表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

作者: 鶏もも肉

お題:キャンプ

その男、Fの「好きなもの」は少し変わっていた。人に言うと訝られるため、当たり障りのない趣味を答えることにしていたが、彼の「好き」の首位は幼少期より揺るがない。

 光るもの、熱いもの、温めるもの、照らすもの。文明の興りにあるもの、生命の終わりにあるもの。

 彼は火が好きだった。


 原体験は小学生の頃。近所に住んでいた大して仲良くもない同級生、N君の家が全焼の憂き目に遭う火事に襲われた時のことだ。

 普段嗅ぐことのない尋常ならざる規模の燃焼臭も、けたたましく鳴り響くサイレンや人々の声も、住まいを失った学友とその家族の安否すらが、夜空に噛みつくように燃え立つ大火の美しさの前では取るに足らない些事であった。

 現場から見ると風上に位置するF宅のベランダからは、N君宅を蹂躙する炎の様がよく見て取れた。

 赤色に、橙に、黄色に、白に、青に、紫に揺れるそれを時を忘れて見つめた。無粋な水のアーチがその芸術をかき消そうと幾本もかかり、Fは邪魔をしないでくれ、消さないでくれ、と強く願っている自分に気付いた。

 結局火事はFの願いも虚しく消し止められた。風の噂程度に、N君は無事と聞いた。彼自身に興味があるわけでもなかったので、学校でもあえて探すことはしなかった。N君がその後どうなったかは知らない。

 火は好きだが、誰かに死んでほしいわけではない。死があると火を愛でる心に水を差される。甚だ身勝手ではあったが、その精神性ゆえ、Fは今も大罪を犯さずまともと呼べる生活ができている。


 火が好きだった。

 制御できないものほど良い。コンロの火には魅力を感じない。コンロよりライター、ライターよりマッチ、マッチより……。

 火は制御されている。危険だからだ。子供でも知っている常識が、Fの前には常に立ちはだかっていた。

 日常簡単にお目にかかれるコンロやライターやマッチの火はFの心を満たしてくれない。映像は論外。ある種の映画やドラマなどの映像作品では火を使うだろうから、そういった仕事に就くか真剣に考えたこともあったが、才能も伝手もなかった。

 欲を言えば焚き火をしたい。しかし寒くもない日、頻繁に焚き火をしている住居があったらFでも通報するだろう。

 考えついた先がキャンプであった。

 火を熾すのが普通。火を見るのが普通。特段普通であることに固執したいわけではなかったが、火を見るのに邪魔が入ったり気が散るような他者の目線は回避したかった。

 普通がFの味方をする稀有な状況。不思議とこの着想に至るまでには長い時間がかかった。気が付いたのは人里から離れたキャンプ場まで、誰の手も借りずに行けるような足を手に入れた後のことだ。


 失った時間を悔いるよりも自由に火を扱える機会を手に入れた喜びが勝った。道具一式を揃える。ホームセンターで薪を購入した日、本当に久しぶりにFは楽しみの感情による「そわそわ」という感覚を味わった。

 誰にも邪魔されたくなかったので初キャンプも一人で行った。段取りもテントの設営もど素人であったため悪戦苦闘したことは記憶に新しい。

 メインイベントである焚き火に取り掛かる頃には日が暮れていたし、着火はするもののなかなか炎に育ってくれない。周囲の家族連れたちは談笑しながら肉や野菜を焼いて頬張っている……。

 何度か隣のキャンプ客に「ちょっと火を見せてくれませんか」と言いたくなったが、最寄りのキャンプ場を出禁にされるのは痛いのでやめた。

 どうにかこうにか火がつき、燃え上がる頃にはキャンプ場に到着してから3時間以上経過していたが、どうでもよかった。正直に言うとFはその時ちょっと泣いた。

 自分で熾した火の何と美しかったことか。尊敬と愛しさすら感じる燃焼現象。N君の家が燃えたあの日に見たものと比べれば小さく、制御された火であったがFの心は満たされた。

 テントの中、シュラフに包まれて寝る前には当然消火する必要があり、後ろ髪を10tトラックで引かれるような思いであったが、「またやろう」「また来よう」という決意にも似た思いを胸に、Fは愛しい火を消した。


