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 春の小川はさらさらと流れ、土手にはタンポポや菜の花やスミレやシロツメクサなどの小さな花がいくつも咲いている。対岸の葉桜の緑は目にやさしく、見上げる空は晴れているが白く霞がかっていた。お狐様はまるで本当の犬のように土の匂いを嗅ぎ、時々、前足で地面を掻いている。


 のどかな春の景色と柴犬の白い巻尾はとてもよく似合う。

 

「ねえ、ユキトさん」

 お狐様が唐突に話しかけてきた。

 ユキトは慌てて辺りを見回し、人がいないことを確認する。

「なんですか」

「このちっちゃいお花、かわいいね」

 お狐様は小さい黄色い花を鼻先をつついている。

「それはカタバミというんです」

「カタバミかあ。あんまりかわいい名前じゃないね」

 カタバミは繁殖力が強く、ガーデニングの大敵なのだが、お狐様は不満そうだ。


「そんなこと言われても……どんな名前がいいんですか」

「えー、そうだなあ、黄色が萌えるでモエギは?」

「それ、色の名前ですよ」

「そうなの?じゃ、春が萌えるでハルモエとかどう?」

「悪くないですが、そういう名前の多肉植物あった気がします」

「先を越されちゃった」

 お狐様は残念そうに呟く。 


「じゃあここに来る途中にあるあのかわいい花の木はなんていうの?」

「白とピンクの花の木ですか?ハナミズキです」

 お狐様は尻尾を振った。

「いいね!これからわたしのことハナミズキって呼んでよ。ミズキでもいいよ」

「……お狐様はお狐様です」

「頭かたーい」

 心なしか、柴犬お狐様の、指が埋まりそうな頬の白い部分がより膨らんだように見えた。


 ユキトがお狐様のために選んだリードは長くのびるタイプであるため、お狐様はある程度はユキトから離れても自由に動ける。お狐様は今日も虫や花の探索に忙しそうだ。


(お狐様は神狐に性別なんかないというけれど……)


 今、目の前にいる柴犬は、どこからどうみても雌だ。


(白狐のときも女の子っぽいよな。いつも毛づくろいしてるし)


 ユキトはお狐様が男であろうが女であろうがもふもふの尻尾に触らせてもらえるだけで充分だ。

 桜の木の下に設置された木のベンチに座り、ユキトはスマホを取り出した。小説を読むためではなく、外を満喫しているお狐様の写真を撮るためだ。ユキトがお狐様の写真を撮る機会は柴犬の姿の時しかない。


 お狐様のもふもふの二本の尻尾や立った耳や桃色の肉球や品のあるかわいらしい顔は、ユキトのカメラを向けたいという欲望を刺激してやまないが、お狐様はなぜか白狐の姿の時は写真に写らない。元は実体のない神の使いなので当然のことともいえるが、何度、なにも写さない画面を見てがっかりしたことか。

 

「ユキトさん、ユキトさん、ちょっと見て見て」

 こっそり巻尾のアップを撮ろうとしていたユキトは、急に振り返ったお狐様の明るい声にびくっと肩を揺らした。

「今度は何ですか」

 動揺を隠すため、返答が少しぶっきらぼうになってしまう。


「蝶がいるよ。ユキトさんは白と黄色とどっちの蝶々が好き?」

「どちらかというと、白の方が」

「わたしも白の方が好き。気が合うね」

「それじゃ、俺は黄色にします」

「なんでよ」


 お狐様は睨んでいるつもりなのかもしれないが、ユキトの目にはラブリーなもふもふの柴犬が自分を見上げて「頭を撫でて」と訴えているようにしか見えない。


 ユキトが笑うと、お狐様は気を悪くしたのか、その後ユキトが話しかけても返事をせず、風の匂いを確かめるように鼻を鳴らしたり前足で顔を掻いたり水を飛ばすときのようにブルブルッと全身を震わせたりして、本物の犬のように振舞っていた。



 長い散歩から帰ると、柴犬お狐様は舌を出しながら荒い呼吸をしていた。演技のはずなのだがとても演技には見えない。濡れタオルで足を拭き、ユキトが用意した水を飲み、しばらく柴犬の姿のままペットボトルの蓋を噛んで遊んだあと、元の白狐に戻る頃には、お狐様の機嫌はすっかり良くなっていた。すぐに怒るけれどもあとには引きずらないところは、お狐様の数ある長所のうちのひとつだ。


 また縁側で毛づくろいを始めたお狐様を横目で見ながら、ユキトは再び座敷に寝転がってスマホを操作し、小説の続きを読み始めた。爽やかな春風が頬を撫でていく。葉擦れの音がした。家のすぐ裏手の竹林がたてる音だ。合間に、どこかで小鳥が鳴く声がする。


 お狐様と過ごす時間は穏やかで、満ち足りていて、贅沢だ。


 なぜか早々に毛づくろいを終えたお狐様は、ユキトの傍までやってきて、ユキトの腹部に顎を乗せた。輝くような純白の毛皮の背中を撫でると、てのひらにお狐様のぬくもりが伝わってきた。お狐様はうっとりした顔で目を閉じている。


