第7話:あるいは昔話と、寂しがりな少女が踏み出す新たな一歩⑤
「泣いている優華抱きしめてて思ったんだ。今も世界のどこかで、厄霊のせいで俺たちみたいに悲しい思いしている人が居るんじゃないかって。目の前の優華みたいに、痛いくらいに泣き続けている人がこの瞬間にも生まれてるんだって。それが俺には耐えられなかった。そんな人たちを、助けられるようになりたいって思った。
優華が騎士になりたいっていう理由が俺と同じだったことが分かって、本当に嬉しかった。
その日の夜は二人して泣いて、いつの間にか寝てて。気付いたら朝で、最初に起きたのは俺。優華の寝顔が、すごく穏やかで。すぐに起きた優華が『おはよう、ハルちゃん』って言ったときの笑顔が本当に綺麗で……」
その記憶は、少年にとってとても大切な宝物だった。ともすれば惚気ていると思わせるくらいの照れくさそうな笑みを浮かべて、春翔は頬を掻いた。
多幸感に耽っていた理性はやがて、この場に居る第三者の存在を思い出す。ハッとした表情で隣に目をやれば、小春日のような、静かで穏やかな温もりが少女の表情に宿っているのを見た。
幼気な子どもを見るのに似た視線と笑みに、春翔は頬に熱が行くのを感じた。
誤魔化すように小さく咳払いをし、自身のヴィジホンを取り出して操作しながら告げる。
「俺たち兄妹は一つの約束を立てた。騎士になる理由。俺たちが強くなりたいと思う理由。
『自分たちのように、厄霊のせいで涙を流す人たちが居なくなるように。その悲劇から救えるように。そして、誰もが笑顔でいられるために』
それからは椿さんと燈華さん――桜咲の本家に住んでる、椿さんや俺たち兄妹のお師匠さんに、剣術を習うようになった。この二人には、どれだけ感謝しても、一生かけても返せないくらいの恩がある。
椿さんなんか『国境なき騎士団』をすぐ辞めて、日本の国防隊所属になって。それでも忙しそうだったけど、時間あるときは俺たちの稽古見てくれたり、一緒に過ごす時間を多くしてくれたり、本家の燈華さんのところに連れてってくれたりしたんだ。
そんな二人の下で俺たちはお互いに励まし合って、少しずつ前に進もうと頑張ってきた。これがそのときの写真」
投影ディスプレイをセルフィーネへと向けようとした春翔だったが、それよりも先にセルフィーネが動いていた。微妙に空いた隙間を詰めて、身を乗り出すように体を寄せてディスプレイを見ていた。
距離が縮まり、否が応にも心臓が跳ね上がる。
視野一杯に広がるセルフィーネの端整な横顔。
少し動くだけで触れそうな、自身よりも小柄で柔らかそうな肢体。
控えめでありながらも確かに漂う香りは、柑橘を思わせる爽やかさと甘さを乗せて、春翔の鼻腔を温かく蹂躙する。
緊張でどうにかなってしまいそうな春翔であったが、少女の瞳に宿る真剣な輝きとその視線にどうにか平静を繋ぎとめる。そしてその視線の先にある、何度も見返した写真へ改めて視線を戻した。
画面に映し出されてしたのは、二人の子どもと一人の妙齢の女性。紛れもなく幼き日の春翔と優華、そして若かりし日の桜咲椿その人だ。和式の引き戸を背に、三人とも道着姿を見に纏っている。
幼い日の自身は、口の端と端を両手で引っ張って思いっきり『いーっ!』と叫んでいる表情を見せていた。端的に言えばアホ面であり、二、三か所歯が抜けているところもまた間抜けさを増長させる。
優華は隣の兄の様子に、目一杯笑い声をあげているところだった。三つ編みに結んだ黒髪が、お腹を抱えるほどの大笑いのせいでお転婆に跳ねていた。
椿はそんな二人に目をやり、呆れながらも穏やかな表情で見守っていた。
「可愛らしい方ですね。それに桜咲先生もやっぱりお若い……今も十分若々しくてお綺麗ですが」
「だろ? なんせ俺の自慢の妹だからな。椿さんはあれだ。若作りしてるだけ。ああ、適当にスライドして見ていいよ」
澄み輝く碧眼が、優しげに細められる。おどけた色を宿す春翔の声音に、セルフィーネは小さく笑い声を零した。
セルフィーネはディスプレイへと手を伸ばし、華奢な白指がその上を撫でる。その度に画面が切り替わっていく。
剣道の防具を身に付け、竹刀を構える兄妹。
勝気な笑みを浮かべ、両隣の兄妹の首に腕を回す椿。
疲れ切ったように、でもどこか満ち足りた表情で、道着姿のまま床で眠る兄妹。
