槙は見た
その日は梅雨入りしたばかりの6月初旬、初夏のことだった。
すでにすっかり腹を減らした槙はようやく昼休憩となるやすぐさま腰を上げると、隣にいた加我谷を食堂に誘い研究室から抜け出した。
2人並んで廊下を歩いていると、なぜか突然隣の加我谷がオフィスドア手前でピタリと立ち止まった。
加我谷の向かいには、1本の傘と弁当らしき包みを持った華奢で小柄な人が佇んでいた。
すぐに挨拶を交わした様子から、どうやら2人はすでに顔見知りだったらしい。
わざわざ加我谷を訪ねてきたらしいその人の話を聞くため、加我谷は槙に先に行ってくれと声を掛けると、再びその人と向かい合った。
先に行けと言われて先に行く槙じゃない、先に行ったフリをしてこっそり近くのトイレに忍び込み様子を窺っていると、その人は加我谷に傘を渡した後もう片手に持っていた弁当らしき包みをおずおずと恥ずかしげに差し出した。
普段他人から弁当を渡されても穏やかに遠慮する加我谷だが、その人が差し出した弁当は笑顔で受け取っていた。
結局その日、加我谷は食堂には現れなかった。
忙しくA定食を掻き込んだ槙が慌ててオフィスに駆け込むと、加我谷の姿はない。
彼のデスクには先ほどその人から受け取った弁当箱が置いてあり、その上に手紙も添えられていた。
一度は素知らぬふりを決め込んだ槙だったが結局辛抱きかず、加我谷が戻ってこないことを目探り確認し、わざとデスクにぶつかり手紙のみを器用に床に落とした。
自分の失敗を大袈裟に反省し拾うフリをして、床の上に這いつくばりこっそりギョロギョロ覗き込むと、手紙には頂いたおこわのお礼が丁寧に綴られていた。
加我谷が戻る前にさりげなく弁当箱の上に戻すと、ようやくその場からそっと離れた。
きっと自分の勘違いだ、そんなことは絶対にあり得ない。
けれど一瞬でも抱いてしまった疑念はそれ以降どんなに否定しようとも、槙の心を燻り続けた。
しばしの時が経過してもとうとう不安は拭いきれず、槙は決意した。
いっそのこと真実を確かめるべく、かまをかけてみることにしたのだ。
偶然トイレにいるその人を見つけた槙は急いでオフィスに戻ると、仕事中の加我谷にあえてその人の所在をさりげなく伝えた。
結局加我谷は仕事を放り出し、すぐさまオフィスから姿を消してしまった。
彼の後を必死に追いかけた槙がトイレをこっそりのぞき込むと、加我谷とその人は楽しそうに談笑しているではないか。
しかも自宅に来てほしいと恥ずかしげにお願いするその人に、加我谷は二つ返事で嬉しそうに頷き応えていた。
ひどくショックを受けた槙はヨロヨロとよろめきながら静かにその場を離れ、なんとか再びオフィスに辿り着いた。
トイレの逢瀬を目撃したその帰り当然彼の後を必死に追いかけた槙は、駐車場で待ち合わせた2人が1つの車で仲良く去っていく姿を最後まで呆然と見送り続けた。
それ以降すべてを物語るかのように、加我谷の表情はみるみる明るくなり生き生きと輝き始めた。
まるで初恋を知ったばかりの少年のごとく初々しいその姿に槙の胸中はさらに複雑さを増し、彼の眩しさから逃げるように目をそらしてしまったことも1度や2度では済まされない。
ある日昼休憩中にこつ然と姿を消した加我谷を必死で会社中隈なく探すも見つからず、仕方なくオフィスに引き返し今か今かとひたすら爪かじり待ち続けていると、ようやく帰ってきた加我谷の手に白い箱が握られていた。
思わず槙が尋ねると、加我谷は何でもないと言い訳し誤魔化すように白い箱を背後にそっと隠した。
