白い箱の正体
「加我谷さん、意外に早かったね」
今日は遅れると加我谷に言われた尚照は先に会社から帰宅したのだが、加我谷が自宅を訪問したのは7時を過ぎたばかりの頃だった。
いつもの夕食時間にも十分余裕があった。
「こんばんは、遅くなりました。小田さん、帰りはすみませんでした」
玄関で迎えた拓馬と共に茶の間に入った加我谷はテーブル前に座っていた尚照と春乃に挨拶すると、一度尚照に謝った。
「気にしなくていいよ。いらっしゃい」
「加我谷さんいらっしゃい。急な会議大変でしたね」
さっき父親から事情を聞いた春乃が労いの言葉を掛けると、加我谷も笑顔で否定した。
「大したことではないです。いつもより早く終わりました」
「加我谷君、早く座って」
いまだ立ったままの彼を、すでに夕食のおかずが並んでいるテーブルに促した。
加我谷が揃ったのでさっそくご飯をよそうため立ち上がろうとした春乃の前に、白い箱が置かれた。
「あ! 白い箱! 加我谷さん、また買ってきてくれたの?」
テーブルに置かれた白い箱にすぐさま拓馬が反応し、嬉しそうに姉の傍に近寄った。
「加我谷君、気にしなくていいのに」
以前小田家を訪問する際手土産を持ってやって来た彼に、今度からは必要ないと念を押しておいたのだが、彼はそれでもこうしてお菓子を持ってくる。
その度尚照が渋い顔を浮かべても、彼はすぐに忘れてしまうらしい。
「今日は昼に外に出たので、そのついでです」
「加我谷さん今日もすみません。ご馳走になります」
申し訳なさそうに礼を言う春乃と違い、拓馬は嬉々として白い箱を受け取った。
「拓馬、冷蔵庫に冷やしておいて」
「うん」
さっそく拓馬が白い箱を冷やしに冷蔵庫に駆けていくと、春乃もご飯をよそうため後に続いた。
「美味しいです」
「本当ですか? よかった…………お父さんは? 大丈夫?」
「うん、なかなか上手いよ」
今夜の夕食は、春乃もたまにはお洒落なカタカナ料理で攻めてみようと思い立ったらしい。
ハーブチキンソテーとサーモンマリネ、ミネストローネにアボカドトマトサラダと、すべてカタカナで制覇した料理がテーブルに並んだ。
加我谷も美味しいと言ってくれたし、食べ慣れない尚照も十分口に合った。
「拓馬は?」
「うん」
以前姉にたまにはお洒落なカタカナ料理に挑戦しろと苦言した張本人の拓馬はというと、今一反応が芳しくなかったので、結局彼の口にはお洒落なカタカナ料理は合わなかったらしい。
「……ねえ会議ってさ、しょっちゅうあるもんなの? もしかして加我谷さんって忙しい?」
今日は加我谷の来訪がいつもより遅くなったせいか、ふいに拓馬が尋ねた。
彼がこの家を訪れるようになって既に結構経つが、拓馬は今だ彼の仕事や私生活に疑問を感じることが多々あるらしい。
それは何も拓馬だけのことではない。尚照でさえいつも彼の話を聞いていても、今だ知らないと思うことは多い。
何でも直球で質問する拓馬には度々冷や冷やさせられることもあるが、今回は尚照も彼に視線を向けた。
「日によって帰りが遅くなることはあるけど、忙しいというほどではないよ。今日みたいに急に予定が入ることも稀だよ」
「残業とか多いの?」
「……まあ少ないとは言えないけど、基本はなるべく就業時間内にその日の仕事を片付けるように意識はしてる」
「そうなんだ……」
「人それぞれ仕事のスタンスは違うから、する人はとことん遅くまで残ってるよ。うちの経理に親しい後輩がいるんだけどずっと大変そうだよ。毎日数字とパソコンばかり睨めっこしてるから、いつも疲れた顔をしてる」
経理の後輩の顔を思い出したのかわずかに苦笑を浮かべた加我谷だが、なるべく残業に持ち込まない彼のスタンスも能力のうちなのだろう。
ほぼ毎週時間通りにこの家を訪れるのも、彼が努力して合わせてくれているに違いない。
「有名企業のサラリーマンなんて、俺なんかにはまったく想像つかないよなぁ…………頭悪いしさ、車いじるくらいしか能がないし」
加我谷の話を聞いて余計に実感したのか、拓馬が自信なげに弱音を呟いた。
「どんな仕事も最初はみんな同じだよ、出来ないよ。俺だっていつも小田さんの仕事を近くで見てるけど、それだけじゃ実際には動けない。突然やれと言われても困ってしまう。小田さんのような丁寧な仕事なんて出来るはずがない。でも最初はそこからだ。俺も同じだよ、車の整備士なんてとても想像できない」
「……加我谷さんも同じか。そっか、まあそうだよね………………俺もさ、最近ようやくちょっとずつ整備任されるようになってきたんだよね」
拓馬は加我谷に励まされ少し自信も回復したのか、照れくさそうに自分の仕事を振り返った。
「拓馬は特に今年に入ってから一層仕事をはりきってるよな」
