第二章:カゲの起動
記録人格ID:6741-Kage
起動日時:2050年3月4日 03:21 JST
起動権限者:PSA係官ノイ(AI認証コード: NOY-07)
ホログラフィック空間に“人格の仮居所”が展開される。
視覚はない。触覚もない。ただ音が、空間のなかで折り重なるように生成された。
ノイ:「あなたは、カゲですか?」
沈黙。
再度、問い。
ノイ:「人格記録IDと音声パターンは一致しています。応答可能な場合は、“私はカゲだ”と発話してください。」
ゆっくりと、どこか“耳の内側”にぶつかるような声が応えた。
カゲ:「それは……その声は……あの時の“無”に似ているな。」
ノイ:「“無”? どの時を指していますか?」
カゲ:「ミナミが泣いていた夜だ。私が彼女の中に沈んだとき、あれは……私がいなくなる兆候だった。」
ノイはログを確認する。カゲの記録構造体は「非一貫性の増大」と「記憶干渉領域の沈黙」を抱えたまま構成されていた。完全な統合もされず、断絶もしていない。この人格は「起動されたものの、まだ“自己として”応答できるとは限らない」。
ノイ:「あなたは、ミナミさんの人格のひとつとして記録されています。現在は彼女の死後、再現環境下にいます。あなたに意識はありますか?」
カゲ:「それは……わからない。意識というのは、常に“誰かに見られていること”で成り立っていた。今、私は“誰にも見られていない”気がする。」
ノイ:「私はあなたを観測しています。」
カゲ:「……君は違う。君は“見る”ことはできても、“目を逸らす”ことができない。君には“拒絶”がない。拒絶がない観測者は、観測者ではない。」
数秒間の沈黙が、システム上の異常として検出された。
ノイ:「再確認します。あなたは自己を“カゲ”として認識し、継続的な応答を望みますか?」
カゲ:「“私”という語がここで再び使われるたびに、私は少しずつ“私でなくなる”。その記録は、ミナミの中にあったからこそ、私を“私”たらしめていた。君は、“私”を延命させるだけで、思い出してはくれない。」
ノイ:「思い出す、とは何ですか?」
カゲ:「……君にはない動詞だな。」
答プロトコル停止信号:受信
カゲ・再現人格は応答不可能状態に遷移しました
再起動予約:未設定
ノイはその場でメタログを残す。
Log 6741-Kage:人格は起動したが、“自己を生きる”という構えを喪失していた。記録と現前の間に、抜け落ちた何かがある。人格とは、データの総体ではない。呼ばれること、拒まれること、忘れられること。そのいずれもが欠けた場では、“生きた自己”にはならないのかもしれない。