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白花の赤き夢

作者: ミナト碧依

 美しい花を人は手折る。

 それがその花の命を絶つことになると知っていながら、考えることもしない。そしてどんなに慈しんで花を愛でても、枯れてしまえばあっさりと忘れる。そんな自分を、風流人だと人はのたまう。

 だが少なくともおれは、自分がそんな風流人でないことを理解していた。

 手を広げれば潰れていた花が起きあがろうとした。手折られても尚、美しく生きようというのか。

 その往生際の悪さが気に入って、おれはもう一度その白い花を握り潰した。

「藤堂!」

 手の中の花に気を取られていたおれは、その声に現実に引き戻された。

「秋吉」

 振り返れば、おれより一回り大柄な青年が駆け寄ってきた。

「奇遇だな。こんなところで」

 学生帽の影になっていてもわかる、人好きのする笑顔。秋吉直人は、おれの握りつぶした右手に後ろめたさを思い出させた。自分の体を盾にさりげなく右手を下ろす。

「大学の構内で奇遇も何もないだろう」

「それはそうだが、もう帰ったかと思っていたよ。いつも講義が終わると君はそそくさと帰るじゃないか。……おい、何か落としたぞ」

 しまったと思った。

 植え込みを覗き込んだ秋吉は、植え込みを覗き込んで渋面を作った。植木の間では、白い花がひしゃげていた。

「藤堂、君はまた」

「ああ悪かった」

 秋吉の説教が始まる前に謝罪したが、案の定それはなんの意味もなかった。

「悪いと思っていないだろう。これで何度目だと思っているんだ」

「百度目くらいかな?」

 冗談のつもりだったが秋吉は眉間の皺を深くした。

 百という数が、もしかしたら大袈裟でないことを秋吉は知っている。

「君の妹が知ったら泣くぞ」

 秋吉の言葉に、無意識に笑みが漏れた。だってそんなことはあり得ない。

「知られるようなへまはしないさ」

 自信を持って返した言葉に、秋吉はため息と共に言葉を漏らした。

「百合子さんが可愛そうだと思わないか」

 その言葉を黙殺して、おれは帰路についた。


 大学の正門を出て二十分も歩けば、檻のような鉄柵に囲まれた邸宅が見えてくる。明治に入ってすぐ西洋の建築家を招いて創らせたという洋館は、藤堂家の矜持と見栄の象徴だった。

 華族の血を引く藤堂家は、貿易商として財をなした。それを商家出身の父が更に大きくし、今では藤堂財閥の名を知らぬ者はない。おれはその藤堂家の御曹司という肩書きを背負わされている。

 門をくぐると玄関の扉が内から開いて、家令の田上が現れた。

「お帰りなさいませ、雅紀坊ちゃん」

 頭に白髪の混じった初老の男は、恭しく腰を折った。

「ああ、ただいま」

 おれが学生帽を渡すと、田上はおれが訪ねるより早く口を開いた。

「百合子お嬢様は、まだお帰りになっておりません」

「まだ? 今日は遅いんだな」

「女学校のご友人のお宅にお邪魔していらっしゃるとか。お夕食に招待されたそうです。お帰りは八時ごろになるということで、お迎えの車を出します」

「ああ、頼む」

 そのまま自室に入ったおれは、ビロードの椅子に身を沈めた。学生帽になでつけられていた髪を崩そうと右手を上げて、その手が茶色く汚れていることに気付く。

 顔の前で指を掌にすり合わせてみる。その茶色いものはねばねばとしていたが、液体ではなかった。花粉だ。

 あの花の花粉はしつこい。衣服にでもついたら大変だ。汚れを落とすのはもちろんおれの仕事ではないが、知られる危険が増えるのは避けたい。

 おれは右手を肘掛から外に投げ出した。帰宅は遅くなるというから、手を洗うのはもう少し後で構わない。

 そんなことを思って、肺の底辺からため息が出た。

 ついこの間まで大人しく部屋に収まっていたのに、寄り道をするようになったのか。

 おれの母は六年前に亡くなり、その翌年父は後妻を娶った。

 ――初めまして。百合子です。

 初めて出逢ったあの日、白い肌が印象的だった。赤い着物を着て、はにかむように挨拶した義妹。着物の赤が鮮やかであればあるほど、肌の白さが際だって見えたのをよく覚えている。