そのまま給湯室の冷蔵庫に白い箱をしまった加我谷は、その日きっちり定時上がりで白い箱を大事そうに抱え帰って行った。
当然彼の後を必死に追いかけた槙の目の前で、その日も2人は1つの車で共に去ってしまった。
毎週水曜日の君との逢瀬はその後も途切れることなく順調に続き、それを必ず見届ける槙の心を日に日に蝕んでいった。
友人のことを思えばなかなか眠りに就くこともできず、飯もどんどん不味くなる一方だ。
とうとう食欲さえも失いかけたここ最近、すでに限界に近い心と身体は悲鳴を上げ始めた。
そして今日、限界間近の槙にとどめの追討ちをかけるように、加我谷の手にはまた白い箱が握られていた。
恥ずかしそうにさりげなく槙から隠した彼の姿を見送ったその瞬間、とうとう槙の心は決壊したのだった………………
「トイレの逢瀬…………駐車場で待ち合わせ…………恋は盲目って言いますけど人目もはばからない程その人に夢中なんて、加我谷先輩そうとう重症ですよ」
「……広夢、嬉しそうだな」
「当たり前じゃないですか! とうとう加我谷先輩に愛する人ができたんですよ。槙先輩だって前に加我谷先輩の孤独死を心配してたじゃないですか」
「それは……お前がその人を知らないから」
「あ! そうだ。で、その人って結局誰なんですか? 当然会社の人なんですよね?」
「まあ、そうだな」
「ねえ、一体誰なんですか? そんなにもったいぶらないでさっさと教えてくださいよ先輩!」
「それは……………………」
「あれ? 亀井ちゃん、今日はずいぶん暗いねぇ」
休憩室に戻った清掃スタッフ浅見は、テーブルに顔を擦り付けぐったり項垂れている同僚亀井の姿を見つけ、とりあえず心配そうに声を掛けた。
「浅見さん……」
「……ぎゃ! どうしたの亀井ちゃん、3になってるよ」
思わず悲鳴を上げた浅見が見たのは、ものの見事に目を3に腫らした痛々しい亀井の姿だった。
「そんなに泣き腫らして一体何があったの? 亀井ちゃん、よかったら話してみなよ。ね?」
「浅見さん……」
隣の椅子に座った浅見が寄り添うように慰めると、普段自分には特にシビアな浅見がめずらしく優しくて気が緩んだせいか、亀井はうっうっと嗚咽を始めた。
「じ、実は……うっ……か、加我谷さんに……うっ……と、特別な人が……うっ……で、できたみたいなんです……うっ」
「………………ん? 実は加我谷さんに特別な人ができたみたいだって?」
嗚咽が邪魔をし大変聞き苦しかった亀井の言葉をようやく拾い上げた浅見が確認するために復唱すると、亀井は嗚咽で肯定した。
最後は嗚咽で済まず鼻水を垂れ流し始めた亀井のそれを仕方なく拭いてやると、亀井もようやく落ち着いたのか嗚咽が静まった。
「……浅見さんには前にも話したと思うんですけど、実はうちの会社の経理に友達のお兄さんがいるんです。同じく加我谷さんLOVEの友達が、加我谷さんと親しいお兄さんを無理やり脅して聞き出した情報によると、最近加我谷さんに意中の相手ができたらしくて……」
「……ふーん、そうなんだ。それで?」
「その人はこの会社にいるらしいんです。なんでも2人が一緒にいる姿を目撃した人がいるらしくて……」
「……亀井ちゃん、その目撃者情報ほんとうに正しいの?」
「本当なんです! 目撃者はしっかりその目で何度もしつこく必死に後追いかけ確認したって! トイレの逢瀬とか、駐車場で待ち合わせとか! うっうっうっうっ」
興奮した亀井がテーブルに突っ伏し再び激しく嗚咽を漏らすなか、隣の浅見は一瞬放心する。
しばらくしてガックリと頭を抱えた。
「それってまんま小田さんのことじゃん…………」




