6.身バレと伯母
ユリウス・カトル・ブルーグ・ウェントスとしてアマーリエに会ったことは一度としてない、はずだ。それなのにどうして。
とにかく。のんびりしている暇はない。
「【風槍】!【飛翔】!」
僕を閉じこめる【牢獄】の一点狙いで破壊し、肌を擦りながら脱出を果たしてセバスと騎士を正面に距離を取る。
背後を見せたら魔法が飛んで来ることは確実で、騎士もまた回り込んで逃げ道を塞いでくるに違いないから、敢えてここは逃げ出さず機を窺う。
牢獄の檻で裂かれた僕の子供らしい柔肌から血が流れ落ちる。
「ウェントスって、あのウィントザルア皇爵家か?」
「ア゛…?」
アマーリエが騎士に問いかけられて咄嗟に口を両手で隠した。お嬢様にあるまじき濁った声だった。
「彼が皇爵令息?それは本当かな、アマーリエ?」
再度問われた彼女はコクコクと首を振って肯定を表す。あの汚い声には誰も触れないらしい。
「君が皇爵家の人間だというのなら、降りて来てくれないかな?ウィントザルア皇爵邸に送り返すと確約しよう」
「…【偽装】」
【偽装】は消費魔力が極小でいて視覚情報を誤認させられる。人間は情報の約八割を視覚から得ているとされているほどだ。コスパもよく、使い勝手もいい魔法だ。
「【偽装】まで扱えるとは」
「姿は見えないけど、どうにか出来ないかな?」
姿を見失っている今のうちに逃げないと…。
「心配ございません。【縛糸】」
孤児院を出るまでたったあと数メートル。
その距離を残して叩きつけられるようにして地面に墜落した。
同時に、僕を襲った強烈な眠気に逆らえず、瞼を閉じた。
ふかふかのベッドだ。こんなに肌触りの良いシーツは家出して以来。
かけられた布団を抱き枕の要領で掻き抱く。
「…?!」
飛び起きて辺りを見渡した。広々としているが、家具が最低限しかなく殺風景な部屋だった。
そこに居たひとりのメイドと目が合う。
「おそようございます。人を呼んで参りますので、そのままお待ちください」
こちらが何か声を掛けるより先に彼女が一方的に告げて、退室していった。
ここは十中八九アクディリア皇爵家だ。
あのセバスと呼ばれた執事に意識を奪われて捕まり、運ばれた。【牢獄】を脱出した際にできた傷はきれいさっぱり治療されている。
そして、僕の素性ももう知れている。あの悪役令嬢が何で僕のことが分かったのかは気になるけど、長居は無用だ。
ベッドから降りて窓際に向かった。ここは二階らしい。
「!?開かない!なんで…?!」
鍵は難なく外せたのに、窓がびくともしない。スライド式でもないから建付けが悪い訳でも力不足という訳でもない。
「開くわけがないから諦めた方がいい」
女性らしさのある、低めの声。それでいてどこか冷たさを感じさせた。
窓から手を離してゆっくりと振り返る。
「お前がアリーの子か。もっと近くでよく見せて」
青濃く艶やかな短髪に、切れ長な黒い瞳。
冷酷さを抱くのに、何故か姿見でしか見たことのない母を思い起こした。母への印象と目の前のこの人の雰囲気は似ても似つかないのに。
女性の両掌が僕の頬を包み込んで、そっと上向かせる。
「ああ。よく似てる。アリーの子供の頃にそっくりだ」
覗き込んできた瞳には満天の夜空が浮かんでいた。窓から陽光を浴びては違った輝きを放っていて、何時間でも見ていられる。
ひとりで星を見たことは何度もある。それでも、これほどの感動を抱いたことは一度としてなかった。
どれくらいの間そうしていただろう。十分だったかもしれないし、ほんの十数秒だったかもしれない。
ただ僕は、その瞳に魅せられていた。
「私はベアトリーチェ・ウィリア・ベラル・アクア。お前の母の姉に当たる」
「伯母、様…?」
だから、僕は母を…。
「ああそうだ。ユリウス、お前に出逢えて良かった。この邸で好きなだけ過ごすといい」
温かな手が言葉と同時に僕から離れていく。
転生して初めて優しく触れてもらえた。人の体温が名残惜しかった。
「…どう、して?」
「何故孤児院に居た?ウェントザルア皇爵家に帰りたくはないか?…そう聞いても、ユリウスを苦しめるだけだろう。いいさ、言いたくなった時に言えば」
緩く下がった眦と浅く刻まれる皺。
僕を見つめる視線の温かさに、逃げる気はとうに失せていた。