 そのときおれは、その花を手折ってしまいたい衝動に駆られた。水も土も風も陽光も、全てのものを遠ざけて囲ってしまいたい。そしてただおれのために散れば良い、と。

 あの日から五年。年号は明治から大正へと代わり、おれの大学生活は三年目を迎えていた。

 後妻は三年前に百合を置いて出ていった。いっそ百合も連れて行くか、父が追い出してくれれば良かった。それならおれが奪いに行けたのに。


 翌日、講義のなかったおれは午後になってから家を出た。

 門を出て十分ほど歩いたとき、学生服姿の男が立ち止まっていた。後ろ姿でもわかる。育ちの良さがにじみ出るあの立ち姿は、秋吉のものだ。

「秋吉?」

 声をかけてから、秋吉が一人でないことに気付いた。

「兄様!」

 朗らかな笑顔。絹のような黒髪。髪を結った真っ赤なリボン。白い、肌。

「百合」

 その瞬間、肺の下あたりがざわりと不穏な音を立てた気がした。

「藤堂。もしかして君も図書館か?」

 秋吉の穏やかな調子に、なんとか動揺を押し隠して頷いた。

「あ、ああ。来週提出の論文がまだだったからな」

「そうか。僕も今から行く所だったんだ。そうしたら、丁度百合子さんに行き合って」

「もしかして秋吉さんじゃないかしらと、私から声をおかけしたの」

「学生なんて皆同じ格好なのに、君の妹君は記憶力が優れているんだな。驚いたよ」

 百合のような少女の方から大学生に声をかけるなんて。一度会っているとはいえ、そんなに大胆な娘だっただろうか。

「でも百合。年頃の娘が道端で男と立ち話をするものではないよ。それも自分から声をかけただなんて」

「だって、兄様のご友人をお見かけして私嬉しくなってしまって。兄様ったら、ご友人を連れていらっしゃる事なんて滅多にないのだもの。私、秋吉さん以外兄様のご友人にお会いしたことなんてありません。それも一年ほど前に一度きりですし。お友達がいらっしゃらないんじゃないかと心配になってしまいます」

「お前みたいなお転婆を、他人に見せるのが恥ずかしいだけだよ」

「まあ、兄様ったら!」

 百合が少し声を荒げると、傍らで見ていた秋吉は堪えきれずに小さく笑った。それに気付いた百合は、頬を染めて俯いた。

「ああ、そう怒らないでくれ。冗談だ。それより百合、寄り道しないで真っ直ぐお帰り」

「兄様ったら、まだ怒っていらっしゃるの?」

 話の見えない秋吉を察したのか、それとも味方につけるためか、百合は拗ねたように秋吉を見た。

「昨日、女学校のお友達に急な招待を受けて、お夕食をご馳走になったんです。急に遅くなったものだから、兄様、昨夜からご機嫌斜めで。意地悪なことばかり仰るの。ちゃんと家に連絡も入れましたのに」

