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この物語はフィクションです。
お狐様の設定、作中に出てくる用語等は創作ですのであらかじめご了承ください。
今日も、お狐様の二本の尻尾はもふもふだ。
開け放した窓から入る春風をいっぱいはらんだ尻尾は、干したての布団のようにふかふかしている。
全身を覆う純白の毛の一本一本が太陽の光に透けてきらきらと輝いている。
神々しいほど美しいけれど、後ろ足で首をがりがりかく仕草はどこか犬に似ている。
お狐様の頭頂部の毛だけは他のところと違う。
短い柔らかい毛が密集し、ふわふわでとても触り心地がいい。
お狐様は頭よりも首の下や、おなかをもしゃもしゃ撫でられるのが好きだというけれど。
大きな耳はぴんと立ち、明るく澄んだ赤い目と黒い丸い鼻と意外に小さい口が絶妙なバランスで配置されている。
といっても今、千田千人――ユキトのいる場所からはお狐様の後頭部しか見えない。
お狐様は縁側に座り、のんびり毛づくろいをしている。
身体は座布団の上に収まりきらず、二本の尻尾は完全に板の間にはみ出してしまっているが、お狐様はそれを気にしている様子はない。
お狐様の尻尾はたまに別の意思を持っているかのように動く。
日向ぼっこのおかげか、尻尾は一段と膨らんでもふもふだ。
あのもふもふに顔を埋めたらきっと温かくてふかふかで気持ちがいいだろう。
洗い物を終えたユキトは特にお狐様には声をかけずに座敷に寝転がり、持っていたスマホを操作した。就職したばかりで金はなく遠出する車もなく、運転してくれる彼女も、もちろん彼氏もいないユキトの唯一の趣味はネットで公開されている小説を読むことだ。いくつかの操作でブラウザを開き、ブックマークした小説の続きを読み始めようとすると、お狐様がふいに動く気配がした。
「ユキトさん、ユキトさん、ちょっと見て見て」
お狐様が尻尾をまるで手のように使ってユキトを呼び寄せようとしている。
お狐様は一見ぼうっとして見えるが、意外なことに神様の使いなので人語が使える。大好きなテレビを見ながらテロップの表示を見て笑うところを見ると、文字も読めるようだ。漢字はところどころ怪しいところがあるようだが、ひらがなとカタカナに関しては完璧だった。お狐様の好きなテレビ番組はお笑いだ。スタッフが美味しくいただきましたというフレーズが大好き、と意味不明なことを言う。
「なにかありましたか」
ユキトは身体を起こし、眼鏡の位置を直しながらお狐様に聞いた。
「テントウムシが飛んできたよ。ユキトさん、テントウムシ好きでしょ」
行儀よく座布団の上に座ったお狐様は、前足で床の一部を指差す。……指差すという表現はおかしいか。ユキトはスマホをその場に置き、お狐様の傍に寄った。手元を覗き込み、そこにいた赤に黒の水玉模様のある昆虫を見てユキトは眉をひそめた。
「……ナナホシじゃない」
「でた、ユキトさんのテントウムシダマシ偏見」
「そういうわけではありません」
そういうわけではないが、ナナホシテントウ以外のテントウムシはそんなに好きではない。ユキトは読書に戻ろうと立ち上がりかけ、ふとさっき洗い物の前にお狐様に聞こうと思っていたことを思い出した。
「ところでお狐様、俺があとで食べようと思っていた梅おにぎり、俺がトイレに行っている間に食べたでしょう」
「だめだった?」
お狐様は無邪気に言って首を傾げ、左の尻尾をユキトの腕に伸ばしてきた。ふわふわした感触をくすぐったく感じたが、ユキトはそのまま言葉を続けた。
「いいですけど、食べる前に聞いてください」
お狐様は照れたように笑って話を変える。
「ユキトさん、おにぎりあたためますかって言ってみて」
「なんで俺が」
「わたしもコンビニに入ってみたいなあ」
