第7話:あるいは昔話と、寂しがりな少女が踏み出す新たな一歩⑦
長らく更新できず申し訳ありませんでした
それから語られた内容は、セルフィーネにとってあまり意味のある物語ではなかった。
政府上層部主導により、優華を討伐したのは椿であることにされたこと。
Bランクの災害級であったとはいえ、肉親を手にかけたという事実は汚点となる。よって人間型の厄霊だったと改竄され、優華はその犠牲者の一人であるとされたこと。
そして春翔たちの師であるという燈華が、政府および協会日本支部に働きかけることで情報操作を徹底させたということ。
どれ一つ取っても日本を揺るがす絶大なスキャンダルと成りえる物ばかりであったが、今のセルフィーネにとっては全て無価値に等しい。
「――これが、俺が未だに刀を満足に振ることができない理由。誰かを……何かを前にしただけでも、あの記憶が俺を縛り付ける。今日の試合は、その――言い訳っぽくなるけど、俺の中では奇跡に近いくらい、結構頑張れた方なんだ。
でも結局乗り越えられないって分かって、それが君を侮辱することになってしまった。気を悪くさせて本当に、ごめん……」
横顔を見せていた春翔は、最後に謝罪の言葉を添えたあと、セルフィーネから完全に目を背けた。
謝罪の礼に全くそぐわないその行為に対して、セルフィーネは気を悪くするはずもなく。
指を絡める春翔の両手。血管や筋が明瞭になり、血の気が失せて骨のように白くなるほど力の込められたそれに、セルフィーネは手を添えた。
置かれた際にピクリと体を強張らせ、春翔がセルフィーネへと目を向ける。
たちまちその瞳が見開かれる。
「お話しいただいて、ありがとうございました。それから、本当にごめんなさい……!」
滲む視界や頬を伝う感触を気にすることなく、セルフィーネは紡ぐ。
「今日の試合、ずっと……! そんな傷を抱えたまま、乗り越えようと必死に刀を振り続けていたのに……! 私に真剣に向かい合ってくれていたのに……! 私……私は……!」
春翔が告白してくれた、その身を未だに縛り苛み続ける記憶。どれほど言葉を尽くしてもその凄惨さを表せられない枷に抗いながらも、目の前の少年はどこまでもまっすぐに向き合ってくれていた。そんな春翔に対し、一時の怒りのまま無神経に放った言葉が、どれだけ理不尽に追い打ちをかけるものだったのか。
罪悪感と、そしてやはり想像を絶する悲しみを背負う少年に対する思いが、青の瞳を濡らし続ける。
一度目のセルフィーネの涙に、情けなく慌てふためいていた春翔だったが、今度はそのような狼狽を見せることなく。
組んでいた両手を解き、置かれていたセルフィーネの手を左手で取る。そして右手を伸ばし、優しい手つきでセルフィーネの目元を拭った。春翔の突然の行動と顔から伝わる感触に、思わず目を眇める。
右手が離れ、恐る恐る目を開く。鮮明さを幾らか取り戻した視界に、安堵するようにほぐれた少年の表情が映る。
「ありがと。そう言ってくれるだけで、俺はもう十分だから」
「でも――!」
言い聞かせるようにゆっくりと言う春翔に、セルフィーネはなおも続けようとするも、そこに浮かぶ静かな笑みに口を縫い付けられた。
柔らかに、けれどどこか困ったように頼りなく翳るその笑みは、これまで見たこともないほどに大人びた微笑だった。少女は胸の奥の方に、熱が切なく灯る。その初めての感覚の意味を知らないままに、セルフィーネは手を引き戻し、涙を拭いながら春翔に問うた。
「……どうして、ですか?」
「どうして、って言うのは?」
「私が桜咲さんと同じ立場だったなら……情けないと思うかもしれませんが、きっと立ち上がれない。大切な人を自分の手にかけて、そして積み上げてきた槍の技も揮えなくなったとしたら、そこから強くなりたいだなんてきっと思えないです。
桜咲さん。
君はどうして、そんなに強いんですか? そんな傷を抱えて、打ち込んできた剣を、力を失ってなお、どうして前に進めるんですか……?」
春翔が剣を捨てることになった理由は、痛いほどに理解させられた。だがその傷は、常人ならば絶対に立ち上がる気力など起きないくらいに深く、心を抉るものだ。
それでもなお、なぜ目の前の少年はその身に、あの剣技と遜色ない冴えと強さを拳に宿すことができたのか。今持つ強さの源は――戦い、強くなりたいという思いの在処はどこにあるのか。