 おれはざわざわするみぞおちに拳をあて、ぐっと堪えていた。

「それだけ大事にされているんですよ。藤堂は学友の恋人の話を聞いても、羨ましがることもなく百合子さんの心配をしているくらいですから」

「あら。そのご学友って秋吉さんのことですの? 恋人はどんな方?」

「僕じゃありませんよ」

「でも、お好きな方はいらっしゃるのでしょう? 女の目は誤魔化せませんわ」

 少女らしい好奇心に目を輝かせる百合と、困ったように笑う秋吉。助け船を出したつもりで揚げ足を取られた秋吉は、ちらりと僕の方を見た。

「ほら、百合。秋吉を困らせないでくれ。さあ、早くお帰り。おれはこれから秋吉と図書館へ行くから、少し遅くなるよ」

「お勉強熱心ですのね。わかりました。でも、あまり遅くならないで下さいね。あまり百合を心配させないで」

「わかっているよ。昨日同じ思いをしたばかりだ」

「もう。やっぱり兄様、意地悪なんだから。では秋吉さん、また遊びにいらして下さいね」

「藤堂が招待してくれるなら、いつでも」

「兄様、お友達は大切になさいませ。ではご機嫌様」

 軽やかに歩いていく百合を見送って、おれと秋吉は百合とは反対方向に歩き出した。

「女性は成長が早いと言うが、本当だな。見違えた。お前が友人を家に入れたがらないのは、百合子さんに悪い虫をつけないためか」

 藤堂の軽口は、おれにとっては冗談で済まされないものだった。

 無意識に止めてしまったおれを引き返してきた秋吉が覗き込む。

「どうしたんだ」

「百合は、もうすぐ十六だ」

「そうか。美しくなる筈だな」

「もうそろそろ、縁談が持ち込まれてもおかしくない」

「まあ藤堂財閥ともなれば、引く手あまただろうな。なんだ。百合子さんが結婚するのが、そんなに嫌か」

「ああ。嫌だね」

 軽く答えたつもりが、自分でも意外なほど低い声が出た。秋吉の表情が曇る。

「前から思っていたんだが、君の百合子さんに対する態度は、過保護というより、執着のように思える。僕は兄弟がいないからよくわからないが、その、少し異常じゃないのか」

「そうか?」

「さっき、僕を殺したいような目で見ていたよ」

 殺したいのは、お前じゃない。

 不意に笑みがこみ上げて、おれは道端で声を上げて笑った。

「藤堂!?」

「そうだよ。異常だ。おれは百合を、一人の女としてしか見ていない」

いや、あれは花だ。あの純白の花を手折りたい。この手で汚して、他の誰が触れる前に散らしてやりたい。

「おれはもう、とっくに正気なんかじゃない」

 五年前初めて百合に出逢ったとき、おれは自分の正気が壊れていく音を聴いた。

 秋吉は顔面蒼白になっている。自分で言った「殺したいような目」が本当か疑い初めているのだろう。それでいい。本気なのだから。

「そんな。百合子さんは君の妹じゃないか」

「妹じゃ、ない」

「なに?」

「血の繋がりはない。百合は後妻の連れ子だ」

 秋吉ははっと息を呑んだ。秋吉とは高等学校からの付き合いだが、百合が藤堂家に入ったのも同じ頃だった。おれからこの話をしたことはない。

「なんなら君の父上にでも聞いてみたらいい。秋吉家もうちと取引があるのだし、知っているだろう」

 思い当たることがあるのかないのか、秋吉は難しい顔で黙り込んだ。

「何であの女が出ていったとき、百合も出ていかなかったんだろうな。折角追い出せたのに」

「追い出した?」

「そうだ。おれがあの女を追い出した。百合とこの家の縁を切らせるために」

「君、一体何を」

 蒼白になった秋吉は、他のどんな悪い事実を聞かされるのだろうと恐れていた。そのとおりだ。おれは楽しくて、笑みを深くした。

「犯した」

 これ以上ないくらい秋吉は目を見開いていた。言葉のない表情が「信じられない」と告げていた。いや、「信じたくない」か。

 おれは畳みかけるように繰り返した。