「そうそう、今年に入ってから特にはりきってるよね」
父の言葉に強く同意した春乃がニヤニヤとわざとらしく弟をのぞき込んだ。
「……あれ、拓馬どうしたの? なんだか急に元気がない」
姉のからかいに普段なら3倍返しの拓馬だが、今日に限っては口を開かず俯き加減だ。
そういえば、今日の拓馬は仕事から戻るなり口数が少なかった。
さっき加我谷が来てからもいつもだったら明るくお喋りが尽きないのに、今日は白い箱を貰った時以外ずっとテンション低めだ。
「拓馬……どうしたの? 仕事でなんかあった?」
いつも口を開けば喧嘩している姉弟だがやはり姉、なんだかんだ可愛い弟のことが心配らしい。春乃は懸念の表情を浮かべ拓馬の顔をのぞき込んだ。
姉の心配を受け、ようやく顔を上げた拓馬が重く語り始めた。
「社長の奥さんが言ってたんだよね…………明子さん、俺みたいなのは全然タイプじゃないんだって」
「……え?」
拓馬の暗い報告をすぐさま理解した姉と父はそれ以上何も言えず、一度互いの目を合わせた。
実は拓馬には最近好きな女性がいる。
明子さんと言って、拓馬が働く自動車整備工場の社長の娘さんらしい。
拓馬より一才年上の明子さんは今年から整備工場の事務員として働き始めたのだそうだ。
今年に入ってから拓馬が一層仕事をはりきり始めたのは、それが理由だ。
包み隠さず何でもオープンな拓馬は姉や父にはもちろん、遊びに来る加我谷にまでいつも平気で明子さんの話をしている。
それほど大好きな明子さんにとって、拓馬は全然好みじゃないのだそうだ。
「きっと拓馬の聞き間違いじゃないのか……?」
「そうだよ、私の友達はみんな羨ましいってよく言ってたよ。拓馬はお父さん似だから、二重の大きい目とか童顔な所なんて女の子みたいで可愛いって」
「明子さん、俺とは真逆の人がタイプなんだって」
父と姉の必死なフォローも虚しく、やはり拓馬は大好きな明子さんのタイプでは全然なかったらしい。
「真逆?」
「明子さん、年上で大人で落ち着きがあって、切れ長の目をしたシュッと背の高い男の人がタイプなんだって」
「それってまるで…………」
小田家族の視線は揃って一点に集中した。
「加我谷さんみたいな人が好きなんだって」
小田家族全員にじっと見つめられた加我谷はなんとも気まずげに、そっと視線をずらした。
「……拓馬、確かに今のお前は明子さんの好みから少し外れるかもしれないが、もう少し落ち着けば雰囲気も変わってくるさ」
「そうだよ、諦めるのはまだ早いよ。それに、私は拓馬が一番カッコいいと思うよ?」
「なんか……全然嬉しくない」
明子さんと同じ女子とはいえ姉のタイプだと褒められても、なんの慰めにもならないどころか逆に迷惑だったらしい。
「あーあ、加我谷さんはいいよなぁ……」
拓馬はまさしく明子さんの理想を体現したかのような加我谷の姿を見つめながら、羨ましげにため息をついた。
「俺は拓馬君が羨ましいけどな」
「…………え」
思いもよらなかった加我谷の呟きに、小田家族全員呆気にとられ彼を凝視した。
どうやら彼は贅沢にも、好きな女性にとって全然タイプじゃない不憫な拓馬が羨ましいらしい。
「毎日明子さんに会える」
おそらくこの場に明子さんがいれば鼻血もので喜ぶだろうセリフをいたって真顔で言いのけた彼に、小田家族は再びポカンと呆気にとられた。
「加我谷さんやっぱすげえ………………ていうか、もしかして天然?」
「最高の殺し文句だね……」
夕食を済ませると、さっそく冷蔵庫に走った拓馬が白い箱を手に持ち、茶の間に戻ってくる。
「こないだと同じ店?」
「いや、今日は違う。詳しい同僚に教えてもらった」
白い箱を開けた春乃は、小皿の上に1つずつ丁寧に載せていった。
加我谷が持ってきてくれた手土産のお菓子を、熱いお茶と一緒に有難く食べ始めた。
「加我谷さん、これ好きだよね」
加我谷の手土産はいつも決まって同じなので、拓馬がからかうように笑いかけた。
「うん」
「姉ちゃんも好きだよね、シュークリーム」
姉の好物の為これまでスーパーの安いシュークリームばかり食べさせられてきた拓馬は、毎回加我谷がケーキ屋で購入してくるシュークリームに最初はいたく感動したものだった。
「……あれ? 前に加我谷さんに話したっけ?」
以前、安シュークリーム話で姉に加我谷の前で大恥をかかせた張本人の拓馬は、もうすっかりそのことを忘れてしまったらしい。
「うん、前に聞いた」
忘れてくれればいいのにちゃんと覚えていたらしい。向かいの加我谷に視線を向けられてしまった春乃は、誤魔化すように手に持ったシュークリームを食べ始めた。
「今日も美味しい……」
好物のシュークリームの美味しさに思わず呟いてしまった春乃を、向かいの加我谷は優しい表情で見つめた。