 それからFは毎週末のようにキャンプに出かけた。テントの設営も火を熾す段取りも、それこそ他人に教えられるほどの場数を踏んだ。時にはキャンプ場ではない川原などでいわゆる野営を行うこともあり、副次的な物であるがアウトドアの知識がメキメキ身についている。

 充実している。そのことを疑う余地は彼の中には無かった。


 ある週末、Fはまたキャンプに向かった。馴染みのキャンプ場は勝手知ったるといった感じで、従業員にも顔を覚えられている。

 指定のスペースに陣取りテントを設営。火を熾す準備をする。日没と共に火が炎となる瞬間、自分が世界に光と熱を取り戻したかのような全能感を覚える。

 日没までには十分な時間があったため一息つくことにする。今ではこんな余裕もできた。

 隣のスペースでは、Fより先に車で乗り入れていた家族連れのキャンプ客が火熾しに悪戦苦闘していた。あまりに熾らないからか何だかピリピリとした空気まで流れてくる。子供が不満そうな声を上げ、火を熾せない父親が苛立った声で返す。母親がそれを咎め、また空気が悪くなる。

 よくある光景だが隣でやられると迷惑千万。ひとつため息をつく。

「よかったら手伝いましょうか?」

普段はこんな行動に出ないのだが、楽しみに水を差されるのも嫌だし、せっかく熾きようとしている火が無駄に消えてしまうのも見るに堪えなかった。

 一瞥、家族から怪訝な視線を向けられ早まったか、と思ったものの、Fが自分たちより後から来て既に設営を終えており場慣れした人間だと気付いていたのか、夕飯を食いっぱぐれるのは御免だと考えたのか、家族はFを受け入れた。

 Fが主に父親に火熾しのコツなんかを教える。父親から一歩下がったところで彼の息子がふんふんと頷いている。理解しているかはわからないが。

 程なくして火は熾きた。この火もまた美しかったが、これはFの火ではない。

 家族から夕飯を一緒にと誘われたが(実はこれがFが最も懸念していた事態だった)、どうにかこうにか棘が立たないように辞し、自分のスペースへと戻った。


 少し遅くなってしまったが自分のための火を熾す。自分だけのための火を。

 家族に教えていたこともあり、日の入りと共に……とはいかなくなったのが残念だ。キャンプ場の広大の敷地の中、また一つ光と熱の塊がぽつりと生まれる。

 食事を済ませる。酒は飲まない。酩酊した頭で眺める火もまた一興ではあるのだがそういう気分ではなかった。

 周囲のキャンプ客の歓談する声は遠い世界の音のように聞こえる。Fの世界には燃焼に起因する音だけがあり、燃焼に起因する光だけがあった。

 風がそよぐと火が揺れる。今日は比較的暖かいため難燃性のアウターウェアは脱いでいた。

 Fの目に映る火は刻一刻とその姿を変える。当然だが火は意思を持たない。だがFの目には火の動きがこの上もなく有機的で意思的で芸術的で……蠱惑的に映っていた。

 遠い世界から声が聞こえる。

「こら、危ないぞ」

 火の取り扱いを誤ったか火に近づきすぎた子供を嗜めるような声。ぼんやりとさっきの家族だろうかと思う。

 危ない。そう、こんなに美しい火も危ないのだ。その熱と煙とが一度牙を向けば人の全てを奪うことは容易い。危ないものだ。そのはずだ。

 ……不意に。

 火の危険性を再確認するFの理性の陰から、顔を出した、衝動に近い欲求のようなもの。

 触れてみたい。

 馬鹿な。欲求の前に再び理性が立ちはだかる。Fは欲求から目を背けようと火に薪を追加した。火はFの腕ほどの太さがある薪をその舌先で舐め、少しずつ焦がし、燃やしていく……。