その他にも私服姿や旅行先で撮影されたであろう写真も数枚あった。
「とても仲のよろしいご家族なんですね……」
一通り見終わったあと、セルフィーネは緩んだ調子で呟いた。
「うん。喧嘩したりもするけど、みんな大事な家族で。そして優華は剣のライバルであったけど同時に、俺の命よりも大事って言える存在だった。強くなって、ずっと守っていくんだって心に誓っていた。そう思って、いたんだ……」
表情に翳りを忍ばせ、眼差しも俯き気味に次第に沈んでいく。そんな春翔の変化に、セルフィーネもまた表情を曇らせた。
「優華さんも、亡くされたんですね……」
悲痛な響きに対して答えを返すことなく、春翔は瞑目する。寄せられた眉根は深く、決して短くない時間を、春翔は沈黙する。
再び開かれた瞳は、しっかりとセルフィーネに向けられた。
「これから話すことは、幼馴染の奏にだって話したことはない。いずれあいつには話そうとは思ってるけどね。それにこれは、俺だけじゃなくて椿さんにも大きく関わるんだ。これがもし外部にばれたら、下手すりゃ殿堂騎士の資格すら失いかねない」
「……え? あの、それってどういう――!?」
世界最強の七人の精霊騎士、殿堂騎士。
それは人類が持つ、厄霊に対する最終にして究極の剣であると同時に、その絶対的な戦闘力から、世界の軍事面だけでなく政治面においても圧倒的な影響を及ぼす。
そんな殿堂騎士の一角が失脚する可能性のある内容など、それこそ最重要国家機密として扱われるべき情報だ。春翔の口から放たれた爆弾に、セルフィーネは驚愕の声を上げるが、
「聞いて」
視線に込められた切実さと声の重さに中てられ、セルフィーネは口を噤む。
「それくらい重い話なんだ。だからさっきその……俺が警戒したのは、これが理由。だからシュテルンノーツさん。約束してほしい。今の話を聞いてもなお知りたいっていうなら、これから話すこと、絶対に誰にも言わないって」
青い瞳が、頼りなく揺らぐのを春翔は見た。けれどそれはすぐに、覚悟を持った輝きに変わる。
「約束します。だから、お願いします。私は知りたいんです。君がどうして剣を捨てることになったのか――それを乗り越えてなお、どうやってそれほどの強さを手に入れられたのか」
真剣な表情と眼差しを、春翔はとても清らかだと思った。そのような思いを向けられるのが許されないくらいに自身は弱いと自覚しつつも、
「……分かった」
目の前の少女に応えるべく、春翔は低く重い声で了承した。
「殿堂騎士になるための最低条件は分かるよね?」
「はい。Bランク以上の災害級を単騎で討伐すること」
「そう。今から6年前、神奈川県に出現したBランク相当の厄霊一体を倒したことで、椿さんは殿堂入りに挑戦する資格を得た。
犠牲者数42名、負傷者100名以上。災害級を単騎で相手取ってここまで被害を抑えられたってことで、より一層、椿さんに対する世間の評価は高くなった」
「そのニュースは私も知っています。桜咲先生は私が最も尊敬する精霊騎士で、憧れで、そして目標とする方ですから」
「そっか。じゃあさ、そのニュースではどんな厄霊だったって書かれてた?」
「それは……えっと確か、危険度の高さにしては珍しい人間型であったと……」
「表向きには、ね……」
春翔の言葉に、セルフィーネは戸惑いを顕にする。
「犠牲者の中には、君の言う通り優華も居たんだ」
セルフィーネの表情に浮かぶ疑問をあえて無視するかのように、春翔は先ほどのセルフィーネの言葉に対する肯定を言った。
「そう、だったんですか……」
高位の精霊騎士ともなれば、協会や政府からの個人情報保護レベルは高いものとなる。そのため椿の姪がこの事件で亡くなったことを知らなかったセルフィーネだが、驚愕の度合いはそれほど大きくない。けれど先ほど写真を見た後では、椿と春翔の悲しみが痛いほどに共感できた。
そうして愁傷の念を伝えようとしたところで。
「うん。そして、そのときに現れた厄霊は人間型じゃない。憑依型だった」
「憑依型……!? そんな、ありえません! 憑依型でそこまでの危険度に至るなんて……!」
今度こそ思考が驚愕に塗りつぶされ、思わず否定の言葉をあげる。そして、
「ちょっと……待ってください。まさか、そんな……!?」
