第6話:あるいは我武者羅な初陣と、手にする力の名は⑤
道場の床に膝をつけ、倒れ伏すことだけはないように左手で体を支える。
右手は自身の胸にあて、暴れ続ける心臓を抑えんとしていた。
荒い息を繰り返しているものの、それでまともに酸素を取り込めているのか分からない。頭痛と眩暈によって平衡感覚すら覚束なくなり、見慣れたはずの道場の床板が、ひどく滲んだもののように少年には見えた。
「ハル、落ち着いて。大丈夫だから……」
椿が傍らで、道着姿の春翔の背中を何度も擦る。幼い日の春翔の姿は、見た目の小ささ以上に弱々しく、憐れだった。
そんな春翔を、数歩離れた場所から立って見下ろす銀髪の美鬼。
着崩した和装は普段と変わらなかったが、右手には竹刀が握られていた。脱力したように下ろされていたが、そこには微塵の隙もない。そうして燈華は、這いつくばるような姿勢の春翔に対して目を細め。
「諦めろハル。もうお前に、桜咲流の剣は使えない」
冷たく放たれた言葉を受けて、春翔は燈華を見上げる。無表情に春翔を見つめるその姿は微動だにせず、美しくも無機質なその冷たさに、春翔は絶望を覚えた。
「燈華さん、そんな!」
苦しみ倒れそうになっている春翔にかけられた容赦ない言葉に、椿は庇うように非難の声をあげる。けれど燈華はその声など気にも留めていないように、春翔を見下ろし続けるだけだ。
「刀はおろか、竹刀や木刀を握るだけでこのザマじゃ。よいかハルよく聞け。お前はあの日、優華を手にかけたことで、お前自身の剣を呪われたものにしてしもうた。その結果が、今のお前の姿じゃ。もうお前に、桜咲の剣を教えたところで意味がない。握る刃は、お前自身を切り裂いてしまうじゃろう」
その声音に一切の感情を込めることなく、淡々と事実を突きつける。それに反論できないまま、春翔は燈華へと、呆然とした視線を向けていた。そうして燈華は踵を返し、後ろ姿を見せる。
「もうここで、お前の剣の道は終わるじゃろう。別の道を探せ。もともとお前に荒事は向いとらん。お前は、優しすぎる」
春翔を見ることもなく言い放ち、そのまま道場をあとにしようと歩み始める。それを見た春翔は俯き、固く目を瞑って。
「いやだ」
声変わりを終えていない高い声で、か細く、けれど確かに自身の意思を口にする。
その声に燈華は歩みを止めた。
「ハ、ハル……?」
心配するように声をかける椿に答えず、ゆっくりと、震えながら立ち上がろうとする。ふらつきそうなその姿に椿が手を貸そうとするが、春翔はそれを振り払うように、震える体を必死に動かして立ち上がった。
後ろ姿を見せ続ける燈華を、張りつめた表情で見る。余裕のない形相ではあったが、そこには確かな意思が宿っていた。
「刀が振れなくなっても、この体が在り続けるなら、俺は戦いたい。俺は、戦うための力が欲しい。強くなりたい。お願いします燈華さん。俺に、素手での戦い方を教えてほしいです」
そうして後ろ姿の燈華に、深々と頭を下げる。春翔のその姿を、椿は異質なものを見るかのように、動揺の色を濃くした表情で見ていた。
春翔の言葉を聞いた燈華は数秒ほど硬直していたが、やがて両の拳を、音が鳴るほどに強く握りしめる。右手に握った竹刀の柄が軋みをあげ、そして硬質な音をたてて砕けた。
再度振り向き、大股で春翔へと足を運んで、
「燈華さん! 何をするんですか!?」
燈華がその美貌を凄まじい怒気に歪ませ、春翔の胸倉を掴みあげていた。全身から放つ怒りは最早、物質的な影響を周囲に与えるまでに苛烈なものだった、白銀の長髪は無風の屋内においても嵐に曝されているように、壮絶に靡く。床板や屋敷全体が、燈華を中心にして悲鳴をあげるように軋んだ。
「黙っておけ椿!!」
止めようと動きかけた椿を、燈華の怒声とその視線が縫い止める。殿堂入りに手を伸ばしかける実力をつけた椿すら、初めて見る自身の師の鮮烈な怒りに、鬼の憤怒する姿に、体の自由を奪われた。
椿から視線を外し、それが春翔へと向けられる。殺意と呼べるほどに高められた怒気に、気絶してしまいたくなる。それでも春翔は燈華の視線から逃げることなく、震える体をそのままに、歯を食いしばって対峙した。
「刀が無理だから素手で戦うだと? 舐めとるのかお前、自分がどれだけ阿呆なことをぬかしておるのか分からないわけじゃなかろうなあ!?」
叩きつけられる怒りのせいで、心臓が止まるのではないかと春翔は思った。椿ですら身を竦める鬼の怒気だ。普通の少年ならば、一睨みだけで意識を刈られるだろう。
それでも。
怯えた表情を隠すことなく、けれども決して逃げることはなく、春翔は燈華の怒りを真正面から受け止める。そんな春翔の様子が気に食わなかったのか、燈華は不愉快そうに目を細め、
「優華を手にかけたこと、儂は責めるつもりはない。厄霊に憑かれた優華をとめなければもっと被害は出ておったじゃろう。優華自身を救うためにも、最早ああするしかなかったじゃろう。
