第6話:あるいは我武者羅な初陣と、手にする力の名は⑱
「……ありがとう、燈華さん。ここまで怒ってくれて。優華を殺した俺を、ここまで思ってくれて」
胸倉を掴みあげられ、幼い身体が宙に浮かんばかりに引き寄せられる。
恐怖を感じていないはずがなかった。
寒気に襲われているように震え、瞳もその声も揺れている。
それでも紡がれた春翔の言葉に、燈華は慰めの言葉をかけてやりたいと思いながらもこらえ、文字通り心を鬼にして告げる。
「答えになっておらんぞ春翔。桜咲の剣を、刀を捨てる。戦う道を諦める。お前に許されているのはその言葉しかない。儂が本気でするわけないと高を括っておるのか? たとえお前であろうと、儂は――」
たとえ一生怨まれ憎まれることになるとしても、優しすぎるその心を救うためならば、その幼い四肢を砕く覚悟はあった。
非常に徹した冷酷な声でそう告げようとした燈華を。
胸倉を掴みあげる両手に伝わる温もりが妨げる。春翔が燈華の手を握りしめていた。たとえ春翔が力一杯に握りしめ逃れようとしたところで、それは燈華にとって羽虫が止まるのと大差ない感触だ。だがそこに込められたその小さな力は、その熱さは、燈華の口を噤ませるほどの固い意思を宿していた。
「だけど、ごめんなさい。俺は強くなりたい。騎士になりたい。優華との約束を、俺は守らなきゃいけないんだ……!」
潤んだ瞳で、そして震える声でありながらも確かに告げられた思い。
本来であれば、ここまで高められた鬼の怒気に当てられれば言葉すら出てこられないはずだ。ましてやそれに否定の言葉をかけようなどと、本能が決して許さないはずだ。現に椿も言葉を発することができずにいる。
だが目の前の少年は、全身を震わせる恐怖に苛まれながらもその意思を頑なに曲げようとしない。
「……何故じゃ? 何がそこまでお前を駆り立てる? 贖罪のつもりなのか? 何度も言うておるじゃろうが! お前のあの行動は仕方なかった! 儂や椿だって、誰もお前を責めたりなんか――」
「ここで逃げたら!」
春翔の口から、叫びが放たれる。その瞳からはとうとう涙が溢れ、頬を伝い燈華の手に落ちる。
「ここで逃げたら、ここまで俺と優華に向き合ってくれた燈華さんと椿さんとの日々も、優華と一緒に剣の腕を磨いてきたこれまでも、全部無駄になる! それに優華に言ったんだ! あの日の約束忘れないって! 俺一人になったとしても、俺たちみたいに厄霊のせいで悲しむ人たちが一人でも居なくなるように頑張るからって……!」
両親を一度に亡くし、春翔と優華が椿のもとに引き取られてから、燈華は二人から強くなりたいと思う理由を、その約束を何度も聞かされてきた。
――自分たちのように、厄霊のせいで涙を流す人たちが居なくなるように。その悲劇から救えるように。そして、誰もが笑顔でいられるために。
人の身はおろか、人外として長い時を生きてきた燈華でさえ叶えることのできない、大きすぎるユメ。誰もが一度は夢見るそんな御伽噺に似た言葉を、心のどこかで子どもの言うことだと聞き流していたのかもしれないと燈華は思う。
涙を零し、震えながらも真っ向から燈華を見つめ上げる黒い瞳に、この兄妹が最初からどれほど固い覚悟と真剣さを以てそのユメを口にし続けたのかを、燈華はここに至ってようやく理解させられた。
「俺は! 叶えなきゃいけないんだ! あいつが心から願っていたユメを、他の誰でもない、一緒に誓い合った俺が果たさなきゃいけないんだ! 残された俺が、優華を殺して残ってしまった俺が!」
「それに、俺も信じてる! この願いは間違ってなんかないって! 誰かを助けたいっていう思いが、一つでも多くの笑顔が見たいっていう俺たちの約束が、決して間違いなんかじゃないって……!」
「――っ!」
己が存在全てをかけて放ったと言わんばかりの叫び。その言葉に、銀髪の鬼は目を剥いた。
「だか、ら、お願いします燈華さん……。俺に、戦う術を教えてください……。強くなりたいんです……! 刀を握れなくなったとしても、俺は戦わなきゃ……っ、優華を殺した俺には、もうそれしか、残されていないから……。刀を握れって言うなら、絶対に、また振れるようになってみせる、から……!」
最後はしゃくりあげながら、涙に濡れた響きで思いを告げた。
刀を振れなくなっただけで、止まることなどありえないと。
生きている限り、二人で誓い合った約束を貫くのだと。
そのために強くなりたい。
刀を握れないのなら、武器などなくても戦いたいと。
最愛の妹を殺したという、幼い少年には到底耐えることのできない傷。それを否応なしに思い出させる刀でさえも、必要ならば向き合ってみせると。
そして。
(間違っていない、か。あのときのあいつの言葉、まさかここでまた聞かされるとはな……)
