第6話:あるいは我武者羅な初陣と、手にする力の名は③
日本国立精霊騎士学校高等部に存在する、一年生から三年生の成績上位20名のみに居住を許された『黎明寮』。
建物の規模からして一般の学生寮と比較にならない。高等部の学生寮は男子寮・女子寮と分かれており、その二つを足してようやく、大きさだけなら並ぶだろうか。
内装ももちろん、部屋は一人で住むには有り余るほどに広く高級なものであり、寮内にはトレーニングルームやリラクゼーションスペースなども完備されている。資産家御用達の、高級リゾートホテルもかくやと思われるほどの設備だ。
今年度の高等部入学者主席であるセルフィーネ=レイリア=シュテルンノーツもまた、黎明寮に住んでいた。時刻は22:00。自室であるというのに、学校の制服を身に付けている。
視線の先には、ヴィジホンよりも遥かに大きい投影ディスプレイが展開されている。部屋に備え付けられている大画面の投影ディスプレイテレビであるが、今のセルフィーネはそれを用いて映像通信を行っていた。
画面の向こうには一人の男が、腕を組んで座っている。顔に刻まれた皺、日に焼けたように色褪せたブロンドヘアーからは、男が重ねてきた年月が窺える。老年と呼んで差支えないのだろうが、その佇まいは老人特有の、貧弱なそれとは正反対であった。
髪はオールバックにセットされており、若々しさに溢れている。顔立ちは精悍でありながらも無骨さや粗野といった言葉に堕ちず、気品すら感じられる。その顔に刻まれた皺も、ただ年月の流れによって風化されたものではなく、幾年も大切なものを守るために戦い続けた、高潔な戦士の勲章と呼ぶに相応しい。
目つきは力強くも優しげで、その瞳に宿す輝きからは男の高い知性が垣間見えており、屈強な体を飾る白衣が、男がこれまでどのような戦いに身を投じてきたかを物語っていた。
「クルーガー先生、お母様のご容体はいかがですか?」
端整な顔立ちに焦りの色を浮かべて、セルフィーネは男へ言葉をかける。
「本日は少々発作を起こしましたが、今は落ち着いております。ご安心を。ですが安静が必要ですので、本日はホログラム通信を許可することはできません。大変申し訳ありません、セラお嬢様」
申し訳なさそうに瞑目して放たれる声から、年齢とその姿相応の深い響きがもたらされる。ゆったりとした、落ち着いた声から告げられる言葉に、セルフィーネは残念そうに表情を曇らせる。それでも明るい声で、
「謝らないでください、クルーガー先生。先生のお蔭で、お母様のお体もここまで持ち直しているんです。先生には本当に感謝しています。その先生がダメだと仰られるのでしたら、私に不満なんてあるはずもありません」
張り付けられた笑顔は可憐でありながらも目に見えてぎこちなく、本心から出た言葉ではないことは明らかだ。それでも、画面の向こうの医師はそれを指摘することなく、「ありがとうございます」と、深く頭を下げるのだった。
「またメールや、こうして映像通信でお伺いさせていただきます。お母様のこと、よろしくお願い致します」
そうしてセルフィーネが通話を切ろうとしたところで、
「セラお嬢様」
ブライアンがセルフィーネを呼び止めた。セルフィーネは小首を傾げて言葉の続きを待つ。しばし逡巡するように目線を中空へ漂わせていた老医師だったが、やがて、
「最後にこうしてお話させていただいたのが先週のことでしたので、申し上げるのが遅れてしまいました。セラお嬢様、高等部への首席での進学、真におめでとうございます」
老紳士らしい柔和な笑みを浮かべて発せられたのは、心からの称賛の言葉だった。職業柄身に付いたものなのだろうが、その笑みは見る者を安心させる温かなもので、セルフィーネに向けられたその表情や言葉が、彼の本心であることは疑いようがなかった。
驚いたように数度瞬目するセルフィーネであったが、やがて綻ぶように笑顔を輝かせて、
「ありがとうございます、クルーガー先生。けどそのことでしたら、昨日メールでも同じようなことを仰っておられましたよ?」
嬉しそうな笑顔をそのままに、おどけたように言葉尻を上げてセルフィーネは言う。
「おや、そうでしたかな? なにぶんもう私も歳ですので、最近物忘れが……」