「犯した。手首を縛り上げ、髪を掴み、来る日も来る日も夜通し辱めた。百合を連れて出ていけばいいと囁きながらな」

「そんな馬鹿な。いくら大きな屋敷だからって、君の父上がそれを見逃すはずが」

「見逃すよ、あいつは。たとえ見ていても見過ごす」

 とはいえその必要もなかった。当時、あの男は仕事と称して一年ほど欧州にいたのだから。

「君、仮にも義母上を」

 それきり言葉を継げなかった藤堂に、おれは満足して笑い崩れた。

「藤堂!」

「そうだ。おれはおかしいんだ。もうとうに狂ってる」

「まさかもう、百合子さんまで」

「百合子には指一本触れていないさ。おれはあいつを、あいつの全てをおれのものにしたい。あいつの身体も、心も、全て。夫婦なんて肩書きだって他の男にくれてやるものか。逃げられない様に、奪われない様に、蝶じゃなく花を籠に入れようとするとは、本当にいかれてる」

「藤堂」

 哀れむような目で、秋吉はおれを見ていた。おれはそれで構わない。

「なあ、秋吉」

 満面の笑みで親友を見ると、秋吉は怯えたように肩を小さく震わせた。

「邪魔はしてくれるなよ」

 秋吉は答えなかった。

 今まで誰にも明かしたことのない百合への想いを誰かに話したのは、初めてのことだった。おれはたぶん慢心していた。ここまでの執着を話せば、秋吉はおれの味方にはならなくても、敵にもならないだろうと。


 おれは全ての男を、それこそ父でさえ百合に近付けたくなかった。しかしまた遊びに来て下さいと百合が言った手前、おれは秋吉を家に招待しない訳にはいかなかった。

 おれが久しぶりに友人を家に招いたことに百合は喜び、女中に頼むのではなく自ら茶と茶菓子を持ってきた。

「そうだ、百合。おれは秋吉に貸す本を部屋に取りに行ってくるから、少しの間、秋吉の相手をしていてくれ」

「はい、兄様」

 秋吉は高等学校時代からの親友で、なりゆきとはいえ百合への想いを唯一告げた相手で。すべての男を警戒していた筈なのに、おれは自分の慢心に気づいていなかった。少しの間とはいえ、二人きりになることを許してしまった。

 けれど。

「雅紀。百合子の縁談が決まった。相手はお前の友人でもある、秋吉直人君だ」

 父からそのことを聞かされたのは、おれが秋吉を家に招いた三日後だった。

 秋吉の父は若くして会社を興し、一代で財を築きあげた。そして、今や藤堂財閥にとって最大の取引先となる大企業に成長させた。成金と蔑む者も多かったが、父はその手腕を気に入っていた。

 その息子である秋吉本人から直々に申し込まれたというこの縁談に、父は大層満足していた。

 しかしおれは、つきつけられた現実が飲み込めなかった。

「兄様」

「百合」

「喜んでくださいますよね。だって直人さんは、兄様の一番の親友ですもの」

 そう言って朗らかに笑った百合をおれは、――その場で殺してしまいたかった。


 百合と秋吉の婚約を聞かされてから十日。

 秋吉は度々百合を尋ねてきた。それを知った父が秋吉を夕食に招待するのも、百合が秋吉を「直人さん」と呼ぶようになったのも、全てが気にくわなかった。おれは適当な理由をつけて避けて、二人とはほとんど会話をしなかった。

 しかしその日の夕刻、百合と顔を合わせないように図書館に籠もってから帰宅したときにそれは起こった。

 家令の田代がいつものように出向かえる。

「お帰りなさいませ」

「ああ、ただいま」

「秋吉様がお見えで、今、百合子お嬢様のお部屋にいらっしゃいます」

「そう、か」

「坊ちゃん。お二人にご挨拶なさいませ」

「婚約者同士、水入らずなんだ。邪魔することもあるまい」

「いいえ。恐れながら、最近の坊ちゃんのなさりようは、藤堂家のご嫡男にあるまじき振る舞い。将来藤堂家を背負うお方として、客人に礼を欠くようなことがあってはなりません。ましてや秋吉様は、坊ちゃんのご友人ではありませんか」