縋るように紡がれたセルフィーネの言葉に。
「優華を手にかけて、そして刀を満足に振れなくなって。椿さんや燈華さんには何度も言われた。もう戦わなくていい。強くなる必要はない。俺のあの選択を、責めるつもりなんて全くないって。それが二人の本音なんだっていうのも、俺のことを真剣に思ってくれての言葉なんだっていうのもすぐに分かった」
淀みなく綴られていく思い。それを語る春翔の表情は少し悲しげであったが、固く確かな意志に彩られた表情に、セルフィーネは息を詰まらせる。
「多分、穏やかな道も選べたんだと思う。でも、俺は戦い続ける道を選んだ。二人に――特に、燈華さんにどれだけ反対されても、騎士になりたいっていう思いを曲げることができなかった。
二人で交わした約束に、俺は一生向き合い続ける。厄霊のせいで悲しむ誰かを救えるようになるため、生涯をかけて戦い抜く。
守るべき人を自分の手で切り捨てて、それまでの力も消えてしまった俺の中に残された、唯一の望みだったから」
「……それは、贖罪のつもりですか?」
「そういう思いも、もちろんある。でもそれよりも、何よりも、ここで俺があの約束に目を背けて逃げてしまったのなら、それまで優華と歩き続けた日々が無駄になってしまう。
父さんと母さんが死んで、泣き続ける優華をどうしたらいいか分からないまま抱きしめ続けた日々も、そこから二人で前に進もうって誓い合ったことも、そんな俺たちにずっと向き合って、鍛えて、愛してくれた大事な家族との思い出も、全て本当に無意味になってしまう。そう考えたら耐え切れなかった。
それに俺たち兄妹が交わしたこの約束は、絶対に間違ってなんかないって知ってたから。
この誓いを果たすことがどれだけ難しいことかっていうのは、俺でも知ってる。けど俺の命が尽きるその最後まで、この約束のために戦い続けることができたのなら。
それで多くの人を救える騎士になれたのなら、優華を殺してしまった俺でも、いつか向こうで優華に胸を張って会えるんじゃないかって」
そう言って春翔は己の前に手を捧げる。そして力強く握りしめたあと。
「『限定霊纏』」
制服姿はそのままに、春翔の四肢に白銀の輝きが宿る。刃を持たないその霊装は、月光を受けて眩く煌めく。
「君は俺が剣を捨てたって言ったけど、厳密にはそうじゃない。刀は捨てたけど桜咲の剣は――俺が積み上げてきた技は、思いは、俺の中で今も生き続けている」
「え……?」
声を漏らすセルフィーネに対し、春翔は輝きに満ちた視線を向ける。
「俺が今日の試合で君に放った技は、桜咲流剣術の技を俺が素手で模倣したり、アレンジした技が多いんだ。
刀を捨ててこの身一つで戦おうとしていた俺だけど、それまで身を捧げてきた桜咲の剣は無駄にしたくなかったから、自分なりに桜咲流を研究して、それを体術の動きに活かせるように試行錯誤してた」
「でも拳を鍛えることは、俺の罪を象徴する刀から逃げてることになるんじゃないかってずっと悩んでもいた。いつか刀をまた振れるようになる日が来るかもしれないって、刀にも向き合ってきたけど、自分でもどっちつかずの中途半端な状態だって分かってた。
心のどこかで、自分っていうヤツを信じることが――認めることができなかった。
今日の試合で精霊が背中を押してくれた。大事なことから逃げてないんだって。あの日の罪の意識や傷を乗り越えられなくても、それと向き合ってきたからこそ得られた力があるんだって。
俺がここまで歩いてきた道程は、絶対に無駄なんかじゃないって。
だから俺はもう迷わない。罪も、傷も、弱さも、全部抱えて歩き続ける。刀を使えなくても、この身があり続ける限り、俺は強さを求め続ける。優華と交わした約束を守るために、全身全霊を捧げ続ける。
それが俺の、戦う理由」
そう宣言したあと、白銀に彩られた右拳をセルフィーネへと掲げて。
春翔は力強い、そして子供のような屈託のない笑顔を浮かべた。
春翔が刀に対するトラウマを抱えているという話を椿から聞いたとき、それでもなお春翔が高い格闘能力を身に付けているのは、その傷を乗り越えたからだとセルフィーネは考えていた。
乗り越えたからこそ戦えるのだと――刀を振ることが叶わなくとも、その失った剣技を補って余りある実力を身に付けたのだと。