春翔が発した文脈から導き出された、あまりにも救いようのない結末の可能性に思い至り、セルフィーネは鳩尾を打たれたかのごとく息を詰まらせた。
「桜咲先生が討伐したのは、厄霊に憑依された優華さんだったんですか……!?」
自分の言葉を、全力で否定してほしい。そんな思いと共に。
千切れんばかりに表情を強張らせて、セルフィーネは目の前の少年へと告げる。
「違うよ」
春翔から紡がれた否定の言葉は、しかし、セルフィーネの想像よりも遥かに凄惨な悲劇を紡ぐ引鉄となった。
「椿さんじゃない。厄霊に憑依された優華に止めを刺したのは、俺だ」
その声や瞳からは最早、色は消え失せていた。
言葉を失うセルフィーネから、春翔は再び正中を外し、指を絡ませるように手を組む。
その様はさながら、両手を差し出す咎人を思わせ。
「八月入ったばかりのその日は椿さんが仕事で居なくて、家には俺たち兄妹だけだった。庭先で一緒に鍛錬してた。
秋なんてまだまだ遠い時期だったはずなのに、その日の夜は、やけに肌寒い風が吹いてた……」
黒い瞳に底なしの虚無を宿して、少年は再び語り出した。
「「――498! 499! 500!」」
二人で声を重ねながら素振りを行い、二人揃って息を長く吐く。
兄妹はスポーツウェア姿で、自宅の庭で鍛錬を行っていた。
「あー! 疲れた! 汗ヤバい!」
手にしていた竹刀を放り投げ、春翔は乱暴に額を拭う。ボーイソプラノの声は、情けないほどにくたびれている。
「ハア、ハアッ……ハルちゃん、お風呂、どっちが先に入る……!?」
小さく可愛らしい顔に似つかわしくない疲れ切った表情で、息も絶え絶えに優華は言う。
「そうだなぁ……やっぱじゃんけんか? なんなら一緒に入った方が早いんじゃね?」
「な、なにおバカなこと言ってんの!? 疲れているからって頭おかしくなりすぎでしょ! この変態! スケベ! ロリコン!」
「はぁ!? ふざけんなお前みたいなチンチクリンの体見てもなんとも思わんわ! お前こそ頭沸いてんだろ!」
「あー! れでぃに向かってなによその言い方! ひどいひどすぎる! ハルちゃんのバカ! バーカ!!」
「なぁにが『れでぃ』だ馬鹿馬鹿しい! 鏡見てからもう一度言えこのアンポンタン!」
「フンだ! だって私、ハルちゃんと違ってモテるもん! 今日だって2組のジュンくんと4組のマサキくんにデート誘われたんだもん!」
「よしそいつらのフルネーム教えろ明日俺が締めてくる」
「いきなり声のトーンをガチにしないでよこのシスコン!」
近所迷惑なぞ知ったことかと、兄妹喧嘩を繰り広げるが。
「ヘックション!」
優華が盛大に、可愛らしくクシャミをした。
「……ちょっと風出てきたね。少し、肌寒いかも」
肌を擦りながら言う妹に、春翔は小さく溜息をつく。そして上着を脱ぎながら優華に近付き、
「これ着けてろ。無いよりはマシだろ」
ぶっきらぼうな口調であっても、響きに優しさを滲ませ、優華の小さな体に上着をかけた。
「……汗臭い」
「悪かったな。文句あるなら返せ」
不満を示す言葉に、羽織らせた上着を取り返そうと手を伸ばす。けれどそんな手から逃れるように、優華は軽やかな動きで後ろにピョコンと跳んだあと、
「でも、あったかい。ありがとね、お兄ちゃん」
小憎たらしい言葉を垂れ流していたときとは打って変わって、とても幸せそうにフワリと笑みを浮かべて言った。
「……おう」
「あー、照れてる照れてる」
「うっせ! 早く部屋入って……ブエックショイ!」
上着を脱いでインナーだけになった春翔は、豪快な――どこかおっさん臭いクシャミを放った。
「もう、恰好つかないなあ」
「うるせぇほっとけ! それにしても、なんでこんなに肌寒いんだ……?」
クスクスと笑いながら言う優華に、春翔は噛みつくように言葉を放った。そして急激に姿を現してきた冷気に訝しさを感じる。
時刻は19:00。日中は八月初旬に相応しく茹だるような猛暑であったにも関わらず、鍛錬に夢中で気付かなかったが今は秋口と思えるほどの、湿り気を帯びた冷風が吹いていた。
「早く家の中に入ろう。風邪ひくといけない」
そう言って春翔は、優華の手をひいて家に向けて歩き出そうとした。
それを遮るように。
「ハルちゃん、空が……」
