誤解
「じゃあ小田さん、今日も春乃さんをお借りします」
春乃が靴を履き終えると、玄関に立つ加我谷が向かい合う尚照に確認した。
尚照も頷くと、隣に並ぶ拓馬がおかしそうに笑った。
「律儀だなぁ加我谷さんは。毎回お父さんの許可求めるんだから」
「拓馬、あんた今日修行は? まさかもう……」
「サボりじゃないよ、今日は午後から」
明子さんの心GETのため毎週休日整備の修行に励んでいた拓馬だが、朝を過ぎてものんびりしている姿に春乃が疑うと、すぐに否定される。
「明子さんがね、最近俺が頑張ってるから特別ご褒美だって。もちろん社長も了承済み」
どうやら拓馬の頑張る姿をちゃんと見ていてくれたらしい明子さんと、晴れてデートに漕ぎつけたらしい。
拓馬もとても嬉しそうだ。
黙って話を聞いていた尚照が、向かいに立つ加我谷に再び視線を向けた。
「加我谷君、娘をお願いします」
笑って頼んだ尚照の言葉に、加我谷も同じく笑顔を浮かべしっかりと頷いた。
「もう、2人とも大袈裟なんだから……」
父と加我谷のやりとりを間で見ていた春乃は呆れたように呟いた。
玄関を出て行く2人の姿を、尚照と拓馬はそのまま見送った。
「春乃さん、乗って下さい………………あれ?」
小田家前の道路に横付けしておいた車に春乃を促した加我谷は、不意に気付いたように視線を遠くへそらした。
「ちょっと待ってて下さい……」
明らかに目を細め不審な表情を浮かべると、そのまま春乃を車の前に残しソロソロと動き始める。
加我谷が静かに向かったのは50メートル程先に止まっていた1台の車だった。
静かにこっちに近付いてきたので、ひどく慌てて己の身を奥深くシートに埋める。
残念にもピョッコリ飛び出す埋めきれなかった己の顔が、間近まで近付いた彼とバッチリ目を合わせた。
コンコンと窓をノックされようやく観念すると、シートに埋めた己の身体を元に戻した。
「槙、そこで何やってるんだ?」
不思議そうに窓の外からのぞき込まれ、同じく助手席のシートにピョッコリ顔のみ残し埋まっていた広夢も降参するように起き上った。
「すぐにバレてしまいましたね……」
「うん……」
槙自慢の愛車である真っ赤でド派手なスポーツカーのせいだとは今だまったく気付いていない2人は、残念そうに互いの目を合わせる。
2人は仕方なく車からその身を現した。
日曜日の休日にもかかわらず、なぜか小田家の近くに現れた親しい同僚と後輩の2人と向かい合った加我谷は、不思議そうな表情で首を傾げた。
「2人共どうしてここに?」
偶然にしてはあまりにも出来過ぎている偶然の遭遇に微塵も疑うことはない純粋無垢な加我谷に問われ、2人はますます身体を縮こませる。
渋々観念した広夢が気まずそうに重い口を開いた。
「じ、実は…………先輩のコレが気になって……」
「馬鹿やろ広夢! 正直にコレを話すな!」
槙が慌てて広夢の口を塞ぐも時すでに遅し、加我谷はますます首を傾げた。
「これ?」
「コレです……」
広夢がちょんと小指を立てると、広夢の立った小指を見つめしばらく沈黙していた加我谷もようやく気付いたらしい。明らかに表情に動揺を浮かべた。
「いや、そうじゃない。これは……」
とっさにコレの存在を誤魔化すような加我谷の様子にハッとした槙と広夢は、コレの存在を確認するべく慌てて必死に辺りのコレを探し始める。
「いない………………どこだ!?」
「あ! 槙先輩、発見しました! あんな所に人が!」
「何!? 急ぐぞ広夢!」
「はい! 槙先輩」
目敏い広夢が指差し教えた先に確かに人がいて、槙と広夢は全力疾走で一気に駆け寄った。
「コレ……コレ……」
「コレですか!?」
ひどく息切らし遠くから全力疾走してきた目の前の危ない男2人にいきなりコレと指さされた春乃は、ポカンと呆気にとられた。
「コレ…………アレ?」
「ダレ?」
コレだと確信し全速力で近づいたのに、目的のコレではなく1人の若い女性だった。
再びキョロキョロと辺りを見回しても、目当てのコレは見つからない。
槙と広夢は仕方なく本来のコレを一度諦め、偽のコレに問い詰めた。