時間も思いも費やしてきたであろう剣技。それを全て消し去るほどの傷をどうやって乗り越えたのかを、セルフィーネは聞きたかった。それこそが春翔の強さの原点だと思っていた。
春翔はその傷を――罪の意識を、乗り越えてなどいない。春翔が抱えるそれの大きさは、乗り越えることなど到底叶わない。けれどそこから逃げずに、今もなおその苦しみや悲しみ、後悔、そして最愛の妹と交わした約束に向き合い続けている。
悩み迷い、苦しみながら、それでも歩みを止めることなかった彼だからこそ、その身が放つ一撃は鋭く、重く、そして熱かったのだとセルフィーネは理解した。
「……『弱くても、足掻こうとする行動や思いは無駄じゃない』。君の言葉の意味と、そこに込められた覚悟の重さ。私は今、ようやく知ることができました。君が歩いてきたこれまでがあったからこその、言葉だったんですね」
そう言って目の前の少年に向けていた視線を、手元へと落とす。先日の春翔の言葉は綺麗事でしかないと思っていた自分の浅ましさに、セルフィーネは深く恥じ入っていた。
「私程度の者が、君のあの言葉を否定する資格なんて本当は無かった。君の強くなりたいっていう思いや理由に比べれば、私なんか……」
セルフィーネの強くなりたいと思う理由。騎士の頂点、殿堂の高みへと至らんと一切の脇目もふらずに過ごしたこれまで。
他の生徒に――友人同士で学生生活を謳歌している周囲の人間に比べれば、目的意識の強さや、抱えている事情やその夢にかける意志の固さは誰よりも大きいと自負していた。
だが目の前の少年の告白を聞いたあとでは、その理由も、その思いの下で鍛え磨いてきた槍の技もひどく軽薄なもののように思えて――
「それは違う」
萎んでいく声に、きっぱりとした断定の言葉が投げかけられる。ぶれることのない確かな響きに、セルフィーネは再び少年へと目を向ける。
真剣さを増した黒い瞳の輝きに、セルフィーネの身が思わず引き締まる。
「君と初めて出会って槍を繰り出す姿を見たとき、感動した。そして今日君の槍と実際に向き合って刀を……そして拳を交わしたとき、この実力に至るまで君がどれほど鍛錬に身を打ち込んできたのかが改めて分かった。そこに込められた思いが、決して生半可なものじゃないってことも。それから君が剥き出しの闘志のまま放った、『強くなるんだ、敗けたくないんだ』っていう気持ちも痛いほど伝わった。
今の君が持つ槍の技量、その源になる思いを蔑ろにすることも、卑下することも決して許されない。それは君自身であってもだ」
セルフィーネへと言い聞かせるように、春翔は幾分か厳しい声音で言う。春翔の声に――セルフィーネのことを心から思って言ってくれた言葉に、セルフィーネは目の覚める心地を覚えた。
「……まあ今の今まで自分のこと認められずに、ウジウジグダグダ悩んでいた俺が言っても説得力ないかもだけど」
真剣な表情から一転して、きまりが悪そうに視線を逸らして頬を掻く。コロコロと違う表情を見せる春翔の姿に可笑しさを覚えると同時に、先ほどの言葉がセルフィーネの胸の中で温かく響くのを感じた。
自分を倒した目の前の騎士が、セルフィーネの槍と思いを尊重してくれたことが本当に嬉しかった。
「……聞いていただけませんか? 私の、強くなりたいと思う理由――殿堂騎士を目指す理由を」
その言葉は、セルフィーネの口から無意識に滑り出していた。そのことに少なからず驚きを覚えるものの、少女はそれが当たり前なのだと訳もなく、けれど自然に思えた。
最後まで真剣に向き合い、その記憶も抱える弱さも打ち明けてくれた少年に。
そして自分の実力も覚悟も認めてくれた春翔に、知ってもらいたかった。
驚いたように目を丸くする春翔だったが、やがて優しげに目を細めて。
「いいよ。俺で良ければ」
快く了承する言葉を聞いて、セルフィーネもまた、これまで自身が歩んできた道程を述懐した。
「えっと、こういうこと本当は言っちゃいけないんだろうけど――」
セルフィーネが語り終え、しばらく瞑目していた春翔は呟くように言葉を漏らす。小さく抑えられた音量は、間違いなく熱を孕んでいた。
「君と君のお母さんと、医者の先生以外、話に出てくる奴ら揃いも揃ってみんな屑じゃねえか……!」
吐き捨てられた言葉に、セルフィーネは苦笑を漏らす。
