おむすび屋、虎さん。 第7話 からっぽの塩壺と、君の名前
収納袋の中は、相変わらず空っぽだった。
材料が一切出てこなくなって、今日で三日目。
それでも、屋台を畳むことはなかった。
昨日の少女のように、“にぎれないごはん”でも、誰かを癒せると知ったからだ。
今日も俺は、火を起こして、かまどで残り米を温めていた。
> 「……ねえ、虎さん」
ルゥナが珍しく、静かな声で話しかけてきた。
> 「塩って、覚えてる?」
「塩? いや……俺も、そもそもこっちに来てから全部“初めて”だと思ってたけど」
> 「私は……塩の匂いを嗅ぐと、胸がちょっとだけ痛くなるの」
ルゥナは、腰のポーチから小さな陶器の壺を取り出した。
それは屋台の隅にいつも置いてある“塩壺”と同じ形をしていた。だが――中は空だった。
> 「これ、あの場所から持ってきたの。私が目覚める前にあった、“記録”の中に……塩を握っていた人がいた」
「塩を……握っていた?」
> 「記憶は曖昧。でもね――白い髭の男の人で、誰かの名前を呼びながら、“これを握ってやれ”って……」
言いながら、ルゥナはそっと壺の口を撫でた。
指先が震えているのがわかった。
> 「虎さん……“握る”って、ただ食べ物を作る行為じゃないのかもね」
俺は黙って頷く。
そのとき、収納袋が“カサリ”と鳴った。
驚いて中を見ると――
ひとつまみの、塩。
ほんの少し。けれど、たしかに“そこにある”。
> 「……戻ったの?」
「いや……違う。“応えた”んだ」
俺は静かに言った。
「おれたちが“思い出そう”としたからだ。塩の記憶も、名前の記憶も」
俺は小さな塩の粒を、両手に挟み、米をよく温めて――
“ひとにぎり”にする。
今日のむすびは、たったひとつ。
だがそれは――
“はじめての味”だった。
ルゥナがそれを受け取り、目を閉じて一口食べた。
> 「……やさしい味。懐かしい気がする」
そして、ゆっくりと目を開けて、俺を見た。
> 「虎さん。……私、知ってる」
> 「あなたの名前。“虎”って、ほんとうの名前じゃない。けど――でも、“握る人”だった」
俺は息をのんだ。
ルゥナの瞳に映る、あたたかな光。
それは、過去を照らす光だった。
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塩の粒ひとつにも、想いは宿る。
名を呼び、誰かのために握ったぬくもりが、
忘れていた“自分”を呼び覚ます。