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同僚の苦悩

 




 その日、ようやく研究室を抜け出した研究開発課所属のまきは隣のオフィスに戻ると、自分のデスクに腰を下ろすなり深く息を吐き出した。

 すでに周りの同僚達がちらほらと帰り支度を始める中、今だ仕事が残ったままの槙はすぐに動くことができず、暫しの休憩に重くなった頭を支えるように両手で抱え込んだ。

 

 身体が酷く疲れていた。

 もうずいぶん前からあまり眠れていない。

 そのせいか、ここ数日は食欲さえも減退する有様だ。

 けれどこの身体の疲労は己の精神から生じたものだということも、槙自身すでにわかっている。

 日に日に増すばかりの苦しみと葛藤で心はすでに限界に近く、槙の身体に鉛のように重く圧し掛かった。

 こうして頭を抱えることでしか、すでに耐える術は見つからなかった。



「槙」

 名を呼ばれた槙はとっさに頭を上げた。

 隣を見上げると、同僚で友人でもある加我谷が立っていた。


「ああ…………加我谷か」

 力なく名を呟き返すと、加我谷は心配げな表情を浮かべ槙の様子を窺った。


「どうしたんだ? 具合が悪いのか?」

 明らかに表情に疲れを滲ませた槙の姿に体調の変化を察した加我谷が尋ねると、槙はすぐさま笑顔を浮かべた。


「大したことはない、少し休めば疲れも取れるさ」

「槙……最近無理しすぎなんじゃないのか? 体調が優れないなら、今日は早めに帰った方がいいぞ」

「わかってる、そうするつもりだ。お前はもう帰るのか?」

「ああ、先に帰るよ」

 すでに帰り支度を済ませた加我谷の姿を眺めた槙は、無意識に彼の手に視線を向けた。


「お前…………それ」

 とっさに気付いた槙が加我谷の手をじっと見つめると、指摘された加我谷はさりげなく自分の手を背後に隠した。


「じゃあもう帰るな。無理はするなよ」

「あ、ああ……お疲れ」

 槙に一言残し背を向けた加我谷になんとか挨拶を返すと、そのまま彼の後ろ姿をじっと見つめた。



「…………加我谷!」

 思わず叫んでしまった槙の呼びかけに、すでにドア近くまで去った加我谷はすぐさま振り返った。


「どうした……?」

 加我谷が不思議そうに尋ねると、とっさに呼び止めてしまった槙はすぐさま首を振る。


「いや……なんでもない、気を付けてな」

 槙の態度に最後は訝しげな表情を浮かべた加我谷だったが結局それ以上追及せず、再び短い挨拶を残しオフィスから去った。



 1人残された槙は愕然とした表情で、ぐったりと椅子にもたれ掛かった。

 たった今槙の心はとうとう限界を通り越し、脆くも決壊してしまった。


 再び椅子から立ち上がると、オフィスドアに向かって勢いよく走り出した。







広夢ひろむ! いるか!」

 

 突然勢いよく駆け込んできた槙の姿にあんぐりと口を開けた経理課所属の立川 広夢は、慌ててデスクから立ち上がった。

 槙に駆け寄ると、グイグイと強引に外へ押し出した。


「槙先輩! 私用で駆け込むのはやめてください! 皆さんまだ仕事中なんですからね!」

 なんとか槙を廊下に押しやった広夢は、目を吊り上げ怒り始めた。


「一体何しに来たんですか!? 最初に言っときますけど、うちの小林さんは彼氏持ちですし、吉田さんはついこないだ結婚しました」

「そんなこと今はどうでもいい。話がある、来い」

 槙が最近用事もなく経理に頻繁に出入りしているのは、経理の小林さんと吉田さんのナンパ目的だとうんざりするほど身に染みている広夢は、槙のナンパどうでもいい発言に疑り深い視線を向けた。


「だったらもしかして………………目当ては人妻子持ちの鈴木さんですか!? やめてくださいよ槙先輩! 経理の風紀を乱さないでください!」

「大切な先輩命令だ、さっさと来い!」

 いつも軽くていい加減でどうしようもない先輩槙の初めて見せる切迫した表情に、ようやく顔を引き締めた広夢は思わずゴクリと生唾を呑みこんだ。 






 なぜか人っ子一人存在しない薄暗い非常階段に無理やり連れ込まれ、1つの段に2人寄り添うようにピッタリ腰を下ろす。


「……槙先輩、今日は一体どうしたんですか? 少し様子が………………ハッ! まさか」

 経理の小林さんと吉田さんのナンパにことごとく失敗しとうとう血迷った槙は、狙いをいつのまにか別方向に向けていたらしい。

 グッと密着され貞操の危機を察した広夢は己の身をサッと反らすと、それでも強引な槙はグイッと近づいてきた。


「広夢…………俺を助けてくれ。もう自分の心の内だけに秘めておくことはできない。すでに限界なんだ」

「……槙先輩すみません。お気持ちは十分嬉しいんですが、俺今まで先輩の事そういう対象として見たことがなくて……」

「とうとうアイツにコレができたらしい」

「……これ? どれ?」

「コレだ」

「コレ…………コ、コレ!?」

 槙が小指をちょんと立てると、驚いた広夢もちょんと小指を立てた。


「そ、そんな……とうとうアイツにコレが………………あ、そういえばアイツって?」

 アイツにコレができたのはわかったが、今だアイツを知らなかったことにようやく気付いた広夢は慌ててアイツの正体を尋ねた。


「決まってる、お前の2番目に大切な先輩だ」

「……くやしいですけど、仕方なく2番目は槙先輩です………………え、てことは槙先輩にコレができたってことですか!?」

「馬鹿たれが、1番は俺だろう。2番がアイツだ、加我谷だ」

「……え? 1番が槙先輩で2番が加我谷先輩?…………あれ? でも俺の永遠の1番は加我谷先輩で仕方なく2番が槙先輩だから………………………つ、つまり加我谷先輩!?」

 大変こんがらがりながらも何とか答えを導き出した広夢は、自分にとって正真正銘1番大切な先輩である加我谷にコレができたという事実に驚愕し、隣の槙にグッと勢いよく詰め寄った。


「いつのまにか俺の知らぬ間に加我谷先輩にそんな人が!? 槙先輩、一体相手はどこの誰なんですか!?」

「落ち着け広夢、ここからが長いんだ」

 ひどく興奮する後輩をとりあえず冷静に宥めた槙は、覚悟を決めるように小さく頷いた。



「その人はある日突然おこわを持ってやって来た」



 


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