第九章 きゃっ!
第九章 きゃっ!
「明日、退院だよ」
主治医の先生から、回診のとき唐突に宣告された。
うれしさがなかったわけではない。だけど、笑顔にはなれなかった。
「不安かな。だけど、大事な一歩だよ。頑張って踏み出さないと」
黙っている愛理を見て、医者は優しく声を掛ける。
「はい」
短く応える愛理。
不安と同時に、愛理は困ってもいた。
自分が完全な記憶喪失で、なにもわからないなら困りはしなかったかもしれない。
しかし、自分は稲本啓太、男だという記憶がある。それなのに、憧れていた、或いは片思いといってもいい、そんな双海愛理の家に、愛理として帰るのだ。
二年間愛理として暮らしてたといわれても、その記憶はない。他人の、女の子の部屋で自分が暮らすなんて、考えただけでも難しかった。
しかも、知らない人を家族だとして、一緒に暮らすのだ。息が詰まりそうだった。
そのあと、母親が到着すると、退院後の注意事項や、傷口の消毒の仕方、薬の付け方などいろいろな注意を聞かされた。
途中、千鶴と里穂がやってきたのだが、説明を聞かされている途中だったので、すぐに帰っていった。ただ、退院の報告を聞いて、すごく喜んでいた。
翌日、愛理は母親と一緒にタクシーで、彼女の家に向かった。
家に到着しても、帰ってきたという実感はない。他人の家だ。
誰もいない家の中は、蒸し暑かった。
「何か飲む? お茶入れてあげようか?」
「うん」
答えた愛理は、居場所が見つからずリビングに立ったままだった。
「立ってないで、こちらに来て座りなさい」
母親が優しく言って、椅子を引いた。
言われるまま、椅子に座る。
入れてもらった麦茶を、愛理はゆっくりと飲んだ。
病院からの荷物を一通り片付けた母親が戻ってきた。
「あ、あの……」
なんと呼びかけていいかわからず、そう言った。
お母さんと呼んでもらえず、母親は寂しそうな表情をするが、すぐに優しい表情に戻る。
「なに?」
「自分の部屋に行ってもいいですか?」
愛理自身、他人同士の会話だと気付きながらも、家族だと思えない以上、それ以外の言い方はできなかった。
「もちろん…… ごめんなさい気付かなくて。分からなかったのね。お母さんなんだから何でもいってくれていいのよ」
母親は、家の中を案内しながら、二階にある愛理の部屋へと連れて行った。
何処を見ても思い出すことは何もなかった。
部屋のドアを開けると、そこは女の子の部屋だった。
派手な飾りはなくて落ち着いてはいるが、自分好みの部屋ではなかった。
「お昼ごはんができたら呼んであげるから、ゆっくりしてなさい」
母親はそう言って、愛理を一人にしてくれた。
愛理は椅子に腰を下ろす。
他人の物に黙って触れるみたいで何もできず、そのまま、部屋の中をただ眺め回した。
ベッド、勉強机、クローゼット、カーテン。何も覚えていなかった。思い出せない。
こんなところで暮らせるのだろうかと、心配になった。
もし、純子がいたらきっと、いろいろ教えてくれたに違いない。ここはもともと彼女の部屋なのだから。
しかし、今の純子とは会いたくもないし、口もききたくなかった。
母親に呼ばれて、愛理はダイニングへ降りた。
「あら、着替えればいいのに」
同じ服装のままの愛理を見て、母親が言う。
言われて、そうすればよかったと気付く愛理。しかし、女の子がこんなときどういう服を着ればいいのかなんて、分からない。
「分からないんです。何をすればいいのか、何を着ればいいのか」
「気付いてあげられなくて、ごめんなさい。ご飯の後見てあげるわ。それに家族なんだから、遠慮しないでなんでも言うのよ」
母親は優しく言うが、愛理には家族だとは感じられなかった。
夜、父親が仕事から帰ってきた。比較的早い時間に帰ってきたのは、娘の退院を理由にしてで、明日からは、遅くなるのだそうだ。
退院祝いと称して新しい携帯電話を買ってきていた。同じ機種だった。
元気のない声で「ありがとう」といって、愛理は受け取る。
古い携帯電話は、電源は入るものの、壊れていて、データの移し変えができなかったそうだ。
だから、番号やメールアドレスは引き継いでいるものの、アドレス帳はまっさらの状態だった。クラスメイトたちには携帯電話が壊れているのは、連絡が回っているのだろう。だから、入ってくるメールはなかった。
晩御飯の席で、父親はとにかくとてもうれしそうに「よかった」を何度も口にした。入院中は、一度顔を見に来た程度で、忙しそうに帰っていっただけだったので、そんな父親の様子は、愛理にとって少し予想外だった。