 田上の言葉はもっともだった。ただ命令に従うだけでなく主人が間違ったなら正すその姿勢は、こんなときでなければ家令の鑑と称賛しただろう。

「わかったよ、田上」

 本当は気乗りしなかったが、田上の手前了承するしかなかった。

 百合の部屋の前に立っても、すぐにはノック出来なかった。深く吐いた息が、深呼吸なのかため息なのか、自分でも判断しかねた。

 漸く決心してノックをしようと右手をあげたとき、中から声が聞こえた。その声に、おれは平衡感覚を失った気がした。

 扉が、少しだけ開いていた。覗くか否か。そんなことを選ぶ余裕もなかった。

 人が通るには狭すぎて、部屋の中を窺うには十分な視界を許した扉の隙間。そこから聞こえたのは嬌声になりきらない艶やかな吐息。おれの目を奪ったのは、着物に覆われていたはずの、白い肌。

「ゆ、り……」

いつもは十分に梳られた髪が乱れ、白い背中にかかっている。そこに武骨な男の手が伸びた。男の手が細い体を支え、律動が激しくなる。室内の姿見に二人が映っているのに気づいた。百合が身をのけ反らせ、突き出した胸を秋吉が吸った。そこに映る百合は女の顔をしていた。かつて俺が犯した女と同じ顔だった。

 おれが、おれが汚す筈だった。清廉潔白だった、あの白百合を。

 そのとき、ほとんど狂っていたおれをかろうじて保っていた最後の何かが、音を立てて崩れ落ちた。


 おれの中は憎しみに満ちていた。百合以外に向けられたことのなかった殺意が、初めて秋吉へ移った。

 それでも多分、おれの中には一抹の理性か、或いは常識が残っていた。秋吉が藤堂家を辞するまで待つくらいには。

 それは罪悪感が働いたのでも冷静さを取り戻そうとしたのでもない。限りなく邪魔を排除しようとした結果だった。

 秋吉が藤堂家を出たあと、おれはそれを追いかけた。

 夏に向かう春の夕刻。まだ西の空は赤かった。

「秋吉」

 自分でも聞いたことのないような低い声が出た。びくりと肩を震わせて振り返った秋吉の顔には、ありありと罪悪感が浮かんでいた。哀れまれているようにも見えて、それはますますおれを逆撫でした。

「何故、百合と婚約した」

「それは」

「おれの気持ちを知っていながら、何故、百合を抱いた!」

 秋吉はわずかに動揺を見せたが、予想したほどの反応ではなかった。見られても構わなかった、そういうことだろう。

「何故だ秋吉。何故お前がおれを裏切って、百合を!」

 さあ、言い訳をしたいならするがいい。おれは後ろに隠した手を握りしめた。

 おれの予想に反して、秋吉は冷静だった。

「君から大切なものを奪ってやりたかったからだ」

 おれは自分の耳を疑った。違う言葉が続くのを待った。

 けれど秋吉は、おれの期待を裏切ったのに、想像を裏切ってはくれなかった。

「いつも澄ましている君の表情を、思い切り歪めてやりたかった。その為に、何を奪うのが一番良いかとずっと考えていたんだ。それが百合子さんだと知ったから、奪っただけだよ」