じゃがな! 結果お前自身もこうして傷ついて、苦しむことになった! これ以上戦う道を進むのであれば、いつか同じ選択を迫られることになる! 多くを助けるために、一を切り捨て、その手で屠る場面に出くわす! その選択にお前の心はきっと耐えられない! それほどにお前の心は優しすぎる! いつかそうやって心を壊して精神が引き裂かれて、生きながらにして心のない屍になるじゃろう! お前のそんな姿を儂は見とうない、そのことが何故分からん!?」
絶叫として放たれる燈華の言葉に、床板がとうとうひび割れる。けれど凄絶なその声が、涙に濡れているように春翔は感じた。
春翔の胸倉を掴む両手にさらに力を込めて、燈華は突きつけるように告げる。
「戦うことを、ここで諦めると言え桜咲春翔。でなければ今ここで、最低限の生活を送ることしかできない程度に、お前の四肢を砕く」
冷たく研ぎ澄まされた怒気と言葉の内容に、椿が息を呑むのを春翔は感じ取った。
春翔もまた、自身の本能が悲鳴を上げているように、体の震えが止められずにいる。燈華の言葉に逆らえば、目の前の美鬼は本当に実行するだろうと、春翔は分かっていた。燈華がここまで言うのも、怒ってくれているのも、本当の意味で春翔自身のことを思ってくれているからだと、幼い春翔でも理解していた。
(それでも……)
譲れない思いがあった。
伝えなければならない覚悟があった。
例えこの場で四肢を斬り飛ばされたのだとしても、この命が続く限り、走り続けるしかない約束が、信念があった。
命の危険を覚える恐怖に震えながらも、それ以上に強い願いに突き動かされるように。
目の前の大好きな家族へと、春翔は口を開く――。
けたたましいベルの音に、春翔の意識が覚醒する。起きたばかりの脳のせいか、はたまた昨日の椿の稽古のせいか、体が鈍く重く感じる。それでも上体を起こして、主張を続ける目覚ましのベルを黙らせるべく、春翔は手を伸ばした。
「なんか、こっち来てから懐かしい夢ばっか見てるな。……相変わらず燈華さんはおっかねえな」
夢の中で見た自身の師の憤激に、思わず身震いする。そしてふと自分のヴィジホンを見やると、着信を告げるライトが明滅していた。ヴィジホンを手に取り、その送り主を確認すると、春翔は顔を強張らせた。
「げ、燈華さん……」
先刻まで見ていた夢の影響もあって、春翔は再度身震いする。そして数度呼吸を整えて、燈華から送られてきたビデオメールを開いた。
ディスプレイが展開され、燈華の姿が描出される。着崩している和装はそのままに、その周囲には日本酒の瓶が数本転がっているのが見えた。
「ようハル。元気にしとるか?」
機嫌よさそうなその姿は、春翔がよく知るものだ。だがそれでも、恐らく椿同様にお叱りの言葉を頂くに違いない。そう覚悟して、春翔は燈華の言葉の続きを待った。
「ほんとはこんなメールじゃなくてビデオ通話にしたかったんじゃが、さすがに時間も時間だったんでの。お前も寝とるじゃろうから、メールにしたのじゃ。
で、だなぁ……」
歯切れ悪くそう言うと、燈華は自身の髪を無造作に掻き毟る。自身の思うことをどう言葉にすればよいのかが分からないというような、そんなもどかしさが春翔にも伝わってきた。
「言いたいことというか、まあ小言はたっぷりあるのじゃが、椿にこってり絞られたようじゃしの、今ここで言うのはやめておこう。じゃから、儂が言うのは一つだけじゃ」
そうして燈華は真剣な眼差しで、それでも穏やかな優しい笑みを浮かべて。
「頑張れ、ハル」
「……っ!」
告げられた短い言葉に、息を呑む。そして目頭が唐突に熱くなるのを、春翔は感じた。
「勝ち負けなんて、気にせんでもいい。どれだけ無様でも構わない。お前が持てる全てを出し切ってこい。足掻いてこい。お前が今日この日まで貫いてきた信念を以て、戦いきってみせよ。そのあとで何か掴めたものがあったのなら、試合のあとで構わんから、儂に教えてくれ。
出来の悪い弟子に師が送る言葉としては、こんなとこかのう?」
照れくさそうに言う燈華の姿を、春翔は涙を流して見ていた。
春翔が告げた思いは、何度も否定されてきた。
間違っていると。
他にもっと穏やかで、傷つかない道があるのだと。
春翔の信念を叩き壊すかのような苛烈な稽古に、何度死ぬ思いをしたか分からない。
それでも春翔を最後まで見捨てず、椿共々、真正面から向き合い続けてくれた。そんな師から送られた激励の言葉に、心動かされないはずがなかった。
「ありがとうございます。燈華さん」
涙を拭い、画面の燈華へと頭を下げた。
試合への不安はある。おそらくまたあの日の記憶が、自身を縛る枷となるだろう。それでも、今この胸にある温かさがあれば、きっと乗り越えられるはずだと春翔は思った。
ヴィジホンのディスプレイを畳み、ベッドから起きる。そうして朝の鍛錬を行うために、顔を洗うべく洗面所へと歩き出した。
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