晩御飯の後、少ししてお風呂が沸くと、母親は愛理の着替えを用意して、お風呂に入るように促した。
憂鬱な時間だ。それでいて複雑な気分になる時間でもある。
脱衣場の入り口の前に洗面台があり、愛理はしばらくの間、自分の姿を見つめる。
自分でない自分を見るのは、嫌だった。
入れ替わる前、愛理がまだ啓太だったとき、啓太は愛理のことをよく知らなかった。ただ、かわいい子だな、付き合えたらいいな程度だった。愛理のあまりよくない評判だとかは、何も知らなかった。単純に見た目が啓太の好みだった。それだけだ。
そんな自分好みの顔が、今鏡に写っている。
しかしそれが自分の顔、これからこれが自分の顔だと思うと、かわいいなんて見とれている気分ではなかった。
しかも、顔だけではないのだ。
これから肉体と向き合う時間なのだ。
脱衣場に入る。
着替えをかごの中に入れると、愛理は深くため息をついた。
脱いだ服は洗濯機へと放り込んでゆく。
脱ぐたびに、目のやり場に困って行く。
誰がとがめるわけでもないのに、自分が憧れた少女の裸を見ているということに、罪悪感はなくせなかった。
最後のショーツは、余所見がちに脱いでゆく。
事故から一週間ほどたって、だいぶ見慣れたといっても、まだ自分の体という認識はもてていなかった。
ショーツも洗濯機に放り込むと、浴室のドアを開ける。
蒸し暑さが、一気に愛理を襲う。
かかり湯をして湯船につかる。
乳房に浮力がかかり、ヘンな感じだ。目を瞑ってみても、その感覚は消えない。
愛理は、そんなことを感じながら、一分ちょっとで、湯船からあがった。
身体を洗おうと石鹸を探すがなかった。代わりにボディソープを見つける。
それをタオルにつけて、泡立てる。
愛理は、さしさわりのない、手、背中、足と洗っていく。
啓太だったときと同じように、ゴシゴシと洗うと痛いくらいなので、撫でるようにやさしく洗う。
『女の子の肌は敏感なんだな』
そう思いながら、これから洗うところをどうしたものかと考える。
考えていても洗わないわけにはいかない。仕方なくタオルを動かす。
余計なことは考えず、タオルを滑らせる。
ヨケイナコトハカンガエズ……
『余計なこと ……、……。ダメだ』
細かな泡が、敏感な胸の皮膚を滑らかに刺激する。
「ハァ」
男だったならとっくに下半身が大きくなっているところだろうが、愛理は今は違う興奮を下半身の中に感じる。
タオルは左手を残し、おへそを過ぎて、下腹部へと移る。
しばらくためらうように下腹部を撫でる。
愛理は膝で立つと、タオルを両脚の間へと進ませる。
二、三度タオルを往復させた後、素手に変える。
啓太の体にはなかった形状が、啓太の体には戻れないことを愛理に再確認させる。
『この体は、もう自分のものなんだ。だったら……』
「うぅっ」
声が漏れて、愛理は『ダメだ』と思い直した。
事故の後何度目だろうか。自分が情けないと愛理は感じた。
愛理は、蛇口のお湯でタオルを洗うと、シャワーに切り替えた。
「きゃっ!」
シャワーのホースに残っていた水を被って、思わず声を発した。
『女の子の声だ』
そう思うと「ハァ」とため息が漏れた。
シャワーで体の泡を洗い流し、髪の毛をぬらす。事故以来ちゃんと洗ってないので、べたつきを感じていた。
退院後は傷口に気をつけてシャンプーしても良いと言われていたので、今日はシャンプーで洗うことにした。
シャンプーをつける前に、傷口を確かめる。左手で耳の上辺りから後頭部にかけて斜めに縫った後をなぞってみる。触ると少し痛みが残る。縫い傷の周りは髪の毛が切られていて、短い毛がチクチクと指に触れた。
愛理はその場所を避けてシャンプーをした。背中まで達する髪先は指でしごくようにしてみる。
「これでいいのかな……」
ちゃんと洗えているか心配だった。
シャンプーを洗い流すと、再び湯船に浸かる。
ふと、純子はどうしているだろうと思った。
入れ替わりのことなんて言わなければ、純子と自分は親しい関係のままだったはずだ。
いや、記憶喪失にならなければ、純子に聞くまでもなく自分は入れ替わりのことを知っていたのに、純子とは親しい関係のままだったらしい。
純子は罪滅ぼしのため愛理の世話をしているようなことを言った。
記憶喪失の前の自分は、純子を許していた? そもそも純子に責任があったのだろうか?
記憶のない愛理には分からないことだった。
そして、きっかけとなった里穂の言葉を思い出す。
生徒手帳にはさんだ啓太の写真。
そのことに思いが及んだとたん、愛理はその写真が気になりだした。見てみなくては治まりそうにない。
愛理は急いで風呂から上がった。