 崩れていく。信頼も、友情も、理性も、おれの白百合も。

「恨むなら恨め。憎むなら憎め。僕はそれで構わない」

「っ秋吉……‼」

 怒りに震えたおれは、家を出るときに咄嗟に掴んできたナイフを取り出して、迷わず秋吉を狙った。

 逆上したおれは、ナイフの刃を見た秋吉が逃げることもせず目を閉じたのも、その横を細い影がすり抜けたことも、すぐには理解しなかった。

 手に弾力のある衝撃が走る。ナイフが押される。おれは手に力を込めて、刃を目の前の体に押し込んだ。

 呻くような秋吉の声が耳に落ちてくる。けれど目の前にある肩は、随分と低かった。

「あ、……?」

「百合子さん⁉」

「ごめんなさい、直人さん。でも、これだけは、譲ってあげないわ」

 困惑するおれたちを余所に、百合は微笑んでいた。とても穏やかに、恍惚と。

 おれは自分の手元を見下ろした。おれの手にしたナイフの刃は、おれ達の間に滑り込んできた百合を貫いていた。

「だって、ねえ。これで良いのでしょう? 兄様」

「ゆ、り」

「だって兄様は、私を手折りたかったのだもの。百合はわかっていました。母親が違っても、私と兄様はたった二人の兄妹ですもの。そして私も、兄様の腕の中で兄様の為に散りたかった」

「おれとお前は、きょうだいなんかじゃ」

 百合はおれの言葉を聞いていなかった。ただ楽しそうにお喋りを続けた。

「直人さんも私と同じね。だから私との結婚を承諾してくださったの。でも兄様がずっと望んでくれていたのは私だから、これだけは、譲ってあげない。ふふっ」

 微笑みながら百合は倒れて、どさりと、重い音がした。

「百合、百合!」

 ナイフの突き刺さった部分から深紅の血が溢れ、百合の着物を、百合の白い肌を、じわじわと浸食し穢していく。その身体をかき抱くと、血と共に温もりも流れ出ている気がした。

