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梅雨入りの雨

 




 梅雨入りしたばかりの今日だが、雨の心配をする必要がないほど日中の空はからりと晴れ上がっていた。

 そのお蔭でどうやら油断してしまったらしい。傘を持たずに店までやって来た尚照は、玄関引戸を開けてすぐ後悔の色を顔に滲ませた。

 おそらく突然降り始めたのだろうにわか雨は、残念ながらしばらく止む気配がない。

 とりあえずここから一番近いコンビニに駆け込みビニール傘を購入するか、それとも駅まで5分程の距離を急ぎ足で駆けて行くか、2つの選択肢を迷うも酒を入れた身体に無茶はできないとすぐに諦めた。

 やむを得ず立ち往生を余儀なくされる。

 玄関引戸を閉め切るとそこから少し離れ、店の軒下で小雨になるのを待つことにした。


 この分だと帰宅は思いのほか遅くなりそうだ。

 すでに先に帰った友人と共に、自分も店を出ればよかった。

 いつ止むかわからない雨を見つめながら、思わず小さなため息を漏らした。

 予想外の雨に再び小さな後悔が頭をかすめはしたものの、ふいに店の中にいる彼を思い出す。

 それも些細なことかもしれないとすぐに思い直した。

 ほんのわずかでも互いに視線を合わせ挨拶を交わした彼とここで出会えたことは、確かに尚照の心に小さな喜びをもたらしたのだから、しばしの雨宿りくらい大したことではない。

 



 それにしても今夜の雨は長く続く。

 いい加減顔を顰めた尚照は夜の雨空を見上げながら、再びどうしようかと悩み始めた。

 かれこれすでに30分以上店の前で足止めを食らっている。

 そろそろここから離れなければ、最終バスが出る時間がすでに迫っている。

 腕時計を見つめギリギリまで粘ってもなお降り続ける雨にとうとう降参すると、羽織っていた薄手の半袖シャツを頭にすっぽりと被せた。

 

「駅までですか?」

 強い雨音に交じり突然掛けられた声は、尚照の辺りに低く響いた。

 わずかな擦れもない静かな男の声だった。

 店の中で同僚と飲んでいた先ほど偶然出会った彼が、今確かに尚照の前に佇んでいた。

 1人傘を差した彼は静かに尚照を見つめている。

 

「駅までですか?」

 彼は再び同じ言葉を繰り返した。

 尚照がしばらく反応できず、ただ目の前の彼を見ていたからだ。


「は、はあ……そうです」

 彼の2度目の問いかけにどうにかたどたどしく答えると、被っていたシャツを無意識に取り外した。

 目の前の彼は一歩ほど尚照に近付き、差していた傘をわずかに差し出した。


「狭いですが、どうぞ一緒に」

「いや、そんな」

 駅まで一緒にと自分の傘を半分開けてくれた彼に戸惑い、とっさに遠慮の言葉を呟く。


「どうぞ」

 穏やかな声で再び促された尚照は遠慮がちに彼の傘に入り、申し訳なくも隣に並ばせてもらった。


「すみません……じゃあ駅まで」

「行きましょう」

 彼がゆっくりと一歩先に踏み出したので、急いでそれに続いた。




 こんなに緊張するのは久しぶりだ。

 いまだ雨脚の強いなか互いに沈黙を保ったまま共に歩きながら、思わず身体を竦ませた。

 まさかこの彼と1つの傘を共有するなど思いもしなかった。

 尚照は彼と足並みを揃え意識だけを向けながら、改めて彼の存在を振り返った。


 

 尚照が初めて彼を意識したのは、すでに3年程前のことだ。

 清掃員の自分と偶然廊下ですれ違った際、お疲れ様ですとさりげなく声を掛けてくれた。

 それは彼だけのことではなく、すれ違いざまに労いの言葉を掛けてくれる親切な社員は他にも時々いる。

 それでも尚照が他の社員ではなく殊の外彼を意識したのは、偶然すれ違えばいつも変わりなく挨拶をくれる彼に好印象を抱いたからであったし、それ以上に彼自身に好奇心を抱いたからだ。