「あなたはコレですか!?」
「コレはアレですか!?」
すでに意味不明の槙の傍にようやく追いついた加我谷が、必死に止め始める。
「違うよ槙、そうじゃない」
「いいから俺に任せとけ! 百戦錬磨の俺がコレを見極めてやる」
「加我谷先輩! コレは槙先輩にお任せください!」
「いいか広夢、槙先輩の勇姿をしかとそこで見とけ」
「お願します! 槙先輩」
「いや、だから槙、そうじゃないんだ」
加我谷が必死で止めてもまったく耳に入らない槙は、目の前のコレをジロジロと睨みつけた。
「槙先輩、コレはコレでしたか?」
「……いや、ちょっと待て広夢…………もう少し時間をくれ………………うーん……コレはコレのような…………明らかにコレじゃないような…………」
「一体どっち!?」
「あーもうめんどくせぇ! コレだ。コレ、コレにしとこう」
「やっぱりコレなんですね?」
「そうだ、コレだ。コレに決まってる。コレですべてが丸くおさまる。コレで万事解決だ」
「やったね槙先輩!」
「よかったな広夢!」
「今夜は乾杯ですかね? コレで」
「コレで乾杯だ」
互いにチンと乾杯を済ませた槙と広夢は、にっこり笑顔でコレに振り返った。
「「ところであなたはダレ?」」
「もういい加減にしてくれ2人共!」
突然叫んだ加我谷の声に、コレの存在を確かめようと春乃にジリジリ詰め寄った2人はビクッと震えた。
恐るおそる振り向くと、加我谷の目に怒りが滲んでいた。
「…………先輩が怒った」
「初めて加我谷に怒られた…………」
ぼう然と立ち尽くす2人を見つめた加我谷は、息を吐き出した。
「もういい加減にしてくれ…………違う、そうじゃない。全部誤解なんだ」
怒りを静めた加我谷は、ようやく傍にいた春乃に振り返った。
「すみません春乃さん……俺の友人が心配して、勝手に勘違いをしたようです」
「勘違い……」
「……その…………恋人同士であると…………」
加我谷が気まずそうに理由を伝えると、ようやく理解した春乃は慌てて加我谷の友人に振り向いた。
「誤解です、全部誤解です。加我谷さんとはそんな関係じゃありません」
「春乃さん……」
名を呟いた加我谷の前で、春乃は深くお辞儀をしていた。
「お願いです……加我谷さんをこれ以上勘違いしないでください。お願いします」
ようやく顔を上げた春乃は、逃げるようにその場から歩き始めた。
「待って下さい、春乃さん」
そのまま自宅へ戻らず先の道を歩いていく春乃の姿に追いついた加我谷は、とっさに呼びかけた。
背後の加我谷に呼び止められようやく立ち止まった春乃は、ゆっくりと振り返った。
春乃の前まで近付いた加我谷はわずかに表情を歪め、春乃を見つめた。
「春乃さん、すみません」
加我谷にとても辛そうに謝られ、急いで顔を振った。
「謝らなければいけないのは私の方です。軽率すぎました…………私が無頓着だったせいで、加我谷さんを誤解させてしまいました。すみません」
「それは俺とはもう出掛ける意思がないということですか?」
春乃に謝られ、すぐに悟った加我谷は静かに問い詰めた。
「無責任でごめんなさい」
俯きながら痛々しげに謝る春乃の姿に、きつい視線を向けてしまった加我谷の表情がすぐに和らいだ。
2人の間にしばしの沈黙が流れた。
「……春乃さんは、小田さんの事を気にしてらっしゃるんですね」
加我谷に静かに問われた春乃は、ようやく視線を上げた。
「小田さんに誤解されることを心配なさってるんですよね」
「……………………」
「たとえ小田さんの耳に入ったとしても、すぐに誤解だとわかります。春乃さんは何も」
「私が嫌なんです」
加我谷の言葉を遮った春乃は、はっきりとした口調でそれを告げた。
「私が父に誤解されたくないんです。私が嫌なんです。私が」
「春乃さん……」
春乃が自分の為だと強調すると、加我谷の声がわずかに震えを帯びた。
最後にごめんなさいと謝ると、再び歩き始める。
加我谷は去っていく春乃の背中を強く見つめた。
「誤解を真実に変えたいと願ってはいけませんか?」
春乃は彼の強い問いかけに一度も振り返ることはなかった。