 そうして徐々に生というものから切り離されていけば、この世の全てのものから百合は遠ざけられる。他の男に抱かれはしたが、この白百合は、おれの為に散っていく。

 そう。確かに望んだ。おれが渇望したものだった筈。それ、なのに。

「……う」

 生を放棄しかけていた百合が、はっと目を見開く。おれは、何を言おうとしているのだろう。

「違う、違う! おれが、おれが望んだのは……っ」

 何だったというのだ。口走りたい言葉も見出せないまま、おれは百合に口づけた。ずっと望んでいた筈の赤は、濃い鉄のにおいがして、吐き気がした。

「に……さま……? ゆりは……しあわせ、です……のに……」

 花が、散る。最期に閉じられることのなかった瞼。その表情は、絶望。

「……はは」

 望んだもの。

 手に入れられた筈のもの。

 掴んだそれは、しかし空虚で。

 それさえもおれは、自ら突き放した。

「あああああああああああっ。」


 白百合の花束を手に、墓地へと足を踏み入れる学生の姿があった。管理する者も墓参するものもほとんどないのだろう。荒れ放題の墓地の中、新しい墓石の前で男は足を止めた。

 迷わず目当ての墓に辿り着いた来訪者は、花を供えると学生帽を取り、語りかけた。

「満足ですか。百合子さん」

 墓石に名はない。百合子は藤堂家の墓に入ることを許されなかった。

「貴女は最愛の藤堂に殺されることを選んだ。そのための、藤堂の憎しみを煽るための婚約だったんですね。僕達は、どこまでも同じだったんですね」

 墓石を見下ろしながら、秋吉はあの日のことを思い出していた。あの日、百合子の方から縁談を持ちかけられたときの。

「百合。おれは秋吉に貸す本を部屋に取りに行ってくるから、少しの間、秋吉の相手をしていてくれ」

「はい、兄様。じゃあ、お茶のおかわりでも淹れましょうか」

「ありがとう」

「どうぞ」

 手ずから紅茶を淹れ直すと、百合子は切り出した。

「ねえ秋吉さん。私と、結婚してくださいませんか」

「百合子さん⁉ 何を急に」

「女の私からこんなことを言うのは、はしたないのはわかっています。でも私には、他に方法がないの」

「どういうことですか」

「私は、結婚などしたくありません。兄様以外の男性とは」

「それは」

「兄様を、愛しています。一人の男性として。けれどこの想いは、報われません。報われてはいけないの。私は、兄様の妹なのだから」

「藤堂は、本当の兄妹ではないと」

 秋吉の言葉に百合子は少し驚いて、そして微笑んだ。

「兄様がそれを話すなんて、よっぽど秋吉さんを信頼してらっしゃるのね」

 秋吉は少し後ろめたかった。彼女の母親に藤堂がしたことを、百合子は知らないだろう。

「確かに表向きは、そういうことになっています。ですが真実は、違います。私は、お父様の妾の娘ですから」

「では貴女たちは異母兄妹、なのですか」

「ええ。直人さんは、お父様が藤堂家の婿養子であることをご存じですか?」

「はい。確か藤堂家の一人娘であった先の奥様に見初められて、ご結婚なされたと」

「ええ。お父様と私の母は、それ以前からの付き合いだったのです。母は、銘酒屋の女でした」

「銘酒屋……私娼、ですか」

 吉原などの公に許された遊郭とは違い、飲み屋の看板に隠れた娼館。

「ええ。と言ってもとても気の弱い女でしたから、お父様が奥様に見初められたことをむしろ喜ぶような人でした。お父様が藤堂家に入ったお陰で、店から出て囲われることができたと。ですがもちろん、藤堂家の婿養子に妾が、それも私娼がいていい筈がありません。少なくとも先代はお許しにならなかったでしょう。藤堂家での立場を守るために、お父様は母と私を隠していたのです。母が兄様に追い出されても私が藤堂の家に残ることが出来たのは、私が真実お父様の娘だったからです」

 そのとき百合子は秋吉の顔を見て何かに気付いたように「あら」と声を上げた。

「本当に兄様は秋吉さんを信頼してらっしゃるのね」

「どういう意味ですか」

「兄様が母に何をしたか、お聞きになったのでしょう?」

 柔らかな微笑み。秋吉は瞠目した。母が出ていった理由を、百合子は知っている。その手段までも。秋吉は背中にうすら寒いものを感じた。

「兄様がしたことを知っていながら、異母兄妹だと知っていながら、私は兄様をお慕いしてきました。兄様だけを。しかし私ももうすぐ十六。お父様も縁談を探していることでしょう。そうなる前に、お父様に私との結婚を申し込んでください」

「僕と結婚しても、藤堂でないことに変わりはない。何故僕なんですか」

「秋吉さんは、私と同じだから」

「おなじ?」

「兄様のことがお好きでしょう?」

 動揺を隠せなかった。百合子は穏やかに微笑んでいた。

「言いましたでしょ。女の目は誤魔化せないと」

「い、いつから」

「貴方に初めてお会いしたときから。すぐにわかりました。私と同じ想いを秘めておられる方だと」

「気持ち悪いとは思いませんでしたか」

「思いません。私も同じですから」

「そんな男と結婚することも?」

「同じ想いを持った方だから、他の誰かに嫁ぐくらいなら貴方にと思いました。秋吉さんこそ、私を気持ち悪いとは思いませんか。実の兄と知っていながら、兄様を愛している私を」

「いいえ。しかし、なるほど。形だけの夫婦というわけですか」

「それは、秋吉さん次第です」

「僕次第?」

「形ばかりの夫婦でも、傷の舐め合いの為に一緒になるのでも構いません。どちらでも覚悟は出来ています」

「そう、ですね。僕も、親の選んだ何も知らない女性を妻にして不幸にするよりは、全てを承知してくれる貴女を娶った方が良いのかも知れない」

「ええ。そうして下さい」

 今から思えば、そのときの百合子の笑顔は、秋吉に刺されたときのそれに酷似していた。

「利用されるのは構わなかった。でも僕は、貴女となら共に生きていけるかもしれないと、思い始めていましたよ」

 秋吉は学生帽を被り直すと、墓地を後にした。その墓を訪れる者は、もう誰もいなかった。

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