演技がかったように目を見開いたあと、笑みを浮かべて悪戯っぽくウインクを一つ飛ばす。この老紳士が昔から(今なお)女性に人気がある理由の一端が分かるほどに、その仕草は茶目っ気に溢れていた。
「そうですよ! まったく、お医者様なのですから、患者の家族を不安にさせるようなことを仰らないでくださいよ、ブライアン・クルーガー先生?」
「いやはや、これは失礼致しました」
そうして二人同時に、耐え切れないというように笑い声をあげる。セルフィーネのこのような笑い声も、笑みも、おどけた言葉や遣り取りも、学校の誰一人として見たことはない。そんな彼女がこうして素の部分を曝け出せることこそ、セルフィーネがこの医師を信頼し、親しく思っていることの証であった。
「学校はいかがですか? 昨日始まったばかりでお答えになるのも難しいかもしれませんが」
「そんなことないですよ。中等部のときよりも授業内容はより専門的になってきましたし、新しい発見の連続です。それだけ私は学ぶ余地があるということですし、そしてそれは、私がより強くなれるということです。
お母様も治療を頑張られています。私も頑張って強い精霊騎士になります。そうすれば、少しでもお母様の手助けになれますから」
笑顔を絶やさぬまま、信頼する老紳士へと思いを告げていく。その言葉をブライアンは、しかし、どこか痛ましいものを見るかのような視線で受け止めていた。
「あの、先生……? 私、何かおかしなことを申し上げましたか……?」
ブライアンの変化に、セルフィーネは戸惑いを覚える。ブライアンは表情に笑みを戻したが、先ほどとは違う色を伴っているのを、セルフィーネは感じ取っていた。
「セラお嬢様、学校は楽しいですか?」
「楽、しい……?」
まるで聞いたことがない言葉のように、たどたどしく繰り返す。そしてしばらく間を置いて、
「楽しいですよ? 新しいことを学ぶことは何よりもタメになりますし、体も成長して、槍術も威力が増して技の選択肢も増やすことができます。自分が強くなることを実感できるのはとても楽し――」
「セラお嬢様。私が申し上げたいのは、そういうことではありません」
静かに告げられた言葉であるが、その言葉の真剣な響きに、セルフィーネは口を噤む。ブライアンは微笑んでいたが、そこに浮かぶ表情はやはり、どこか寂しげなものだった。
「精霊騎士でもない私がこのようなことを言える筋合いはないのかもしれません。ですがセラお嬢様、どうか聞いていただきたい」
諭すような言葉の端々に滲む思いの重さは、数多の患者と向き合い続けてきた、この老紳士だからこそ生まれるものなのだろう。緊張を強いることはなくとも、心に染み渡るような響きのブライアンの声に、セルフィーネは一言も発することができなかった。
「セラお嬢様は大変優秀で、才能だけでなく、向上心を持ち合わせた立派な方です。知的好奇心を満たす喜びを知っておられるため、新しいことを見つけ学ぶことで、『楽しい』とお思いになるのでしょう。それは私にも理解できます」
誠実さを以てセルフィーネに懇々と言う姿は、孫娘に向き合う祖父のように温かで、優しい。だからこそ、彼がセルフィーネのことをどれほど考えて言っているのかを、彼女自身も理解していた。
「ですがそれらのことは、極論から言えば学校などに通わずとも、一人で行おうと思えばできるのです。
セラお嬢様。学生の本分は学業や鍛錬に励むことなのですが、学生のうちだからこそ許される楽しみ、それを誰かと分かち合うことの喜びも得るべきなのです。そのための学校生活なのです。
母君のことを思ってここまで実直に邁進してきたこと、私は理解しております。けれどだからといって、セラお嬢様がそのような、誰もが許される学校生活を捨て去り、犠牲にする必要はありません。
学友と楽しみを分かち合う。
失敗して教師から叱責を受けて共に反省する。
挫折を経験しても、互いに励まし合う。
学生の今だけ許される、取り留めもなくて、だからこそ輝きに満ちた日々は、必ず必要なものです。そうやって誰もが経験すべきものを、どうか、セラお嬢様も掴んでください。そうやって一人であり続ければ、いつかどこかで壊れて――」
「先生」