お狐様がこのままの姿でコンビニに入ったら、まず間違いなく追い出されるだろう。追い出されるだけならいいが、お狐様は大型犬並みに身体が大きいから警察に通報されるかもしれない。けれどもお狐様はどうやらこのままの姿ではユキト以外の人間には見えないようなので、そこまで心配する必要はないのだが。
「……入ればいいと思いますが」
「もし人間に化けて遊んでいる仲間がいたら見られちゃうもん」
さすが神様の使いなだけあって、変なところでプライドが高い。ユキトが微妙な表情になったことに気がついたのか、お狐様はその場に寝そべった。伸ばした前足の間に顎を置く。やはりどこか犬っぽい。
「つまらないね、人界というところは。狐が入れないところが多すぎる。本当は遊園地にも行ってみたいのに」
「山にいるより面白いっていつも言っているでしょう。だいたい、なぜ人語を解するのに人間に変化できないんですか」
何度も言うがお狐様はこれでも神様の使いなので狐以外のものになれる。自分よりも小さい生き物、昆虫や小動物ならなんにでもなれるようだが、一番得意なものは犬だ。外に散歩に出るときはいつも柴犬の姿になる。どういうシステムなのかはわからないが、柴犬のお狐様はユキト以外の人間にも見えているようで、散歩をしているとよくかわいいワンちゃんですねと声をかけられる。
もちろん、柴犬のお狐様ももふもふしていて、とてもかわいい。
「決まってるでしょ、わたしがまだ若いからだよ。尻尾も二本しかないでしょ」
お狐様はなぜか偉そうに言い、二本の尻尾をパタパタ振った。お狐様の話によると、尻尾の数はお狐様の年齢を表しているらしい。同じ神様に仕えている、お狐様よりも上位の狐のなかには九尾や七尾の狐がごろごろいるそうだ。
狐もそのレベルになると、雨を降らせたり風を起こしたり空を飛んだりできるのだという。お狐様は『天現力』が高い、低いという表現をする。天現力が高くなると、食事をしなくても、尻尾を広げて太陽光に当てるだけで妖力や生命エネルギーを生成できるそうだ。余談だが、お狐様のように神様に仕える狐を神狐、それ以外の尻尾が分かれている狐を妖狐というらしい。
……どこまでが本当なのかを確かめる術はユキトにはない。
「この間ネットで見た情報によると、狐は尻尾が分離した時点ですでに人間に変化できるとありましたけどね」
「何事にも異例、はつきものだということじゃない?」
「……お狐様に関しては異例が多すぎるような気がします」
ユキトは立ち上がり、座敷に戻ってスマホを取った。寝転んで読書を始めると、お狐様はしばらくごそごそと毛づくろいを続けていたが、やがて満足したのか、ユキトの傍にやってきた。
二尾の白狐が歩くさまはしなやかで優雅でいつ見ても溜息がでるほど美しい。
「ねえ、ユキトさん」
お狐様はユキトの顔とスマホの間に鼻先を割り込ませてきた。
「……なんですか」
「散歩に行こうよ。ユキトさんの好きなナナホシテントウになるから肩に止まらせて」
言いながら、尻尾をユキトの腕に乗せてくる。腕の上でさわさわと尻尾を動かされ、ユキトは苦笑した。お狐様は、ユキトがお狐様のもふもふ攻撃を食らうということを聞かざるを得ない精神状態になるということをよく理解している。
「……いつもの柴犬でいいですよ」
せめてもの抵抗に、テントウムシになる案は却下した。
「首輪が窮屈なんだもん」
お狐様は不満そうな声を上げたが、次の瞬間、くるりと宙で一回転して柴犬の姿になった。すっきりとした柴犬らしい顔、くるくる動く黒い目、背の茶色の毛と胸の白い毛、そして靴下を履いたような足の先の白い毛、どこをとってもやはりかわいい。
「我慢してください」
ユキトはにやついているのを悟られないようにお狐様に背を向け、首輪とリードを取るため玄関に向かった。
あと2話で完結します。