣。刃こぼれが激しく、今にも折れそうな代物。

 そして、小さな時計。針は朝の五時前で止まり、ガラスは割れている。


「……置いたのはいいけど……これは、さすがに酷くないか?」


 思わず苦笑する。


「これでどうしろって言うんだ……」


 ふと、自分の髪が視界に入り、手を伸ばす。指先に触れたのは、鮮やかな緑色の髪。


「……緑、か」


 ますます記憶と結びつくものがない。


「本当に……何があったんだ? なんで、こんな物しか持ってない……」


 唯一の手がかりは、壊れた時計と止まった時間。しかし、どれだけ考えても、何一つ思い出せなかった。

 沈黙のまま、時間だけが過ぎていく。


「……くそ」


 頭を振り、立ち上がる。


「考えてても仕方ない。ここを離れて、周囲を調べるしかないか」


 そうして歩き出した。


 だが、どれほど歩いても、景色は変わらない。似たような木々、似たような地形。方向感覚も曖昧になり、ついに足を止めてしゃがみ込む。


「……何も、見つからない……」


 疲れと不安が、一気に押し寄せる。


「……最初の場所から動かない方がよかったのかもしれないな……。誰かが助けに来たかもしれないのに……」


 目印を付けなかったことを、今さら後悔する。


「……戻ろうにも、道がわからない……。本当に……馬鹿だ……」


 力なく呟き、地面を見つめた。


「……このまま、何もわからないまま……死ぬのか……」


 その時だった。


 ――さらさら、と。


 微かに、水の流れる音が耳に届いた。


「……水の音?」


 顔を上げる。


「……幻聴、か……。もう限界ってことだな……」


 そう呟き、再び俯く。しかし、水音は消えなかった。


「……いや……」


 ゆっくりと立ち上がる。


「……本当に、川があるのか?」


 何もしないよりはいい。そう自分に言い聞かせ、音のする方へ歩き出す。


「……!」


 視界が開け、崖下に川が流れているのが見えた。


「……幻聴じゃなかった……」


 安堵の息を吐く。


「……この川を辿れば、人里に出られるかもしれない」


 川沿いを進んでいくと、少し先に古びた木の橋が架かっていた。今にも崩れ落ちそうな、頼りない橋だ。


「……橋、か。……ボロすぎるな」


 渡る必要はない。そう判断し、素通りしようとした、その時。


 橋の向こう側に、何かが倒れているのが目に入った。


「……?」


 目を擦り、もう一度見る。


「……人、か?」


 確かに、人影だった。


「……生きてるのか……?」


 一瞬、迷いがよぎる。


「……いや……危険すぎる……。他の誰かが助けるだろ……」


 そう言い聞かせ、足を前に出そうとした――だが、動けなかった。


「……なんでだ……」


 胸の奥が、ざわつく。


「……行け、って……誰かに言われてる気がする……」


 舌打ちし、覚悟を決めた。


「……くそ……落ちるなよ……」


 ギシギシと不安な音を立てる橋を渡り、倒れている人物のもとへ辿り着く。


「……女……?」


 赤と青が混じった短い髪の少女だった。


「……知り合い……? ……いや……」


 答えは出ない。


「……とりあえず……ここじゃ危険だ」


 少女を抱きかかえ、慎重に橋を渡り切る。だが、嫌な予感が拭えず、そのまま少し離れた開けた場所まで移動し、地面にそっと降ろした。


「……さて……」


 その場に座り込み、少女の顔を見る。


「……起きるまで……待つか……」


 しばらくして、少女がゆっくりと目を開いた。


「……?」


 周囲を見回し、男を見つめる。


「……誰? 私を……どうするつもり……?」


 警戒に満ちた声。


「……落ち着け。さらってきたわけじゃない。橋のところで倒れてたのを運んだだけだ」


「……信用できない……」


「さらってきたなら、手足を縛ってるだろ」


 少女は一瞬黙り込み、視線を逸らす。


「……確かに……」


 だが、すぐに睨み返した。


「……でも……騙されないわ。……それに……私……何も覚えてないし……」



「……何?」


「……名前も……どこに住んでたかも……全部……」


 男は目を見開く。


「……お前も、か」


「……え……? まさか……」


「……俺もだ。何も覚えてない」


 一瞬、沈黙が落ちる。


「……そんな偶然……ある……?」


「……俺もそう思う」


 男は立ち上がった。


「……じゃあ、俺は行く。人里に着くまでだ」


 少女が慌てて立ち上がる。


「……一人に置いていくの? か弱い乙女を?」


「……勝手にしろ。ただし、人里までだ」


「……了解」


 二人が歩き出そうとした、その瞬間。


 草むらから、異様な気配が立ち上った。


 ――角の生えた、ウサギ。


 二匹。


「……なんだ……あれ……?」


「……知らない……! どうするのよ!」


 男は短剣を構える。


「……俺が引きつける。お前は逃げろ」


「……そんな武器で無理よ!」


 次の瞬間、ウサギが跳んだ。


「――っ!」


 男は飛び蹴りでそれを弾き飛ばし、叫ぶ。


「行け!! 足手まといだ!!」


 少女は唇を噛みしめ、走り出した。

 もう一匹が追おうとする。


「……させるか!!」


 男は短剣を振り下ろす。


 折れそうな刃が、空を切る。


 角ウサギは距離を取り、男を睨みつけた。


 ――まるで、次の一手を測るかのように。


 そして男は、その視線の奥に、


 **「ここが、ただの森ではない」**ことを、はっきりと悟るのだった。

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