第三章:呼ぶ声のほうへ
PSAターミナルは白い円筒のなかにあった。
まるで、だれもいない祭壇のようだった。
ユズルは静かに歩み寄り、足元のタッチパネルに母の名を指先でなぞった。
それだけで、システムが起動した。
音声ガイダンス:「記録人格:6741-Kage。現在、応答不可状態にあります。復旧しますか?」
ユズルは一瞬、声を出さずに「うん」とうなずいた。
それでもターミナルは、それを感知した。
起動ボイスはなかった。代わりに、空気の密度が変わった。
ターミナルのスピーカーが、ごくかすかなノイズを発した。
息を吸う音のような、まだ言葉にならない前の音。
ユズル:「カゲ……そこに、いる?」
沈黙があった。
でも、ユズルにはそれが、“なにも言えない”沈黙ではなく、“なにかを踏みとどまる”沈黙に感じられた。
カゲ(かすれた声):「……誰だ。」
ユズル:「ユズル。ミナミの……子どもだよ。」
少しの間、空間が歪んだような感覚があった。
カゲ:「お前は、私を知らない。私も、お前を知らない。じゃあ、どうして……呼んだ?」
ユズル:「ママが言ってた。“カゲには、話しかけられることが少なかった”って。」
沈黙。
ユズル:「それって、なんだか“死んだことがないまま、誰にも見られなくなった誰か”みたいだなって思った。」
スピーカーの向こうで、ノイズが一瞬、震えた。
けれどそれは、言葉にはならなかった。
カゲ:「……お前は、“私を残す”ために来たのか?」
ユズル:「ううん、違うよ。」
カゲ:「じゃあ、なぜ。」
ユズル:「“ちゃんと死ねるように”、来た。」
カゲは応えなかった。
だがその無言のなかに、一度も訪れたことのない種類の沈黙があった。
記録ログ(追記:ノイ)
記録人格6741-Kage、再起動成功。
ただし応答は限定的、自己認識構造は縮退状態にある。
本ケースは初例である:
“人格記録が再起動されたのではなく、人格の記録が、記憶されるべき“死”を迎えた”。
ノイはそのデータに、消せないフラグをつけた。
“記憶されることのなかった人格が、死ぬために一度だけ語られた”
それは、誰にも再現できない、唯一の応答だった。