ドイツ軍の防衛計画①
英米軍の侵攻を防ぐため、ヒトラーはフランス~ノルウェーの大西洋沿岸部を要塞化する、「大西洋の壁」建設計画を強力に推進します。
大西洋の壁は連合軍を大西洋に叩き落とす要塞として内外に宣伝されますが、3000マイルの沿岸をカバーできるはずもなく、工事の進行率は最も工事が進行していたカレーでさえ80%、連合軍主力が上陸したノルマンディーに至ってはたったの20%程度です。
物理的現実として大西洋の壁は存在せず、その存在はナチのプロパガンダの中にしかなかったのが現実でした。
皮肉なことにマジノ線に頼って破滅したフランスと同じ末路をヒトラーはたどることになるのです。
当時フランスとベネルクス諸国を守備する西方総軍の司令官は、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥でした。
ルントシュテット元帥はドイツ国防軍最古参の将軍の一人で、独ソ戦では南方軍集団司令官を勤めました。
ルントシュテットはヒトラーの防衛計画に真っ向から反対し、大西洋の壁は安手のはったりとみなし、ノルウェーとイタリアを放棄して、防衛線を縮小する計画を提案しました。
しかしヒトラーは占領地の放棄を絶対に認めません。
大西洋沿岸部の港湾都市を、最後の一兵まで死守すべき「要塞都市」としたのです。
ヒトラーには戦線を縮小して防衛線を立て直すという思想が全く理解出来ず、東部戦線でも無意味な死守命令を乱発し、機動防御で知られる名将マンシュタイン元帥も更迭してしまう始末でした。
特定地域になにがなんでもしがみつく融通のきかない戦略は、ドイツ軍の強みである柔軟性を硬直化させ、その兵力を無用に消耗させました。
戦後ルントシュテットをはじめとする多くの軍人達が、ヒトラーの死守命令を最大の敗因の一つとしてあげています。
1943年11月、ヒトラーはエルヴィン・ロンメル元帥をB軍集団に任命、大西洋沿岸部の防御体制の改善を命じました。
ここで生じたのが指揮系統の混乱です。
北フランスの諸軍がB軍集団司令部に統率されるのか、それとも西方総軍司令部に統率されるのか不明だったからです。
そこでロンメルとルントシュテットは協議の末、海峡沿岸の最も重要な扇形部分の防衛はロンメルが指揮するB軍集団が受け持ち、ロワール河からアルプスまでをG軍集団が担当、ルントシュテットの西方総軍司令部は、上級司令部として両集団を統率することを決めました。
結果カレーを守備する第15軍とノルマンディーを守備する第7軍が、ロンメルの指揮下に置かれます。
ロンメルはセーヌ河が大きく湾曲するラ・ロシュ=ギュイヨン城に司令部を置きます。
城の持ち主ロシェフーコー公爵とその一族は城の上階で生活し、ロンメル自身は客間を執務室にしました。
ロンメルは午前5時には起床し、毎日部隊や要塞地帯を精力的に視察し、幕僚との会議は視察から戻った夜に実施されました。
彼はとにかくフィールドワークを好み、ほとんどの時間を視察で費やしています。
ロンメルの余りに熱心な視察は、B軍集団司令部の幕僚も困惑し、訓練の時間がとれないと不満をこぼしていました。
ロンメルは視察のかいあって、連合軍の上陸はノルマンディーだと確信を深めつつありました。
アメリカ軍がオマハ・ビーチと後に名づけた湾曲する海岸線が、連合軍が上陸したイタリアのサレルノに似ていると考えたのです。
以後、ロンメルはノルマンディーの部隊に頻繁に視察に赴きます。
最初の二日間で勝負が決まると確信したロンメルは、防衛体制の強化に全力を注ぎました。
コンクリートの掩蔽壕に、戦車砲が搭載された海岸砲台が設置され、これらの砲台は「トブルク」と名付けられます。
トブルクとはリビアの港湾都市で、ロンメルがイギリス軍相手に激戦を繰り広げた場所です。
また降下猟兵をアドバイザーにむかえ、敵の強襲着陸する可能性が高い地点に、侵入を防ぐ障害物を設置します。
大きな柱で出来た障害物は森のように立ち並び、「ロンメルのアスパラガス」というあだ名がつきます。
地雷原の数も劇的に増加され、要塞化が遅れていたノルマンディー一帯は、流血ポンプと化し、上陸した連合軍を大いに苦しめることになります。
一方でロンメルの改革は全てが上手くいったわけではありませんでした。
ロンメルは陸海空で指揮系統が異なる現状を改善するため、三軍を統率する統一司令部を設けるべきだとヒトラーに進言します。
しかし海軍のデーニッツ元帥や空軍のゲーリング元帥の激しい反発もあり、ヒトラーはロンメルの進言を却下しました。
とくにゲーリングの対応はセクショナリズムの極みであり、彼は空軍の機体保護を名目に、陸軍への対空高射砲の融通を拒否します。
また機甲部隊の運用をめぐっても激しい論争が生じました。
上陸する敵軍を波打ち際で叩くべしと主張するロンメルにたいし、真っ向から反対したのが西方装甲集団司令官ガイヤ装甲兵大将と装甲兵総監グデーリアン上級大将でした。
彼らは機甲部隊を後方に配置し、一度上陸した敵を一気に追い落とす作戦を主張したのです。
北アフリカで連合軍と戦ったロンメルは、機甲部隊を後方に温存し、しかる後に一気に反撃するなどという戦法は、連合軍の制空下では不可能だと知っていました。
結局ヒトラーの仲介で、どっちつかずの折衷案が採用され、6個機甲師団中3個師団がロンメルに与えられ、残り3個師団はヒトラーの承認なしでは動かせないことが決まります。
ロンメルも指揮権を確立できたわけではなく、あくまでヒトラーの了承を得た上での行動を許されたに過ぎませんでした。
万全の準備を整えた連合軍に対し、ドイツ軍の防御体制はハード面でもソフト面でも大きな課題を残すことになるのです。