なろうがアニメで受けない理由
なろう小説がイマイチアニメで受けない最大の理由は、これと言った見所があるわけじゃないからになる。良く料理のたとえがあるが、今回もそれが良いと思う。カレーやラーメンと言った様々な素材が混じって一つの形を成す料理じゃない。単品の料理をそれぞれまとめて朝食昼食などとして1つの食事として楽しむものだからになる。
楽しめない人の批判の特徴にこれが顕著に現れる。何を見ても的外れだと思うのは、何か決めてとなる1つの武器があるとして見て批判するからになる。ある一つの料理を見て徹底的に批判するが、そのすべてを楽しむ必要が無いとなろうの受け手は体感的に分かっている。ある意味正しいが、だからこそ正解に決してたどり着けないと分かってしまう。正しいからこそ自分の考えを曲げられないと経験的に分かってしまうから。
何か1つを批判しても、別の何かで楽しめている受け手には的外れも良い所になる。ざるで水を掬うような批判だと私は見ている。的確にピンポイントに批判したつもりが、そことは違う別の場所から水が漏れてしまう。これを延々と繰り返し、かつ複数の人が全く別の角度で批判をするが決まって1点しか批判し無いので、駄々漏れ状態になってあほらしくて見てられない。もっと言うならこういう視点になってしまう人になろう作品はむいて無いんだ。端的に言うなら、ごちゃごちゃ余計な事考えてみる人ほどなろう作品は向いてない。
さてこれは実はなろうを擁護する側にもある。別の人は他の一品を楽しんでるかもしれないのに、なろうはこうだと自分の好みの一品できめてしまうから、これもろくでもない擁護になる。批判もゴミなら擁護もゴミだと思ってる。だからこそ私が書いてるわけなのだが。
一つ一つはすでに誰かが出している。それをすべてどこかに引っかかると考えるとなろう小説の面白さが把握できる。1つは以前から触れてる時代劇になる。これとヒロイックファンタジーをまとめて、勧善懲悪の短いストーリーになりやすいと言うのがある。この違いはどこにあるか?と言うとこれがあるんだ。ヒロイックファンタジーも過去という時代性を帯びるが、時代劇はそれが顕著になる。
過去の世界を楽しみたい。これがなろうファンタジーには良く現れる面白さになる。広く英雄伝説、神話的、ヒロイックファンタジー的だとなるが、その中で特に時代性に着目すると一番近いのは時代劇となる。一番重要なポイントは古典的な勧善懲悪となり、その次に過去の世界観を楽しむと言うのが来る。
おそらくこれさえもきちんと分離されない。これは問題だ。勧善懲悪自体は現代劇でも出来るからで、実際ややリアリズムの甘さに目を瞑るならいくらでもあるだろう。完全に別の一品ではないが、似た部分がある別の一品であると言える。クリームシチューとビーフシチューぐらいの違いかと思われる。
後はヒロイックファンタジーをベースに、桃太郎もこれに似たものだと思う。なろう小説の根幹は古典的であると言う点。アニメで理解されない点で、面白い要素があるのに面白さとして感じられない。これを分かってない人が多いからになる。なろうはどこに面白さがあるのか?分からない。そりゃそうだ、面白さをきちんと作ってるのに、それが面白いと感じられない受け手の問題だから。
古典的勧善懲悪は、シンプルすぎてこれが面白さだと言うのが分かって無いんだ。こういったものはがらっと形を変える事で面白さを作ってきたが、そうじゃなくて、原型のまま細かい部分で発展していっても面白さになる。これがおそらくアニメでなろうに批判的な視聴者には分かってない。目先を全く変えてしまう物語を楽しむ事で面白さとしてなれた人間は、似たようなものでも、細部を変えて面白さとなると言ったことになれてない。
実際はこれその人達も分かろうとすれば分かる。例えばその人にとっての好みがそれに当たる。こういうタイプなら細部の変化で楽しめるとなる。あれこれなろうの読者も同じじゃない?そうなる。面白さはすでにあるのにそれが見えない。まるで青い鳥じゃないか?だと私もそう思う。なろうが理解されない最大の理由は青い鳥だからと見ている。