遠い記憶の彼方。かつて同じ言葉をかけてくれた男を、燈華は甘い憂いと共に思い出す。
掴んでいた胸倉を無造作に離す。それまであった支柱を失い、幼い体はあっけなく崩れ落ちた。
「ハル……!」
それまで言葉を発することのできなかった椿が、春翔の身体を抱きしめる。咳き込み、泣きじゃくる春翔を包む彼女もまた、その瞳から溢れるほどの涙を光らせていた。
「ほんと、度し難いほどの阿呆じゃなお前は。どれだけ大層なことを言ったところで、素手で何ができる? 刀を握れずに何ができる? 厄霊を倒して誰かを救う? 誰もが笑顔になれるように? 儂や椿ですら難しい、叶えられぬ願いを、お前ごときが背負うじゃと? 笑わせるな糞餓鬼。肉親とはいえ人っ子一人殺しただけで這いつくばってるような奴が何をほざくか」
容赦なく吐き捨てられる言葉に、春翔は項垂れ、椿は怒りを込めた視線で燈華を見る。
「いつまでそこに蹲っている? 立てハル。お前が稽古つけろと言うたんじゃろうが」
だが続く燈華の言葉に、椿の目から怒りが消え、困惑に支配された。春翔も予測していない言葉だったのか、涙を浮かべた瞳で燈華を見上げる。
「……勘違いするなよ? どれだけ言おうが分からぬこの馬鹿に、自分が言っていることがどれだけ阿呆で無謀で愚かなことなのか、自分で分かるまで、自分から諦める気になるまでとことん叩きのめすだけじゃ。椿」
「――っ、はいっ!」
唐突に名を呼ばれ、応答する椿の声は硬く、遅れたものとなる。
「今回の一件でお前には殿堂入りへの打診がくるはずじゃ。忙しくなるじゃろうが、暇があればお前もこいつの稽古に手を貸せ。これまで通り、一切手は抜くな」
冷たく放つ言葉ではあったが、椿はそれに確かな敬意を込めて応答した。
燈華が春翔を見つめる。涙に濡れたままの瞳は、先ほどまではない光を宿していた。
「お前の我儘に付き合ってやろう。じゃが、これまでとは比べるべくもない地獄を見ることを覚悟せよ。弱音泣き言、一切許さん。
騎士を目指すために強くなる、お前のその選択肢を認めたわけでもない。これから先、儂は何度も否定してやる。それでもなお歩み続けると言うのであれば――」
大好きな家族に、もっと穏やかな道を歩んでほしい。
傷つくと、苦しむと分かり切った道に進ませたくなどない。
けれど。
「儂に示してみろ。お前の覚悟、その固さと強さを。人の身に過ぎたるその大層な願い、背負うて進んでみせると……!」
見下ろす視線の先。
涙に塗れた少年は、それでも確かな決意を表して。
「ありがとうございます。これから先も、よろしくお願いします……!」
「そして音をあげることなく、本当に精霊騎士なんぞになるとは。あいつの頑固さは、果たして誰に似たのやら……」
屋敷の縁側に腰掛ける燈華は、悪態じみた言葉にそぐわない穏やかな表情で庭を見つめていた。夕暮れ時に差し掛かろうとしている太陽は、その光に朱色を織り交ぜ始めていた。
「儂が夢を見るとはな。何十年ぶりかの?」
うたた寝で強張った体を、気まぐれな猫のように伸ばす。
「自分で見つけなければ意味のない、資格云々は関係ないとは言うたが。ここまでハルのことを散々痛めつけて否定してきた儂が、これまでの日々を認めろだなんて言えるわけもないわな。
それこそそんな資格、椿以上に儂に許されているわけもない」
春翔の迷いも、必要な言葉も、燈華はとっくに知っていた。
けれども燈華は言えなかった。
これまでどれだけその幼い体を容赦なく叩きのめしてきたか。
戦いたいという意思を否定し、諦めろと言い続けてきたのか。
そんな自分にこそ、この言葉を春翔にかけるのは許されていないと燈華は自嘲する。
「刀を満足に振れないことに苛立ちながら。素手の戦い方を磨くことが、自分の罪から逃げていることになるのではないかと迷いながら。そしてどこまでもあの日の選択を後悔し、苦しみながら。
儂の言葉やしごきに堪えて、ハルはここまで挫けることなく歩き続けてきた。あの不器用さも、直向きなところも、優しさも。今までの孫たちの中で、やっぱり一番お前様に似ているよ」
苦笑し、遠い目を向ける燈華の雰囲気は、慕情に身を委ねる女そのものだった。
「助けたいと思う心は間違いなんかじゃない、か。まったく、ハルのくせにあやつと同じことを言いおってからに……」
拗ねたように嘯く燈華は、後ろを向いて部屋の中の、童謡に歌われるような古時計へと目を向ける。和室の雰囲気に似つかわしくない西洋風な趣のそれは、不思議なことに自然にその部屋へと溶けこむほどに、静かに時を刻んでいた。その時計が指し示しているのは、5:07.
「そろそろ試合が終わるころか。はてさてどんな結果になることやら」
温かな声で言う燈華は、遠い空の下で我武者羅に戦っているであろう春翔へと思いを馳せ、静かに微笑んでみせた。
5:00ごろまた投稿します。