 いつのまにか何時間かが経過していた。キャンプ場の他の客のほとんどが眠りについている時間となっている。火を眺めているといつもこうだ。

 自分もそろそろ火を消して眠ろう。消火の準備を、と立ち上がりながら目に入る火。Fの火。Fだけの火ーー

 欲求、衝動。それこそ制御など考える間もなく燃え上がり。


 Fはーーーー



 H少年はその日、生まれて初めてのキャンプに来ていた。父と母と三人で早起きをし、父の運転する車に乗り込み数時間走り、知らない土地へ来た。

 期待に胸を膨らませたH少年だったが、キャンプ場に到着した後がうまくなかった。

 任せておけと豪語した父がなかなか火を熾せない。火が無ければ最も楽しみにしていた食事にもありつけないし、野外で火を熾す特別感がなければただの遠足だ。

 こんな時くらいと親に言われてゲーム機を家に置いてきたのは間違いだった。間の悪いことにこのキャンプ場は電波状況も芳しくなく親のタブレットをインターネットに繋ぐことができない。

 焚き火で肉を焼いてるところを写真に撮って友達に送ろうと思っていたのに……。

 キャンプなんて来なければよかったとH少年が思い始めた頃。

 一人の青年が父親に声をかけた。どうも火熾しを手伝ってくれるらしい。

 青年の助言はH少年には難しく、やっと半分理解できる程度だったが、父親が青年に従い作業するとあれだけ頑固に、文字通り燻るばかりであった火が徐々に大きくなり、炎と呼べる大きさまで成長した。

 H少年にとって間近で焚き火を見るというのも初めての経験であったし、ようやく食事にありつけるのもあり、欣喜雀躍した。

 ようやくキャンプへのモチベーションが上がり、興奮気味にその夜を過ごした。

 焚き火で焼く肉や魚や野菜の写真を撮る。送信は帰ってからすることにしよう。いつも食べているものとは違う味がした。野菜を残しても今日の母親は普段より口うるさくなくて、毎日キャンプできたらいいのにと思った。

 パチパチと爆ぜる焚き火に興味を持って覗き込み、父親に叱られたりもしたが気にならなかった。

 充実した時間を過ごし、満たされた気持ちでシュラフへと潜り込む。シュラフで寝るのは実は初めてではなく、キャンプが楽しみで我慢できず自宅で一度体験していた。

 いつもよりたくさん食べ、たくさん遊んだからか、H少年はそのままストンと眠りに落ちた。


 そのH少年が目を覚ましたのは深夜。尿意ではない。

 外が騒がしい?

 寝ぼけた頭が、ここが自室ではなくキャンプ場の中のテントの中のシュラフの中だと思い出すまでに数秒を要し、テントの中に父母がいないことに気付くまでにさらに数秒を要した。

 這い出る。テントの出入り口となるファスナーは……開いていた。

 状況を飲み込めていないぼんやりとした頭のまま、自分のスニーカーを突っかけて外に出て、真っ先に目に飛び込んできたのは。

 炎が立っている。

 擬人法ではない。炎が、立っていた。炎の穂先は2mの高さを超え、二本の足で立っている。

 喧騒が耳を打つ。が、脳には届かない。目の前で起こっている『それ』以外の事物情報を処理する容量が、H少年の頭に残っていなかった。


 目が合った。


 勘違いかもしれない。それは1秒? 数秒? 数十秒? わからない。だがH少年の頭脳は立ち上がる炎と自分は視線を交わしたと、はっきりと認識していた。

 永遠と相似の一時が過ぎ去ると、炎はゆっくりとーー倒れた。

 魔法が解けるような感覚。それまで気付かなかったが炎の周囲には複数の大人たちが手に手にペットボトルやバケツを持って右往左往していた。

 直後、何事かを口にする母親に抱きすくめられたが、その理由がH少年にはよくわからなかった。

 彼の頭の中では先ほどまでの魔法の時間が、立ち上がる炎とその双眸が席巻し、H少年を感動させていた。動かされた情感が「怖い」「美しい」「悲しい」「嬉しい」……思い付く限りの中のいずれのものであったのか、H少年にはわからなかった。きっと誰にもわかりはしない。

 だが感動したのだ。間違いなく。H少年は人が燃える様に、感動した。


 それは一人の少年の原体験であった。今後の彼の人生、彼が関わる幾ばくかの人たちの人生にどういった影響を及ぼすかは知る由もないが、今日得た感動と嗜好とを彼は胸に隠すことだろう。

「火が好き」という少し変わった思いを。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