本当には知ってるのに、見えているのに、こんなものが面白さだなんて思っても見なかったって話だと見ている。これが以前から話している部分で、世界観を表現する設定によって全く別の刺激になるって話しで、時代劇と似てるが、似てない部分と書いた部分。
これだけじゃ一品がそれほど広がらない。分かりやすいので言えばハーレムもその1つだと思う。キャラ萌え、ラブコメ、恋愛だけで見るからなろうはつまらないとなりやすいが、そんなのは昼食の一品の品でしかない。かつどんについてきた味噌汁をたっぷり論じてる人を見たら滑稽だと思ってしまう。あった方が良いが、そんな熱くなって攻撃するような対象じゃない。
さてこれは広く受け入れられる部分で、以前話していた、アニメのコア層向けにゲーム的な要素が入れられたネオファンタジー、それがなろうの一番の創造的部分だと書いた。だがこれはアニメのコア層向けであって、なろうのコア層については語られてない。なろうファンタジーは、コア層とライト層の面白さが顕著に分かれる。
これが語られないから、紋切り型の水戸黄門などの例で、なろうファンタジーが単純化されて批判される話しか出てこない。
ただここからは擁護者に批判的に書く。これはコアな相手に向けての面白さの話しで、それが感じ取れない相手を芸術を理解できない鈍い相手のように扱ってはならない。根本は漫画物語の頭を使わない読者の慣れや好みによって生じるセンスで、そんな対したものじゃない。感性を磨く、理性を積み重ねる。文学や芸術のそういった知的な楽しみとは似てるようで似てない。
怠惰な人間がその怠惰なままで居ても持てる力で、それを感度のアンテナが高いように言うのはアホで、かつこういった馬鹿の上から目線が理解できない人達を不快にさせる。変態的で理解されない苦しさをなんとか理解してもらおうぐらい謙虚な姿勢が望ましい。
以前カクヨムに居る時気がついた事だけど、これはネット小説のファンタジーには共通性があると思ってよいと思う。ただ絶対じゃない、こういう作品が多いってだけで、程度によって顕著な作品だっただけとなる。どの作品か忘れてしまったが、まるでチュートリアルをやってるだけで、全くゲームが始まらない物語だと批判された作品があって、それはそうだろう、手前の面白さを面白いとして作られたものだからとなる。
それを私は、ゲームをする前の説明書を読んでる時間が一番楽しいと評した。ゲームの説明書に対して人間は、3パターンのタイプに分けられる。説明書を出来る限り読みたくないタイプ。多分これが一番多い。次により楽しむために必要だから読むタイプ。これもそれなりにいると思う。最後に説明書読む自体が好きなタイプ。
分かりやすく言ってしまえば所謂設定厨って多分このタイプだと思われる。人が嫌がることを楽しめるって点。これは変態的だといって良いだろう。これを感度のアンテナが良いとか自慢しちゃうの?が恥ずかしいと思う。すぐに自分は変わったタイプなのだがって前置きをするぐらいじゃないと、しかも個性というには大量に居て希少価値も無い。
これを上手くそうじゃなくて、説明する方法が無いのか?と私は考えているがそれは簡単じゃない。今回はそれが上手く行ったから書いたわけじゃない。それは多分理解されないからって擁護者への忠告として書いてる。世の中の大半は説明書自体を読むのが目的化しないから。
以前魔法科もこれに近いと思っていたが、広義には同じタイプだが、狭義ではあれは、銃の試し打ちに近いんじゃないか?と思ってる。銃のスペックの説明をされて、実際打ってみたいなってなると思う。魔法科ってのはそういったじらしの部分が間違いなくある。そこを勧善懲悪カタルシスだと勘違いされてると思う。
もちろん、私は一品が複数まとめて食べるセットがなろう小説だと書いたので間違いではないが、コア層はその楽しみ方じゃないと思う。銃の説明を受けて早く打ってみたいじらしこそが、お兄様のバトルだと見てる。そして銃に当たるのが、人間兵器として作者も作ってる司馬達也そのものになる。
お兄様が俺TUEEEなのはそんなに意味が無いと思う。ただの武器のスペックに過ぎないのだから。
他にもいろいろあると思うが、取りあえず大事なのは複合的であると言う点と、理解されないコア向けと面白さを面白さを感じ取れない人たちが読み取れるライト向けに別れていると言う点。この2つの説明で十分かと思う。