「シュテルンノーツ家にとって母や私は厄介者なんです。そんな中、母は幼い私を育てるために、あの家で身を粉にして懸命に頑張ってこられました。でも過度の心労によって、今ではお体を悪くされて……。
母があの家で療養させてもらえているのは、偏に私が精霊騎士であるからです。騎士となった私を利用するために、あの家は辛うじて母を置いてくれているんです。
叔父様や叔母様によって、遠く離れた日本の精霊騎士学校に通うこととなりましたが、ここで実力を身に付けて殿堂騎士を目指せば、あの家の中でも母を守れるくらいに強くなれるんです。それが私の、高みを目指す理由です」
「母がどれだけ尽力しても、頑張ってこられても、その努力はあの家では認められませんでした。
だからいくら頑張っても、足掻いても、認められなきゃ意味がないんだって頑なに思っていました。私も誰もが認めざるをえないくらいの実力を身に付けなきゃって、ひたすらに槍や魔法を研鑚してきました。してきたつもりです。
そんな私だったから、君の言葉がひどく真直ぐに突き刺さったんです。足掻こうと必死に行動すること、その積み重ねは無駄じゃない。本当は私もそう思いたいんですけど、それでも認められなきゃ、結果として出せなきゃそんなの意味がないんだってどこかで思ってて……」
尻すぼみ気味に声が小さくなり、やがて二人の間に静寂の帳が落ちる。その空気に耐え切れず、セルフィーネはきまりが悪そうに微笑みを張り付けて、
「長々とごめんなさい。こんなお話をするのは、君が初めてで。その、えっと……」
どう続ければいいのか、そしてここまで話して自分がどうしたいのかも明確に分からずに、セルフィーネは戸惑いを隠せない。そんな少女に向けて。
「シュテルンノーツさん」
春翔の声が届けられる。落ち着いた声音に、セルフィーネは耳を傾ける。
「君の強さを求める理由、君の考えは分かった。多分君からすれば、俺の言葉は薄っぺらく聞こえたんだと思う。でも」
揺れることなく見つめ続ける眼差しが、セルフィーネの意識を縫い付ける。
「俺は自分の考えを曲げるつもりはない。足掻いて、積み重ねることを無駄だなんて思わない。それに君のお母さんのことだってそうだ。君は誰からも認められなかったからって、体を壊すまで必死になったお母さんのこれまでを否定するのか? 全部無駄だったって言い切るのか?」
「そんな……そんなこと……!」
「ないでしょ? どれだけ周りから蔑まれて罵倒されても、お母さんは多分、君のためだから耐えられたんだと俺は思う。だから君がそれを分かっていれば、君がお母さんのこれまでを無駄じゃないって思っていれば、今はそれでいいと思う。
今は苦しいだろうけど、君が強くなって、いつか殿堂騎士になって、誰にも負けないくらいの実力も発言力も持って。そしてお母さんと一緒に、誰にも文句言わせることなく堂々と暮らせるようになれれば、きっとこれまでのことは無駄なんかじゃないって心の底から言えると思う。
故郷から遠く離れたこんな場所で、大切な家族のために一人で頑張ってきた君のこと。俺は心から尊敬するよ」
ほぐれた表情で言う春翔の声音はどこまでも優しげで、そして純粋だった。
(私は、なんでこんなに嬉しいんだろう……)
胸の奥に生じた温もりと頬を染める熱の原因を、他者との交流の乏しかったセルフィーネは嬉しさによるものと誤解した。
今感じている胸の晴れやかさも、自分の思いや実力を誰かの声にして認めてもらうことの喜びも、生まれて初めての感覚だった。
他者と頑なに関わりを持とうとしなかったこの三年間では、抱いたことのない心地良さだった。
――『友達をつくれ』! この一言に尽きる!
唐突に、椿が口にした言葉を思い出す。もしかしたら今抱いているこれが、自身が前に進むために必要だと椿は言いたかったのだろうか。
(桜咲先生がどこまで考えてくださっていたのかは分からない。でも……!)
今この瞬間を、そして新しく生じた直感に似た衝動を大事にしたいとセルフィーネは思った。
「桜咲さん、あの!」
上擦りそうになる声をどうにか制御して、目の前の少年に言う。突然音量の上がった声に名を呼ばれ、その瞳が驚きに丸くなるのを見る。
唐突にこんなことを言われたら迷惑かもしれない。
拒絶されたとしたら、どうすればよいだろう。
不安と緊張に押し潰されそうになりながらも、セルフィーネは意を決して言った。
「私と、お友達になっていただけませんか!?」