「ねえユキトさん、寂しい?」

 お狐様が唐突に聞いてきた。

「寂しくないですよ」

「なんで?」

「今はお狐様がいますから」

 お狐様はユキトの腹を枕にしてごろんと横になった。

 ユキトが胸のあたりのふさふさもこもこした毛をかき分けるように撫でると、もっと、と言いたげに前足でちょいちょいとユキトの腕を掻く。

 

「お狐様は神様のところに帰らなくていいんですか」

 お狐様に求められるままにもふもふの毛皮を撫でながらユキトは聞いた。

「うん。他にも使いいっぱいいるし。わたしがいなくても仕事回るし」

「仕事ってなんですか」

「穀物を実らせたり、雨を降らせたり。忙しいんだよ、神様って。森羅万象を司るっていうでしょ」

「休む暇ないですね」

「そんなことないよ。八百万(やおよろず)の神がいて、その下にお仕えする神使がいるわけだから」


 ユキトはたくさんの神様と、その下で働く狐や亀や鶴や虎といったさまざまな姿の神使たちが、それぞれの天現力を駆使して自然界を操るさまを思い描く。その光景はとてもファンタジックで、賑やかで楽しそうだった。まるで漫画の世界だな、と考えたユキトがくすりと笑いを漏らすと、お狐様は不思議そうになにも面白いことはいってないよと呟いた。


「狐って祟ったり人を騙すって聞きますけど、そんなことする時間もないんじゃないですか」

「低級の野狐ならともかく神狐がそんなことするわけないでしょ」

 お狐様はそんなことも知らないのと言いたげな目線をユキトに向け、朗らかに笑う。ユキトが苦笑すると、お狐様は急にいたずら好きの子どものような表情で起き上がった。


「ねえねえユキトさん」

「はい」

「ユキトさんは彼女とかいたことないの?」

 神狐とはとても思えない俗っぽい質問にユキトは苦笑する。


「……ないですね」

「えー、なんで?かわいい顔してるのに。地味だけど」

「性格が悪いからじゃないですか」

「悪くないよ。だってユキトさんやさしいし」

「……褒めてもなにもでません」

 ユキトはスマホを脇に置き、起き上がった。気持ちを落ち着けるために眼鏡に触れると、お狐様は尻尾を振った。


「めがねかけてる人が好きな女子も多いらしいよ。めがねもえーっていうんだって」

「どこでそんな言葉覚えたんですか」

 あきれるユキトに、お狐様はこの間ユキトさんが仕事に行っている間にテレビで見たよ、と嬉しそうに話す。お狐様に無駄な知識を植えつけた放送局どこだ出て来い、とユキトは思った。


「ねえユキトさん、わたしね、ユキトさんのこと大好きだよ」

 ねえわたしおにぎり大好きだよ、というような軽い口調でお狐様がいった。

「……嫌われるようなことをした記憶もありませんけどね」

 ユキトは内心の動揺を押し隠し、お狐様から目を逸らした。


「照れ屋さんだなあ」

 再びスマホを手に取って操作しだしたユキトを見て、お狐様がくすくす笑う。

「照れてません。読書の邪魔なのであっち行ってください」

「ユキトさん冷たい。ねえ、ユキトさん、わたしがもし人化できるようになったらわたしと結婚してくれる?」

 ユキトはスマホを取り落としそうになった。

「……嫌です」

「えええ。なんで?わたし、人化したら超絶かわいいよ?」


 お狐様が無邪気に笑う。その自信はなんなのだろうと考えながら、ユキトが冷めた視線を向けると、お狐様は嬉しそうに二本の尻尾を振った。


「事実だから。結婚してくれないの?」

「……はい。お狐様といるとしなくていい苦労をしそうなので」

「そんなことないし」

 お狐様は笑いながら否定した。


「知ってる?神狐はね、真名を人間に教えると人間になれるんだよ。人間になっちゃったら神狐には戻れないけど」

「……。努力を放棄しないで自分で頑張ってください」


 ユキトがスマホに視線を戻すと、お狐様はゆっくり立ち上がり、まるでダンスを踊っているかのように優雅に方向転換して縁側に戻っていった。

 

「ねえ、ユキトさん、こっちで一緒にお昼寝しよ。ぽかぽかして気持ちいいよ」

 お狐様は口で座布団を引っ張って完全に光が当たるようにし、ゆっくりとその上に横になった。

「俺はこの小説の続きを読むので」

 お狐様はしばらくユキトさん冷たい、とぶつくさ文句を言っていたが、やがてすうすうと寝息を立て始めた。


 ユキトは身体を起こし、お狐様の傍に寄った。お狐様の平和な寝顔をしばし眺め、柔らかな毛に覆われた頭を軽く撫でた。ついでに左の尻尾もそっと撫でる。右の尻尾はお狐様の弱点らしいので触ることを許されていない。尻尾はやはりふかふかもふもふでほのかに温かく、一瞬でユキトの中に幸福感が満ちた。


(お狐様、俺もお狐様のことが大好きだよ。……だから長生きして)


 

 伝えられない言葉を心の中で呟く。




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