画面越しの少女から俯き気味に発せられる言葉に、ブライアンは言葉を止める。そして同時に、自身の思いを押し付け過ぎたと思い、その表情を僅かに苦いものへと変えた。
「確かに、先生の仰っていることも理解できます。それに私もそういうの、いいなって思うことだってもちろんありますよ? 同学年の子たちと、一緒にお勉強して、お昼を食べて、お買い物したりお出かけしたりして。楽しいに決まってます。羨ましいなって気持ち、ないわけないじゃないですか」
困ったように苦笑を零すその表情に、ブライアンは何も言えず見つめることしかできない。そうしてセルフィーネが次に続けたのは、逆接の言葉だった。
「ですが、お母様が苦労なされているのに、私だけそうやって楽しむなんてことは、やっぱりできません。シュテルンノーツ家におけるお母様と私の立場は、重々理解しています。お母様がシュテルンノーツ家に置いてもらえるのも、私が精霊騎士だからということも分かっています。
だからこそ、私は誰よりも強い騎士にならなきゃいけないんです。兄様よりも、誰よりも強い騎士に――殿堂騎士にまでなれば、お母様の立場も今よりきっと、ずっと良くなるんです。そう考えたら、私はそんな学生生活を送ることなんてできないです。そこに費やせる時間があるなら、少しでも鍛錬を行って、一刻も早く殿堂騎士となれるように頑張りたいんです。
それに、私は一人ぼっちじゃありません。お母様が居ます。先生が居ます。それから、エーデルブラウ」
セルフィーネがそう告げると、蒼銀の燐光を散らしながら、セルフィーネの精霊が姿を現す。蒼銀の一角獣は主を守るように、セルフィーネの傍らへと体を寄せた。けれども少女を見つめるその視線は、物悲しげに揺れていた。
そんなパートナーの視線に気付いていないのか、セルフィーネはエーデルブラウを見ることもないまま、ブライアンへと笑みを向ける。他の者ならば少女の美貌に目がくらんで見落とすのだろうが、その笑みが疲れたように色褪せたものであることを、彼女の本当の笑顔を知る老紳士は気付いていた。
「私は一人ではありません。だから、頑張れます。お母様も治療だけでなく、シュテルンノーツ家の中で苦労なされているんです。そんなお母様の助けとなれるように、私も、頑張りますから」
「セラお嬢様……! それは……!」
ここまでのブライアンの立居振る舞いは名医と呼ばれるに相応しい、見る者を安心させるような、重く落ち着きあるものだった。しかしそれは、隠し切れぬほどの大きな狼狽によって崩れ去っていた。
それほどまでにセルフィーネが見せる笑みも、放つ言葉も、本人は自覚していないのだろうが、ひどく痛々しいものだった。
シュテルンノーツ家が抱える専属医の一人であるブライアンは、その中でも一番長くシュテルンノーツ家に仕えている。だからこそ、幼少のころよりセルフィーネのことを知っていた。
母共々、父からどれほど疎まれてきたのかを。
父亡き後、後継者である叔父夫婦やその息子から、どれほど無碍に扱われてきたのかを。
使用人からも蔑まれ続け、それでもなお母のためにと、どれほど研鑚を積んできたのかを。
その母ですら、どれだけセルフィーネに理不尽に当り散らしてきたのかを。
そしてそんな、幼い少女が過ごすにはあまりにも過酷な日々であっても。
一切の弱音を零すことなく、知識を、槍の技を磨いてきた少女が、どれほどの高潔な精神を持ち合わせているかを。
だからこそ、今の少女の姿はあまりにも憐れだった。そして今のまま彼女が進んでいくならば、待ち受けるものはあまりにも報われない未来であることを、ブライアンはこの会話でようやく気付かされた。
セルフィーネに対して、声をかけようとして、
「明日も学校で少々野暮用がありますので、今日はこの辺りで失礼します。今後もお母様のこと、よろしくお願い致します」
やや畳み掛けるように早口で言ったあと、セルフィーネは深々と礼をする。その彼女の姿が、ここで切り上げるつもりだとするセルフィーネの意思の表れであることを、敏い老紳士は感じ取った。
「お待ちください! お嬢さ――」
そんなセルフィーネの意思に逆らってブライアンは呼び止めようとしたが、無情にも画面は立ち消え、痛いほどの静寂に奥歯を噛みしめるのだった。