傘のお礼
「お父さん、姉ちゃんがおこわ炊いてくれたよ。傘のお礼だって」
茶の間のテーブルに朝食を並べる拓馬は、傍に近寄った尚照に教えた。
「……傘のお礼?」
「ほら、この前の金曜日会社の人に傘借りてきたじゃん。もう忘れたの?」
忘れるはずもないのだが、息子の発言に思わず面喰ってしまった。
わざわざ娘が傘の礼としておこわを炊いたのだと言うのだから、尚照が動揺するのも仕方がないことだった。
「姉ちゃんのおこわ、会社の人に大人気じゃん。皆で食べれるようにって、いっぱい作ってくれたんだよ」
「お父さん、おこわでよかった?」
ちょうど台所から茶の間に戻った春乃も、尚照に確認する。
すでに娘の手には大きな重箱が握られていた。
「おこわ……か」
困ったことになったと、尚照は内心ひどく戸惑い始めた。
友人と飲みに行った先週の金曜日、帰りに偶然会った会社の人に傘を借りたと事情を説明したものだから、子供達は尚照の職場の人間だと勘違いしてしまったらしい。
同じ会社で働いてるとは言っても、傘を借りた相手は自分とは縁もゆかりもないエリートサラリーマンだ。
「おこわ、だめだった?」
「いや……大丈夫だ。みんな喜ぶよ。朝からすまんな」
「ううん、傘のお礼ちゃんと伝えてね」
わざわざ早起きしておこわを作ってくれた娘に結局本当の事情は言えずじまいに終わり、そのまま重箱を受け取った。
「こっちはお父さんの分ね」
父親の昼食分のおこわも小さな箱に詰め、別に用意してくれたらしい。
3人揃って朝食を食べ始めながらテーブルの端に置かれた重箱を横目で見つめた尚照は、どうしたものかと1人頭を悩ませた。
先週借りた傘を返すため週末開けの今日会社に持っていくつもりだったが、傘の礼のことはあえて考えていなかった。
子供達の勘違い通り本当に職場の同僚に借りたのならば、春乃が作ってくれたおこわは喜んでもらえるだろう。
しかし実際に傘を借りた相手はあの彼だ。
自分が用意した礼など逆に迷惑だろうと考えれば、借りた傘を感謝の言葉と共に返すだけの方が相手にとって負担にならないだろう。
卑屈になるつもりはないが自分は所詮ただの清掃員で、彼からしてみればしがない中年親父だ。
彼が喜ぶ礼などそもそも自分が用意できるはずもない。
傘の相手を勘違いした娘は喜んでくれるだろうと礼を準備してしまった。
せっかく娘が作ってくれたおこわだが、父親が情けないばかりに彼には渡せそうにもない。
朝の出勤時に自分のロッカーに入れておいた傘を確認し、再び壁の時計を見上げた。
おそらく彼の昼休憩にあたる正午は、すでに5分ほど過ぎている。
返せる機会を逃すわけにはいかず、そのまま傘を取り出した。
ロッカーを閉めたついでに、ロッカーの上に置いておいた重箱を視界に入れてしまった。
しばしそのまま見つめると、大小2つの重箱を両手で取り上げる。
1つは休憩室のテーブルに置いて、足早にその場を後にした。
尚照が日勤清掃員として働いている会社は首都よりずれた場所にあるが、全国では支店をいくつも抱える名の知れた大手企業である。
中心市街地に構える本社オフィスビルは全10階、大勢の社員がここで働いている。
7階にある研究開発課まで辿り着くとドア前に佇み、さりげなく中の様子を伺った。
ちょうど昼休憩のせいか別の場所にいるのかは知らないが、広いオフィスにはごく僅かな社員しかおらず、今だデスクに向かっている。
どうやらその中に彼の姿はないらしい。
せっかくここまで来たが仕方ないと諦め、とりあえず一旦引き上げようとドアから離れた。
偶然にも探していた彼が、廊下の先からこっちに向かって歩いてきた。
同僚と共にいる彼はオフィスドアの前で所在なく佇んでいた尚照に気付くと、目の前で立ち止まった。
「こんにちは」
「こんにちは…………ええと、今少しいいでしょうか」
会釈と共に挨拶され慌てて頭を下げると、少しばかり時間をもらえないかと尋ねた。
「大丈夫です。槙、先に行っててくれ」
快く了承してくれた彼は共にいた同僚に一度声を掛けると、再び尚照と向かい合った。
おそらくこれから昼食だろう彼を足止めしてしまったことに申し訳なく思いつつ、借りた傘を差し出した。
「この間は本当にありがとうございました。この傘も、最後まで助けられました」
尚照が感謝の言葉と共に傘を差しだすと、彼もすぐに受け取った。
「お役に立てて良かったです。それよりも、わざわざここまで返しに来ていただき申し訳ありません」
彼は逆に手間をかけさせたと、丁寧な口調で尚照に謝った。
「いや、とんでもないです。私の方こそ休憩時間にこんな所までずうずうしく押しかけてしまって……」
「気にしないでください。時間は十分余裕があります」
「それならいいんですが…………………あの、もし良ければこれを」
尚照がおずおずと彼に差し出したのは、ハンカチに包まれた小さな重箱だった。
今朝、娘が尚照の昼食分に用意してくれたものだ。
「うちの娘が作ったものなんですが、中身はおこわです。もし嫌いでなければ食べていただけないでしょうか」
娘の思いを無にできず結局迷惑を承知で差し出してしまったが、果たして受け取ってもらえるだろうか。
後は彼の反応を待つばかりだ。
「わざわざ自分の為にすみません。それじゃあ遠慮なくご馳走になります」
彼は迷いを浮かべることなく、尚照から重箱を受け取った。
結局大きい重箱に詰められたおこわはその日の休憩時間、同じく日勤で働く同僚達と共に食べた。
娘が作る山菜おこわは同僚達の間では美味しいと評判で、機会があるごとに大量に用意し職場に持たせてくれる。
さすがに大きい重箱は大袈裟過ぎるので、自分の昼食分を傘の礼として渡してしまった。
気持ち良く受け取ってくれた彼に再び感謝の思いと、そして彼の人としての優しさを改めて大きく実感させられた。
その日の清掃業務を終え休憩室に戻ると、テーブルの上には彼に渡した小さな重箱が置いてあり、それと一緒に手紙も添えられていた。
つい先程わざわざ重箱を返しにここまで来てくれた彼が、ちょうど休憩室にいた尚照の同僚に預けたらしい。
彼の手紙にはおこわのお礼と共に、今日の昼食に美味しく頂いたとのことが丁寧に綴られており、娘への感謝の言葉まで添えられていた。
尚照はわざわざ彼が手紙まで残してくれた驚きと共に、どうしてもこの手紙を娘にも読ませてあげたかった。
その日家に帰ると、子供達に傘を借りた本当の相手を正直に告白し、改めて家族3人揃い彼からの手紙を読んだ。
本当の事情を父親から聞かされ自分の勘違いに驚いた娘は、手紙を見つめ照れくさそうに笑った。