ドイツ軍の防衛計画②
西方総軍は150万の将兵を指揮下に置いていました。
しかし陸軍のルントシュテット元帥が指揮出来るのは85万人の陸兵に限定され、海軍と空軍に対する指揮権はなかったのです。
現状を見かねたロンメルが三軍を指揮する統一司令部の設置を提案するも、ヒトラーに却下されます。
また陸軍の各師団は民族も練度も恐ろしいほどバラバラでした。
歩兵師団は全部で36個師団ですが、半数以上は移動手段を持たない、文字通りの歩兵で、支援用の自走砲すら欠いていました。
歩兵師団は負傷者が集められた師団や、老人兵や少年兵で構成された師団、ポーランド人、ロシア人、フランス人、イタリア人など強制的に徴集された外人部隊など、質という点では最低レベルの師団が大半を占めていたのです。
優秀な徴募兵はSSや降下猟兵、装甲師団に優先的に配置されたので、歩兵師団は優良な兵士を補充出来ません。
ドイツ第7軍は2割の兵士が、東部戦線で捕虜になったロシア兵やウクライナ兵で構成された東方兵でした。
反共、反スターリン感情で投降した彼ら東方兵が、英米相手に戦意がわくはずもなく、戦闘が始まると投降者や逃亡者が続出します。
このように各師団の質が劣化したのは、東部戦線での激しい損耗が原因です。
東部戦線で消耗した師団は、フランスで温存された師団と絶えず交代したので、フランスには傷だらけの損耗師団だけが残りました。
これらの師団の定員を埋め合わせるために、老人兵、少年兵、東方兵が大量動員されたのです。
一方装甲師団や降下猟兵は、練度も装備も欠いた歩兵師団に比べると、別次元の部隊でした。
ロンメルの副官バイエルライン中将が指揮する、装甲教導師団はアグレッサー部隊を集めた、精鋭中の精鋭師団です。
第2装甲師団はパンターやティーゲルなど最新鋭の戦車で占められた精鋭師団であり、師団長リュトヴィッツ中将はロンメルから深く信頼され、連合国との交渉権を与えられていました。
また国防軍だけでなく、武装親衛隊の装甲師団も東部戦線から次々と到着し、
第1SS装甲師団
第12SS装甲師団
第9SS装甲師団
第10SS装甲師団
第2SS装甲師団
有名な親衛隊の装甲師団がノルマンディーの海岸線にひしめいていました。
ゲーリング秘蔵の第2降下猟兵軍団も配置されます。
ノルマンディー地方全体を統括するのは第48軍団司令官エーリヒ・マルクス大将です。
マルクスは知性豊かな指揮官で、ww1で片目を、ww2で片足を失った百戦錬磨の猛将でした。
まさに質実剛健を旨とする、模範的なプロイセン軍人でした。
6月になると、ドイツ軍は数日中に連合軍が襲来すると予測し、色々な予測が飛び交いました。
ロンメルの海軍顧問ルーゲ提督は、この先天候は悪化するので、敵の攻撃は当面ないと請け負います。
ドイツの気象専門家は、連合軍と違って西太平洋に観測所がないので、正確な情報を測れなかったのです。
ルーゲ提督の予報は、致命的な遅れをもたらします。
ルーゲを深く信頼していたロンメルは、妻への誕生日を買うために司令部を離れて、パリにむかってしまいます。
くしくもエルアラメインの時も、ロンメルは敵襲の直前に司令部を離れていました。
第7軍司令官ドルマン上級大将も予報を信じ、6月6日に演習を行うと予告します。
フランスではDデイに呼応して、レジスタンスの活動が活発化、将校を狙ったテロ事件が多発しました。
また6月5日の夜、BBC放送で、レジスタンスへの暗号メッセージだと解析された文面が流れ、国防軍情報部は各部隊に警戒をよびかけます。
しかし各軍の対応は鈍く、西方総軍司令部が一般警報扱いで各軍に伝達するも、第15軍が第2種警戒態勢を敷いたのを除けば、これといった対応はありませんでした。
ロンメルの留守を預かるシュパイデル中将は、ルーゲ提督とラ・ロシュ=ギュイヨン城でパーティーを楽しんでいました。
彼が深夜1時に寝室にひきあげたその時、空挺部隊の侵攻を告げる第1報が飛び込んできたのです。