第1話 逃亡中
この物語は、ギリシャ神話を題材として扱っておりますが、作者の大いなる潤色のため、実際のエピソードとは異なる部分が多々あります。ご了承ください。
昔々、ギリシアのあるところに、ペルセウスという若者がおりました。
あるところと申しますのは、海沿いの薄暗い洞穴で、滅多に人の立ち入るような場所ではございませんでした。
というのも、ペルセウスはアルゴスという国の国王の孫として生まれたのですが、「いずれ、国王を殺すだろう」という不吉な預言のあったため、それを恐れた祖父である国王に命を狙われ、たった一人で、逃亡を続けていたのでした。
「ああこともなし、こともなし。僕はこうして、文字通りの崖っぷち生涯を終えることになるのだなあ」
そんなペルセウスを後々まで語り継がれる英雄へと仕立て上げたのが、知恵を司るアテナという女神でした。
世間では、ペルセウスを不憫に思った女神が、彼に栄誉をお与えになったのだと言われておりますが、実のところ、アテナという女神はそれほど生易しい神様ではなかったのです。
そこで、ペルセウスのお話を進めるためにも、まずはこのアテナ女神について、お話ししてまいりましょう。
アテナ女神は、最高神ゼウスの娘として生まれました。
彼女の母親はメティスという、それはそれは麗しい女神だったのですが、「メティスの生む男児が、父親を追放するだろう」という忌まわしい預言のために、それを恐れたゼウスによって彼の体内へと飲み込まれてしまいました。
ところがメティスは、すでにお腹に子を宿しており、その子はすくすくと成長して、ゼウスの頭を破って姿を現したのでした。それが、アテナというわけです。
「お前がもしも男子であったなら、にっくきダーリンめに仕返しができたというものを」
「ご案じなさいますな、母上。私がこの、にっくきダディーめの体内を抜け出した暁には、そのお腹を切り裂いて、母上をお助けいたしましょう」
「おお、さすがは我が娘。それでは私はお前のために、にっくきダーリンめの肋骨を一本くすねて、頑丈な鎧兜を拵えてやりましょう」
「かたじけない、母上。母上をお助けした暁には、にっくきダディーめのお腹に石ころをたーんと詰め込んで、地底の国へと沈めてやりましょう」
こうしてアテナは、光り輝く鎧兜を身につけて、最高神である父親の頭を破って生まれ出たのでしたが、ゼウスをはじめ、多くの神々が、新たな女神の誕生を快く受け容れてくれましたので、アテナは母との約束を忘れ、あるいは忘れたフリをして、ゼウス率いるオリュンポス神族の仲間入りをしたのでした。
「娘よ、よくぞ生まれ出てくれた。どういうわけか、お前は素晴らしい鎧を着ているな。だが、ゼロ歳のお誕生日のお祝いに、鍛冶の神であるヘファイストスに命じてもっと立派な鎧兜を拵えさせてやろう」
「ありがとう、ダディー。アテナ、一生ダディーのこと守るね」
ゼウスはこっそりと、女神の身につけていたものを飲み込み、もとの身体の組織へと返還しました。
この後、アテナ女神が父親を裏切り、反旗を翻したことは、たったの一度しかありませんでした。
もう少し、アテナ女神のお話を続けましょう。
アテナ誕生のおり、多くの神々が快くその誕生を受け容れたと申しましたが、実はそれには裏があって、率直に申しますと、居合わせた皆が、無言のうちに最高神の意向を汲んだのでありました。それはまさに、この世にはばかる「忖度」という現象そのものでございました。
アテナ誕生の後、ゼウスの妃ヘラは、その嫌悪感を増幅させておりました。ヘラは、メティス女神の後釜という立場ではありましたが、彼にとって一番の女神であるということをたいそう誇りに思っていたのです。
「あのアテナとかいうお邪魔虫、あいつが生まれてからというもの、ゼウスはあいつを可愛がってばかりじゃないか。ひとつ、裏山にでも呼び出して懲らしめてやろうか」
この独り言を立ち聞きしたアテナは、
「何よ、あいつ。後釜のくせして、生意気な。戦いを司る女神でもある私に、力で敵うとでも思ってるの?」
しかしそこは、知恵の女神。賢く頭をはたらかせます。
「でも、ここで私たちが争いでもしたら、ゼウスがなんて思うかしら。仮に私の勝利を認めてくれたとしても、私たちの間に亀裂が入るのはたしかよね。だとすればーー」
***
「お妃さま」
「わっ、何よ、いきなり」
アテナ女神の選んだ道は、ヘラにオリーブを届けることでした。
「家の庭に生ったもので」
「あ、どうも……」
オリーブは平和の象徴、そしてアテナは、知恵や戦いを司ると同時に、平和の女神でもあったのでした。
「アテナはお妃さまのお味方です。お妃さまのためならば、なんでもやっちゃいますよ」
この後、アテナはそのときの言葉通り、ヘラの指示に従ってゼウス打倒の兵を起こしました。これにはそれなりに多くの神々が賛同したものの、結局和解が成立し、ゼウスの主導権は維持されたのでありました。
なんでもやっちゃう、と誓ったアテナではありましたが、だんだんと自分をコキ使うヘラに対する恨みというものも沸いてきておりました。
「一度くらい、妃を出し抜いてやりたいものだわ」
アテナがそう考えていたところへ、ちょうどこんなことが起こりました。
ゼウスの浮気です。
浮気というより、ゼウスはれっきとした妻帯者なのですから、不倫と言ったほうが適当かもしれません。特に、結婚を司る女神ヘラの立場としては。
しかも、その相手というのが、人間の娘なのでした。
さらにさらに、その娘はゼウスの子供をはらみ、その子を人間として産み落としたのでありました。
「人間の分際で、よくもこの私に恥をかかせたわね」
そう言ってヘラは、預言の能力を持つ神アポロンのところへ押しかけ、ゼウスの不倫相手である娘に偽の預言を授けさせました。
「子供は、いずれ国王を殺すだろう」
そうです。この国王というのは、アルゴスの国王のこと。ゼウスの不倫相手はその娘。そして、娘から生まれてくる子供こそが、ペルセウスだったのでありました。
「ちょうどいいわ。こいつを英雄に仕立て上げて、妃の鼻を明かしてやろう」
さて、お話はようやく、ペルセウスに戻るのでありますが、今日はここまでとしておきましょう。
次回もお読みくださるあなたのもとに、心地よい眠りが訪れますよう、お祈りいたします。
いつか挿絵を入れようかなあ……。