 なにも尚照だけのことではない、彼を前にして興味を抱かない人間はおそらく稀だろう。

 そんな彼がただ顔見知りの清掃員というだけで傘の隣を与えてくれた。

 けれど彼だからこそそんな行動もスマートに、いとも簡単にやり遂げてしまうのかもしれない。




「帰りはバスで?」

「……ああ、バスです。助かりました」

 5分程の距離を共に歩き駅の屋根下まで到着すると、彼は差していた傘を丁寧に畳みながら尚照に尋ねた。

 礼の言葉と共に頭を下げると、目の前に畳んだ傘を差し出される。


「帰りに使って下さい、まだ止みそうもないので」

「いや、そんな……それじゃあ貴方が」

 自分に傘を貸したら彼の方が濡れることなど、考えずともわかりきっている。

 彼の親切を断ろうとすると、彼は尚照の手に優しく傘を押し付けた。


「自分はこのまま代行で帰るので車に乗るだけです、気にせずどうぞ。今日もお疲れ様でした」

 最後に労いの言葉を付け加え会釈した彼はあっさりと背を向け、尚照の前から去ってしまった。

 彼の背中をしばらく茫然と見つめた尚照はようやく我に返ると、慌ててバス停留所に向かい歩き始めた。









「携帯繋がんなかったけど、雨大丈夫だった?」

 家の玄関引戸を開けると、すぐに茶の間から顔を出した拓馬たくまがバタバタと近づいてきた。

 突然降り出した雨の心配をされ、手に持っていた傘を持ち上げる。


「何だ、傘持ってったんだ」

「お帰りお父さん、濡れなかった?」

 拓馬に続き出迎えた春乃はるのが心配げな表情を浮かべ、父親の姿を見やった。


「……あれ? その傘どうしたの? てっきりコンビニで買ったのかと思った」

「借りたんだ」

 すぐに気付いた娘に問われ正直に事情を話すと、濡れた傘を干すためその場で再び広げた。


「ふーん……そういえば家のじゃないね。なんか立派な傘だ、高そう」

 拓馬は安物傘しか置いていない家のものとは明らかに違う黒い傘を、しげしげと見つめ始めた。


「お父さん、誰に借りたの?」

「店の前で偶然会社の人に会ったんだ。雨宿りをしてたら一緒に傘に入れてくれた」

「へえ、いい人じゃん。ついでに傘まで貸してくれたんだ」

「うん…………そろそろ中に入ろう」

 興味深げに傘の事情を尋ねる子供達を促すと、一度玄関で濡れた靴下を脱ぎ捨てようやく家の中に入った。





「お父さん、お腹空いてない?」

 パジャマに着替え直した尚照が茶の間に戻ると、春乃はテーブルに熱いお茶を用意し待っていてくれた。

 少しばかり雨に濡れ冷えた身体を温めるため、有難く口に含んだ。


「今日はちゃんと食べてきたから。特に何もなかったか?」

「うん、特に」

「お父さん携帯ちゃんと持ってた? いくら掛けても全然出ないし」

「気付かなかったんだ、雨がひどかったから」

 自宅前まで着いてようやく携帯電話の存在を思い出し慌てて確認すると、すでに着信6件と表示されていた。

 この前も注意されたばかりなのに再び息子に指摘され、適当に言い訳する。


「ちゃんとズボンのポケットに入れときなよ。姉ちゃんずっと心配してソワソワしてたんだから」

「拓馬だって、さっきまでずっとウロウロしてたじゃない」

「すまん、今度からちゃんと出るから…………春乃はそろそろ休みなさい。明日も仕事だろ」

 壁の時計に視線を向けると、すでに針は11時を指していた。

 明日は仕事休みの自分の事より、今は娘の心配をしなければならない。


「うん、お父さんもゆっくり休んで。おやすみなさい」

「おやすみ」

「姉ちゃんおやすみ」

 自分の部屋に戻っていく娘を見届けると、残りのお茶をすべて飲み干した。






 今年56歳になる尚照には2人の子供がいる。

 27歳の長女・春乃と今年成人したばかりの長男・拓馬だ。

 元々借家で暮らしていた木造一軒家を4年程前に安く購入し、今は3人で暮らしている。

 尚照の妻はすでに7年前に他界した。

 妻を亡くしてからは尚照も仕事を日勤のみに専念し、今は定時も6時上がりだ。

 子供達もすでに働き出し、今の生活はささやかながらも十分ゆとりがある。

 何より自分が無理をし身体を壊しでもすれば、2人の子供達に余計な心配をかけることになる。

 母親を亡くして以降、すでに成人した子供達は今もなお父親の尚照に敏感だ。

 今夜だって雨が降ったくらいで父親の帰りを心配していたほどだ。

 優しく育った子供達になるべく心配をかけずに生きるのも、親として尚照が唯一できる子供への孝行かもしれない。

 そして子供達にもそろそろ父親の心配は二の次に、自分の幸せを考えてほしい。

 今の尚照にとって唯一の願いだった。






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