「空?」
上を見上げる優華の言葉に、春翔も空を見上げる。気付けばそこには、黒々とした雲が不気味な質感を伴って視界一杯に広がっていた。驟雨の雲と呼ぶにはその色や形、圧迫感があまりにもおぞましかった。
「早く入ろう。どしゃ降りになるのかもしれない。濡れない内に――」
空から視線を優華に戻し、胸に生じた焦燥に掻き立てられて言葉を紡いでいた春翔は、最後まで言い切ることができなかった。
同じように空から視線を戻した優華は、春翔を突き飛ばしていた。予期せぬ衝撃に踏鞴を踏んで、春翔は今まさに倒れんとしていた。
その直後だった。
時間がどこまでも引き延ばされたように、その光景がひどく遅く展開される。
離れ行く距離。
必死な形相の優華。
そんな彼女目掛けて、闇色の光としか形容できない『ナニカ』が落ちてくる。
「優華――!」
安心したように薄く微笑む妹へ手を伸ばす。けれど同じ結末を――それが届かないという経験を、春翔はすでに味わっていた。
その状況は、両親を乗せた機体が目の前で沈んでいくあの日の光景にどこまでも重なった。
『ナニカ』は優華へと降り立ち、天空へ向けて黒い光の柱が伸びる。そして間髪入れずに爆風が春翔を襲う。もともと崩しかけていた体勢であったため、幼い体はあっけなく吹き飛ばされ壁に叩きつけられた。
「がはっ!」
地面へと落ち、痛みで意識が朦朧とする。霞みゆく視界の中、懸命に優華へと視線を向ける。
爆発が起きたかのように、周囲は吹き飛ばされていた。そして極光が徐々に薄れ、最後にはその中心に、黒い獣が現れた。
獣だと誰もが断ずるだろうその姿のそれを、春翔は優華だとすぐに認識した。四肢はどす黒い獣のそれへと変え、肌は全身の皮膚が焼け爛れているかのように赤黒い。
けれど幼い少女の体と、マグマの光で明滅する葉脈に彩られ、双眸に鮮血の色を宿したその顔は、紛れもなく優華だった。
共に過ごしてきた、そして命を賭してでも守り抜くと決めた愛しい少女だった。
「優……華……」
掠れた声で名を呼び、虚ろな表情を見せ続ける優華へと手を伸ばすも、その声も手も届くことなく。
春翔の意識は闇に落ちた。
肌を焼く熱風。鉄錆の匂い。夜闇でうねりを上げる悲鳴と泣き声。
果たしてどれがきっかけであったのか定かではないが、春翔は目を覚ました。未だに痛みを主張する体を無理矢理起こし、辺りを見渡す。
「――っ!?」
酸鼻極まるその光景に、吐き気をこらえるように口を押えた。
至る所で劫火が生き物のように揺らめいていて、いくつかの火柱の中から人が吐き出される。全身を炎に包まれた彼らは、下手糞なステップを刻むようにのた打ち回っていた。
内臓を外に撒き散らして伏せる女性の傍ら。血で汚れることを厭うことなく泣き叫びながら、もう動かない母の体を揺すり続ける子どもを見た。
視界には映らないどこかの場所。倒壊した家屋から家族を救おうとしているのだろうか、男が助けを請う声を聞いた。
そしてそんなものは些事であると言わんばかりに、似たような惨憺たる場面が――それらが作り出す絶望が渦巻いていた。
「なんで……こんな……!」
目の前に広がる地獄のおぞましさに身を震わせ、力無く言葉を零す。
「うそだ……まさかこれ、優華が……!?」
直後に遠い場所で数度の爆発と、剣戟のような金属音を聞き取る。直感的に春翔は、半ば倒壊しかけた我が家に身を乗り出す。
探し物はすぐに見つかった。
桜咲流剣術を学ぶにあたり、燈華が兄妹に餞別として渡してくれた刀。優華の分は見つからなかったが、己のものを見つけるとすぐに、春翔は地獄の中を駆けていった。
駆けたその先に居たのは、二人の家族。
魔獣と呼ぶべき異形と、それに相応しい獰猛な唸り声をあげる優華。
血走ったその視線の先には。
鎧も煌翼も無残に傷つけられて、悲しみの涙を流している椿の姿があった。
Tips:厄霊の型について
厄霊は危険度によって級分けがなされる。だがそれとは別に、『世界』に現界する際の姿によっていくつかの型に種類分けされ、主に、
幻獣型
野生型
人間型
に分けられる。
型と級とに明確な繋がりはないとされるが、一般的に幻獣型、野生型の方が危険度は高くなる傾向にある。
そして危険度に関係なく、迅速な対応を求められるのが憑依型。その理由は――